源頼朝と源義経との確執の発端『立場』に対する認識のズレ

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 世の中には、組織の後方に在って「内務・庶務」を取り仕切るようなバックアップ(後方支援)を得意とする官僚的および政権運営に通じた人物、そして一方では、現場で縦横無尽な働きをして自勢力の拡大に貢献することに長じる将官型のような現場向きの人物も存在します。敢えて、プロ野球世界で譬えるなら野球球団で活躍する選手を雇用するなどの組織運営する「ゼネラルマネージャー(GM)」(官僚型)、球団が揃えてくれた選手たちを上手く使い、実戦でチームを勝利に導く役を担う「監督」(将官型)のような存在でしょうか。
 日本史に関わらず中国史でも、上記の2タイプの人材が絶妙な対を成して大業を成す、という事例が幾つか確認できます。中国大陸では、紀元前202年の楚漢戦争期を勝ち抜き、漢王朝(前漢)を樹立した初代皇帝・「劉邦(将官型/現場型)」とその宰相・「蕭何(官僚型/後方支援型))」の組み合わせがあり、日本の戦国史では、大友宗麟や龍造寺隆信といった強豪を撃破し、九州地方の覇権を確立した薩摩の戦国大名「島津義久(官僚/後方支援)」と、その弟「島津義弘(将官型/現場型)」、更に江戸幕末期の薩摩藩(島津氏)を主導した「西郷隆盛(大西郷、現場型)と「大久保利通(官僚型)」の組み合わせも、現場型と後方支援型の良き典型例と言えるでしょう。


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 戦国期の島津兄弟や江戸幕末の西郷・大久保ペアは、現場担当者と内務担当者が上手く融合して、覇業を成し遂げた典型的な組み合わせでありますが、その先駆け的存在が源平合戦期(平安末期)、東国の相模鎌倉おいて武家政権を確立するために尽力している内務担当の「源頼朝(この場合は組織の司令塔と言うべきでしょうか)」と、平氏軍を追討するために戦場を疾駆する現場担当の「源義経」の兄弟ペアではないでしょうか。
 周知の通り、平安末期、坂東の「農民身分(厳密に言えば農地開墾領主)」に過ぎなかった数多の武士団の推戴を受けて、日本史上初の最大武家政権を樹立させた源頼朝は、(後世、世界史上稀にみる長期武家政権の礎を築いた徳川家康が私淑するほどの)、政治力や組織創りに非凡な才能を発揮する反面、千軍万馬を指揮して敵を打ち破る軍事的才能には恵まれませんでした。そして、その源頼朝の欠乏した軍事的才能を補うことになったのが、奥州平泉から馳せ参じた頼朝の異母弟の源義経でありました。(結果的に、頼朝の軍事面を補佐するどころか、それを乗り越えるような大活躍を源義経はしていまい、それが彼自身の悲劇の発端となるのですが)
 源氏の仇敵であり、その軍事力のスポンサーである東国武士団にとっても憎悪対象となっていた平氏(西国政権/朝廷を壟断する勢力)が存在している、即ち1185年の壇ノ浦合戦終結までは、後方の鎌倉にて武家の組織創りに勤しむ頼朝と現場にて戦う軍事指揮官の義経の2人関係は(表面的には)機能していましたが、源頼朝と源義経兄弟・武士団の3者共通の宿敵・平氏が滅亡した後は、周知の通り、義経は戦時中に独断専行な態度によって梶原景時を筆頭とする東国武士団らの強い反感を買った上、義経の異母兄の鎌倉殿・頼朝にも遂には見放される羽目になっています。
 源頼朝の宿敵である木曾義仲、次いで時の覇者・平氏を天才的軍事能力によって討滅した英雄・源義経とその郎党が、頼朝から追及を受けて忽ち追われる立場となり、所縁の地である奥州平泉(奥州の藤原秀衡)を目指して逃避行し、その道中の日本海側の各地にて義経伝説を遺しています。
 その筆頭的好例が、能楽や歌舞伎、映画などでお馴染み『安宅』と『勧進帳』であります。源義経の郎党の1人・武蔵坊弁慶が、安宅関の関守である富樫左衛門(富樫泰家)と対峙する物語が有名ですが、これは加賀国、現在の石川県小松市の安宅が舞台となっております。また安宅の近郊(同県加賀市)にも、尼御前という名前が付いた岬がありますが、これは義経一行の中に、尼御前という女性が同行していましたが、彼女は警備が厳しい安宅関を抜けるのには自分は義経の足手まといになることを憂い、岬から投身自殺したということから、その岬は尼御前と呼ばれるようになりました。
 石川県の隣県で、筆者の出身地である富山県(越中国)の北西部に位置する高岡市内に「雨晴海岸」(現在:国指定公園)という県下で有名な景勝地があります。特に湿気の少ない冬季の快晴時、同地にある女岩(富山湾)と雄大な立山連峰の両方を眺めることができるのが本当に素晴らしいく、その付近には、奥州へ逃避行中の源義経や弁慶ら一行が、雨宿りしたと伝わる岩山「義経岩」もあります。その伝承が由来となりその海岸線一帯を「雨晴海岸」と呼称されるようになったのです。
 もし上記の雨晴海岸伝説が史実であるならば、雨が止み晴れた海岸線を見た源義経一行は、その風光明媚な景観に感嘆したことでしょうが、彼らの心底は、愉しく景色を晴れ渡るような気持ちで眺めることは、叶わなかったことでしょう。外界は雨晴れになったのですが、反逆者として追われる身となっている義経の心中は未だ「不愉快な暴雨」となっていたのではないでしょうか。むしろ源義経本人こそが、源頼朝を頂点とする武家政権(鎌倉勢力)という暴力的な豪雨に追い回されていた、と言い換えていいかもしれません。


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 源義経が、武家政権という日本史上稀に見る暴雨に迫害されるようになった主因として、以下のようなことが定説となっていました。

・平氏征討の際の軍監・梶原景時の「讒言」を、鎌倉に在住する源頼朝が真に受けてしまったため。
・天才的な軍事能力を持つ舎弟・源義経に、頼朝が強い「妬心」を抱いたため。

 小説や創作では、上記の理由を主軸にして源頼朝・源義経兄弟の対立を描くことも面白いと思いますが、史実は、讒言や頼朝の妬心といった単純かつ感情的なものではなかったのです。(もしかしたら、少しはそのような感情的な原因もあったかもしれませんが、主因とはならなかったでしょう)
 源氏の宿敵・平氏軍を討滅した第一功労者である源義経が、異母兄にして武家政権の棟梁である源頼朝に追討されることになった主因は、『兄弟間の認識のズレ』にあったのです。
 源頼朝・源義経の兄弟間の認識、箇条書きでまとめさせて頂くと、以下の2つのことが挙げられますので、この3つを基軸にして今後の記述を進めていきたいと思います。

⓵鎌倉武家勢力内での『立場』に対する認識。
⓶『京都朝廷』に対する認識。

源頼朝と源義経兄弟の認識のズレを、改めて箇条書きでまとめてみると、何とも項目が少ないですが、上記の2つの兄弟間の認識のズレがあったからこそ、2人の間に対立が生じてしまい結果、義経は悲劇の英雄となり、頼朝は自身の血縁者でも容赦なく斬り捨てる冷酷無情の政治家、というイメージが後世に遺ることになるのであります。そして、今回は先ず⓵の源頼朝・義経兄弟が抱いていた『立場』に対しての認識のズレについて記述させて頂きたいと思います。

 ⓵源頼朝と源義経の鎌倉武家勢力内(東国武士団)での立場。

 平治の乱(1160年)の敗北により、鄙の伊豆国で流人(政治犯罪者・無一文)として約20年間も過ごしていた武家貴族の源頼朝が1180年(頼朝35歳)、当時の西国政権(平氏と平清盛、彼らが牛耳る朝廷)に不満を持っていた東国武士団/坂東武士たちの旗頭として推戴され、伊豆・相模・房総など南関東一帯を転戦した後、日本史上初となる本格的武家政権の棟梁、即ち「鎌倉殿」として武士団に迎え入れられたことは、周知の通りであります。この経緯は、今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれていました。
 以前の学校の授業では、あたかも源頼朝が率先して、妻・政子の実家・北条氏、三浦氏や土肥氏といった東国武士団をまとめ上げて、忽ち坂東地方に一大勢力を構築したように教えられたものでありますが、真相は真逆であり、先述のように、当時の首都圏・畿内を抑える西国政権によって、経済的と精神的に虐げられ続けられていた東国武士団が、その現状打破(悪く言えば西国政権への反逆)のために決起。その旗頭/象徴として彼らに迎え入れられたのが流人の境遇であった通称:佐殿のこと源頼朝でした。
 貴種ではあるが流人であり、それまで全く財産も家臣も有していなかった源頼朝が、独立心旺盛でクセのある東国武士団に対して、強いリーダーシップを発揮できるわけはなく、頼朝は武士団をまとめるための偶像的存在、即ち「アイドル(idol)」に過ぎませんでした。
 上記の源頼朝が東国武士団によって決起の象徴として迎え入れられた状況を、NHK大河ドラマ『草燃える』(第17作)の原作者である永井路子先生は、著書『源頼朝の世界』(中央文庫)で、頼朝のことを『東国武士団の旗上げ行動の統一的シンボル』として位置付けた上、以下のように書き進めています。
 
 『(筆者注:東国武士団決起の時)源頼朝は周囲に面倒を見られ放しなのだ。先頭に立って動くよりも、まわりがどんどんお膳立てを進めてくれる。その中で彼はごく自然に振舞う

(以上、「挙兵の『旗』として文中」より)


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 伊豆での挙兵、石橋山での惨敗、房総半島での再起、そして東国武士団の棟梁としての鎌倉入り。これらの目まぐるしいほどの日本史の大転換を、わずか約40日の間で体感した東国武士団とその旗頭・源頼朝。この頃から永井路子先生の言う『周囲に世話を焼いて貰う存在』であった源頼朝に、少し変化が現れたと永井先生は書いておられます。

 『源頼朝からは何もせずに、周囲から世話を焼かずにはいられなくなるというあたりはまったくそのままだ。ただ違うのは、「世話を焼いてもらう」という趣きだったのが、以後は彼のほうで「世話をさせてやる」というふうになったことだろうか。が、これは、あるいは王者にとっては必須条件なのかもしれない。』
 
(以上、「王者の条件」文中より)

 東国武士団のシンボルとして鎌倉入りを果たした頃の源頼朝を、永井路子先生は「周囲から世話をしてもらう」から『世話をさせてやる』という存在になった、というように書いておられますが、では頼朝が持つ不思議な魅力?の『自分の世話をさせてやる』とはどういうことなのか。それは『源頼朝の世話のさせ方のうまさは一口でいえばバランスのとり方にある』と評しておられます。
 源頼朝のバランスのとり方の上手さ、というのは(筆者なりに)簡潔に述べさせて頂くと、東国武士団に対する「人事/組織創り」の上手さです。独立心旺盛かつ自分(一族)の利益のみに強い執着心をも抱く東国武士団が、旗の源頼朝の下、きゅう然となっている中で、もし頼朝が特定の武士(例えば「北条のみ」とか「千葉のみ」といった状態)を寵用すれば、他の武士たちの反感を買ってしまい、忽ち東国武士団は内部崩壊をする可能性があります。
 源頼朝は、全東国武士団のための公平に立つ「旗頭(鎌倉殿)」として、身贔屓や身勝手な感情を抱くことを強く戒め、自分を奉戴してくれている武士団こと「御家人」の調整役や裁定役を果たし、武士政権の礎(永井路子先生は『東国ピラミッド』と称されています)を築いていったのであります。
 表面上は、東国武士政権の旗頭・鎌倉殿として君臨し、武士団の人事権や生殺与奪権を独占している源頼朝ですが、実は武士政権の本当の主人公は、鎌倉殿である自分自身ではなく、三浦・和田・千葉といった東国武士団であるということを、身をもって知っていたのです。間違っても源頼朝の権勢は、後年『朕は国家なり』と謳われた17世紀のフランスに君臨したルイ王朝(特にルイ14世)のような絶対的君主では無かったのであります。
 上記の微妙な鎌倉殿・源頼朝の立ち位置に対する認識のズレを起こしてしまい、東国武士団の中で浮いてしまう存在になったのが、頼朝の舎弟・源義経であります。
 源頼朝が東国武士団と共に決起した後、それまで奥州平泉に君臨する藤原秀衡の庇護の下にいた青年武士の源義経が、異母兄・頼朝の下へ馳せ参じたことは有名であります。いわゆる義経は、源頼朝と東国武士団が立ち上げたばかりの東国武士政権へ中途加入した形になるので、当初から、前掲の如何なる経緯で東国武士団が音頭取りとなって、創り上げた武士組織の構造を理解するとは難しかったかもしれません。
 源義経は、「自分は東国武士団の棟梁・源頼朝の血縁者であるから、他の武士(御家人)たちとは格が上である」という滑稽な誤認識を起こしてしまい、武士政権の主人公であるはずの武士団に対して傲岸な態度を採ったのであります。即ち源義経は、異母兄の源頼朝が武士政権の主人公であり、その眷族である自分も準主役であると思い込んだのです。そのような認識のズレを抱いた源義経が、東国武士団に対して不遜な態度を採った、という傍証は幾つか確認できます。
 真っ先に思い出すものは、源義経が源頼朝の代理大将として平氏征討へ出陣した際、義経軍に配属された軍監(監視役)の御家人・梶原景時を含める東国武士団との対立であります。
 梶原景時が、源頼朝に対して「義経殿は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いです」という義経にとって不利な現状報告、いわゆる後世まで讒言と受け止められるような行為をとったことは、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」に書かれてあり周知の通りです。
 讒言とは、事実を曲げてまで上官(この場合、源頼朝)に対して、対象者(同、源義経)を貶める意味ですが、梶原景時は軍監(文字通り、軍を監視する役目)として、代理大将・源義経、彼に従軍している東国武士団の間柄を報告したに違いありません。
 事実、後に源義経が、鎌倉殿・源頼朝に色々なことを咎められ、放逐処分にされた際、義経と共に平氏戦線に出撃した東国武士団は誰一人、義経を擁護(或いは、それをする気配)していません。やはり梶原景時が報告した通り、源義経は源頼朝の血縁者、源氏軍の大将であるという驕った認識があったのでしょう。(尤も、梶原景時本人が、源義経と一番対立した人物でもあり、景時の心中には義経に対する憎悪もあったかもしれませんが)
 まだ、東国武士団の中における源義経の認識のズレを思い起こさせる有名な逸話が、もう1つあります。それは、義経が未だ木曾義仲・平氏征討に出陣する前の鎌倉在住期における『馬曳き騒動』であります。この逸話(騒動と言うべきか)も、源義経を語る上では有名なものであります。
 代々源氏ゆかりの地である鎌倉を本拠と定めた直後の源頼朝が、先祖・源頼義が鎌倉由比ヶ浜に建立した八幡宮(由比若宮)を、丘陵地の小林郷北山へ遷宮および大改築しました。これが現在の鶴岡八幡宮であるということは有名ですが、源頼朝は、源氏の守護神である八幡神を祀る八幡宮を大々的に遷宮・改築することで、自分こそは源氏の棟梁の正統性を天下(特に、甲斐武田や常陸佐竹などの諸国の源氏勢力)に示したのであります。


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 源頼朝の命によって、鎌倉北山の地に八幡宮が遷された際に社殿建築に携わったのは、当時でも東国の宗教中心地であった武蔵国の金龍山浅草寺に属する宮大工たちでした。そして、源頼朝が鎌倉入りを果たした約10ヶ月後の1181年7月20日、鶴岡八幡宮が無事落成、その宝殿棟上げ式典の際、造営に携わった宮大工は頼朝から褒賞として駿馬を賜ることになりました。そして源頼朝はその馬曳き役に、御家人の畠山重忠、佐貫広綱、舎弟の源義経に命じました。
 先述のように、「自分は鎌倉殿の連枝として、特別な身分である。他の御家人たちとは格が違う」というように立ち位置を誤認識している源義経にとっては、御家人と一緒に馬を曳く、というのは屈辱的な役目でありました。その源義経の気持ちの証左として彼は「今、馬を曳かせる自分の郎党がいませんからご容赦下さい」と源頼朝に反駁すると、頼朝が「畠山重忠といった御家人が馬を曳いているのに、それを卑しいと言って断るか!」と激怒、義経はそれに頗る恐怖して、馬2頭を曳いたと言われています。
 上記の逸話が、いわゆる馬曳き騒動であり、『吾妻鏡』にも記されている有名なものであります。作家・司馬遼太郎先生は『街道をゆく42 三浦半島記』にて、この騒動についても以下のように触れられておられます。

 『頼朝は、浅草からきた工匠に対し、馬を与えようとし、義経にむかって、「馬を引け」と、命じたのは、有名な話である。義経は鼻白んだ。匠のために馬を引くなど、家人のやることではないか。(中略)かれは、頼朝の連枝として坂東の御家人よりは一格も二格も高いと思っていた。
 その思想は、頼朝にとって足もとを崩すほどに危険だった。頼朝はただ一人でもって、坂東武士団の推戴をうけて世に立っている。主役は、坂東武士である。その頼朝が、自分の眷族を王族であるかのようにあつかえば、武士たちの信頼をうしないかねないのである。(後略)』
 
 『頼朝が、異母弟に馬を引かせたことは、演劇的演出ながら、後世でいう政治演説であり、頼朝の鎌倉政権論の一大開陳であったといっていい。』

(以上、「“首都”の偉容」文中より)
 
 司馬遼太郎先生は、源頼朝が舎弟の源義経に馬を引かせたのは、武士政権の主人たる東国武士団(御家人)たちに対して、源義経は我が弟ながらも、弟にあらず。あなた達と同格である、ということを示す政治的パフォーマンスであるとしておりますが、そのこと(司馬先生は『頼朝の本意』と書かれています)、『義経は生涯理解できなかったと思われる』とも述べられています。即ち源義経が『軍事の天才ではあるが、政治力は皆無である』と評せられる所以であります。
 馬曳き騒動後、源氏軍の大将として対平氏戦線で圧倒的な活躍をする源義経が、源頼朝や東国武士団を等閑にして独善的な行動を採り続け、永年東国武士団を虐げてきた旧態(律令体制)の京都朝廷側に寄り付くような政治的態度を示したため、頼朝の逆鱗に触れ放逐されてしまう義経の顛末を鑑みるに、彼には東国武士政権理念(所領安堵)や構造を理解するほどの政治的能力は乏しかった、と思うことを禁じ得えません。
 敢えて源義経の弁護をさせて頂くと、もしかしたら彼にも東国武士団の理念を解るほどの政治的才能を持っていたかもしれませんが、武士の首都として発展しつつある鎌倉に居る期間も数年と短く、そこで東国武士団と交流して彼らの心情を理解するための時間が無く、西国へ出陣したことが義経の後々の不幸の遠因となったかもしれません。
 尤も、20年間も東国で流人生活を送り、伊豆や相模の東国武士団と長い交流を持ち、彼らの心情を深く理解していた兄・源頼朝に比べ、源義経は、京都北郊の鞍馬寺で少年期を送り、源氏の宿敵・平清盛とその一門衆が京都朝廷を壟断して、繁栄を謳歌しているのを間近で見ており、更に青年期には、奥州藤原氏の拠点・平泉で過ごした後に、漸く坂東へ下って頼朝と東国武士団に参入しているのであります。
 即ち、源義経は京都では平氏一門、奥州平泉では藤原三代の繁栄と殷賑ぶりを直に体感しているのであり、大袈裟に言えば、義経はそれが社会的常識と思い、鎌倉殿として東国武士団の棟梁となっている源頼朝の弟である自分も、源氏一門として扱われることが当然であると錯覚してしまったのです。
 以上のように源頼朝・義経兄弟が、最も人格形成に大きな影響を与えると言われる少年~青年期に過ごした地理的環境の違いが、本記事の主題である「立場」に対する認識のズレが生じてしまった主因と思われます。
 源義経が源頼朝の代理大将として、西国へ出陣することなく頼朝の下で過ごし、時間をかけて御家人と関わっていたならば、義経が抱いている立場の誤認識も矯正されたかもしれませんが、先述のように、義経は西国へ出陣し、主な活動拠点を朝廷の本拠地である京都にしてしまうので、認識のズレは矯正されないばかりか、より悪化してしまい、東国武士団を纏める兄・源頼朝との確執は決定的なものになっていくことになります。そして、今度の源頼朝・義経兄弟の認識のズレの対象は、『京都朝廷』に対してのものでした。
 東国武士団をはじめとする全国の武士が時代の主役として台頭していく中で、長らく武士団や農民らを酷使して、国々の権益を独占してきた京都朝廷や大寺院。それらの旧体制勢力における当時の最高権力者が、源平争乱と源頼朝・義経兄弟の対立の主因を創り上げた「日本一の大天狗」(三谷幸喜先生は「中世日本最大のトリックスター」と称しています)と頼朝から揶揄された後白河法皇であることは周知の通りでございます。


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 源頼朝・義経兄弟の京都朝廷に対する認識のズレを衝いて、後白河法皇は策略を以って、軍事の天才・源義経を京都陣営に取り込み、京都朝廷の権益(荘園の領有権など)を侵食してくる武士団の棟梁・源頼朝に対抗しようと試みようします。
 京都朝廷一辺倒の旧時代から新興勢力・武士が築く時代を創ること、即ち『天下の草創』を目指す『改革者・源頼朝』、その異母弟にして、天才ながらも旧体制を是とする『源義経』、そして、親京都朝廷寄りの義経を取り込み武士の世の出現を阻もうとする『後白河法皇と京都朝廷』。この三者の三つ巴の主因も、源頼朝・義経兄弟に横たわっていた京都朝廷に対する認識のズレにありました。次回は、その事について、追っていきたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

源頼朝と東国武士団たちの挙兵の目的は「平氏討滅」と「西国政権」からの独立戦争であった
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