北海道・北東北の縄文時代
日本列島の歴史において、約15,000年前から約2,400年前までの時期を「縄文時代」と呼んでいる。縄文時代の前の旧石器時代は寒冷な気候が長く続き、縄文時代の後は稲作農耕が普及した弥生時代となる。
世界文化遺産に登録された縄文遺跡群が所在する北海道・北東北の地域は、山地、丘陵、平地、低地など変化に富んだ地形で、内湾や湖沼、水量の豊富な河川も流れている。
ブナ林を中心とする落葉広葉樹の森林が広がり、海洋では、暖流と寒流とが交差し豊かな漁場が生まれ、サケ・マスなどの回遊魚が遡上(そじょう)していた。
こうした恵まれた環境のもとで、この地の縄文時代の人々は食料を安定して確保し、約15,000年前には土器を製作・使用することで定住生活を始めた。
その後、1万年以上にわたって、気候の温暖化や寒冷化、それに伴う海進・海退などの環境の変化に適応しながら、採集・漁労・狩猟を基盤とした生活を継続したのである。
また、墓地の存在や祭祀・儀礼の場である捨て場や盛土、環状列石などから、定住生活を始めた初期から精緻で複雑な精神文化を構築していたことも分かる。
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北海道・北東北の縄文遺跡群は、1万年以上にわたり採集・漁労・狩猟により定住した縄文人の生活と精神文化を今に伝える貴重な文化遺産として、2021年(令和3年)年7月27日、世界文化遺産に登録された。
北海道・北東北の縄文遺跡群は、北海道6遺跡、青森県8遺跡、岩手県1遺跡、秋田県2遺跡の合計17遺跡で構成され、加えて関連資産が北海道と青森県にそれぞれ1遺跡の計2遺跡がある。
17の構成遺跡は集落の展開と精神文化のあり方の発展糧に基づき、「定住の開始」・「定住の発展」・「定住の成熟」をそれぞれ2つに分けた、「居住地の形成」「集落の成立」「集落施設の多様化」「拠点集落の出現」「共同の祭祀場と墓地の進出」「祭祀場と墓地の分離」の6つのステージに分類されている。
次項で各ステージの時期や特徴、構成遺跡の所在地、交通アクセス、特徴的な遺構・遺物などについて整理した。
なお、交通アクセスについては一部を除き公共交通機関による方法を紹介している。
居住地の形成
紀元前13000年頃~紀元前7000年頃、土器の使用が開始された時期で、構成遺跡は「①大平山元(おおだいらやまもと)遺跡」である。
<①大平山元遺跡>
「大平山元遺跡」は青森県津軽半島の外ヶ浜町に所在し、陸奥湾に注ぐ蟹田川沿岸の標高約26mの河岸段丘上に立地する。
ガイダンス施設の「外ヶ浜町大山ふるさと資料館」が大平駅(JR津軽線)から徒歩約5分の所にあり、「大平山元遺跡」へはそこから徒歩約5分である。
「大平山元遺跡」からは、旧石器時代の終わりごろの特徴を持つ石器群とともに、土器片と石鏃が出土している。
土器片付着の炭化物の年代測定(放射性炭素年代測定)の結果、紀元前13,000年頃のものであることが明らかとなり、遺跡の現在のところ北東アジア地域で最古級の土器と考えられている。
土器の出現は、移動生活から定住生活へ変わったことを伝えている。
集落の成立
紀元前7000年頃~紀元前5000年頃、居住域と墓域が分離、独特な墓制が成立した時期である。
構成遺跡は「②垣ノ島(かきのしま)遺跡」で、関連遺跡としては「長七谷地(ちょうしちやち)貝塚」がある。
<②垣ノ島遺跡>
「垣ノ島遺跡」は北海道南西部、渡島(おしま)半島東岸の函館市南茅部(みなみかやべ)地区に所在し、太平洋をのぞむ海岸段丘上に立地する。
「垣ノ島遺跡」へは、函館駅(JR函館本線)から函館バス「鹿部」「古部」「椴法華」行きで約90分の「垣ノ島遺跡下」下車し徒歩約5分であり、隣接してガイダンス施設の「函館市縄文文化交流センター」がある。
「垣ノ島遺跡」は竪穴建物による居住域と、土坑墓からなる墓域が分離されており、日常(居住域)と非日常(墓域)の空間が区別されている。
遺物は漁網用の石錘が多く出土しており、この地域特有の遺物として、子どもの足を押しつけた足形付土版が墓に副葬されている。
また、紀元前2,000年頃に構築された長さ約190mの「コ」の字形をした国内最大級の盛土(もりつち)遺構も確認されている。
〈長七谷地貝塚〉
「長七谷地貝塚」は青森県東部の八戸市に所在し、五戸川沿岸の標高約10~20mの丘陵末端部に立地する。
「長七谷地貝塚」へは陸奥市川駅(青い森鉄道線)から徒歩約25分、ガイダンス施設の「八戸市博物館」へは八戸駅(JR東北新幹線)から南部バス「中心街(田面木経由)」行きで約15分の「根城(博物館前)」で下車する。
「長七谷地貝塚」は紀元前6,000年頃の貝塚を中心とする集落遺跡で、貝塚は気候の温暖化により最も海水面が高くなった時期に形成された。
貝塚からは、ハマグリなどの多量の貝殻や魚・動物の骨、多量の土器と石器、石製品、土製品、多種類の骨角器が出土している。
出土遺物からは縄文時代の早い段階で海洋資源に合わせた漁労がおこなわれていたことが分かる。
集落施設の多様化
紀元前5000年頃~紀元前3000年頃、集落の施設が充実、祭祀場的な捨て場が形成された時期で、構成遺跡は「③北黄金(きたこがね)貝塚」・「④田小屋野(たごやの)貝塚」・「⑤二ツ森(ふたつもり)貝塚」の3遺跡がある。
<③北黄金貝塚>
「北黄金貝塚」は北海道南西部、内浦湾東岸の伊達市に所在し、標高約10~20mの丘陵上に立地する。
「北黄金貝塚」へは黄金駅(JR室蘭本線)から道南バス「伊達駅前」「洞爺湖温泉」行きで約5分の「北黄金貝塚公園前」で下車、遺跡と隣接してガイダンス施設の「北黄金貝塚情報センター」がある。
「北黄金貝塚」からは、竪穴建物、墓、貝塚、水場遺構など多様な施設が確認されており、貝塚からはハマグリ、カキ、ホタテなどの貝類や、マグロ、ヒラメ、オットセイ、クジラなどの骨が多数出土している。
発見された遺構や遺物は海進・海退などの環境変化に適応した漁労を中心とした暮らしぶりを伝えている。
また、低地にある水場遺構からは、意図的に壊されたすり石や石皿が多数出土しており、石器の廃棄に伴う祭祀・儀礼が行われたと考えられている。
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<④田小屋野貝塚>
「田小屋野貝塚」は青森県津軽半島のつがる市に所在し、岩木川沿岸の標高約10~15mの丘陵上に立地する。
「田小屋野貝塚」へは五所川原駅(JR五能線)から弘南バス「五所川原~市浦庁舎線」行きで約35分の「田小屋野」で下車、徒歩約3分であり、ガイダンス施設の「つがる市縄文住居展示資料館(カルコ)」へは木造駅(JR五能線)から徒歩約15分である。
「田小屋野貝塚」には竪穴建物、墓、貝塚、捨て場、貯蔵穴などの多様な施設があり、この時期の典型的な集落である。
貝塚からは土器や石器のほか、ヤマトシジミなどの貝類、クジラやイルカなどの大型ほ乳類の骨で作った骨角器などが出土し、また、ベンケイガイ製の貝輪の未製品も多数出土している。
同時期のベンケイガイ製の貝輪は北海道からも出土しており、また「田小屋野貝塚」からは北海道産黒曜石が出土していることから、縄文時代の生産活動や海峡を越えた交易を知ることができる。
<⑤二ツ森貝塚>
「二ツ森貝塚」は青森県東部の七戸町に所在し、太平洋岸の小川原湖西岸の標高30mの段丘上に立地する。
「二ツ森貝塚」へは七戸十和田駅(JR東北新幹線)から車で約20分、そこから車で約3分の所にガイダンス施設の「二ツ森貝塚館」がある。
「二ツ森貝塚」は平坦部に竪穴建物や貯蔵穴、その周囲に貝塚や墓域が配置されている。
貝塚の下層からはハマグリやマガキなどの海水性、上層からはヤマトシジミなどの汽水性の貝類が見つかっており、海進・海退など環境変化へ適応した生活を知ることができる。
そのほか、スズキ、マダイ、ハクチョウ、カモ、シカ、イノシシなどの骨、釣り針や銛などの骨角器も出土しており、中でも、精巧な鹿角製櫛は当時の高い精神性と加工技術を示しものである。
拠点集落の出現
紀元前3000年頃~紀元前2000年頃、集落の祭祀場が多様化し、祭祀場の顕著化も進んだ時期で、構成遺跡は「⑥三内丸山(さんないまるやま)遺跡」・「⑦大船(おおふね)遺跡」・「⑧御所野(ごしょの)遺跡」の3遺跡である。
<⑥三内丸山遺跡>
「三内丸山遺跡」は青森県中央部の青森市に所在し、陸奥湾を望む緩やかな丘陵の先端部、河川沿岸の標高約20mの海岸段丘上に立地する。
「三内丸山遺跡」へは新青森駅(JR東北新幹線)から「シャトルdeルートバスねぶたん号」で約15分の「三内丸山遺跡」で下車、遺跡と隣接してガイダンス施設の「三内丸山遺跡センター」がある。
「三内丸山遺跡」は大規模な拠点集落で、竪穴建物、掘立柱建物、列状に並んだ土坑墓、埋設土器、盛土、貯蔵穴、道路、大型建物などが計画的に配置されている。
遺物は膨大な量の土器や石器のほか、多種多様な魚骨や動物骨、クリ、クルミなどの堅果類が出土しており、通年において自然資源を巧みに利用していたことが分かる。
ほかにも、木製品、骨角器、編籠、漆製品などに加え、ヒスイや黒曜石、アスファルトなどの交易品も多数出土している。
大規模な盛土からは、日本最多数の2,000点を超える土偶など、まつりの道具が大量に出土しており、祭祀・儀礼が長期間にわたり継続して行われていたことが分かる。
<⑦大船遺跡>
「大船遺跡」は北海道南西部、渡島(おしま)半島東岸の函館市南茅部(かやべ)地区に所在し、大舟川沿岸の標高30~50mの海岸段丘上に立地する。
「大船遺跡」へは函館駅(JR函館本線)から函館バス「鹿部」「古部」「椴法華」行きで約100分の「大船遺跡下」で下車、徒歩約10分であり、遺跡から車で約10分の所にガイダンス施設の「函館市縄文文化交流センター」がある。
「大船遺跡」では100棟以上の竪穴建物群と大規模な盛土、その南西には墓や貯蔵穴などからなる100基以上の土坑群が確認されている。
竪穴建物には大型のものが多く、深さ2mを超えるものもあり、盛土からは膨大な量の土器や石器、焼土、クジラ、オットセイ、マグロ、サケなどの骨、カキなどの貝類のほか、クリ、クルミ、ヤマブドウ、ウルシなども出土している。
<⑧御所野遺跡>
「御所野遺跡」は岩手県北部の一戸町に所在し、馬淵(まべち)川沿岸の標高約190~210mの河岸段丘に立地する。
「御所野遺跡」へは二戸駅(JR東北新幹線)から岩手県北バスで約25分の「御所野縄文公園線」で下車、遺跡と隣接してガイダンス施設の「御所野縄文博物館」があるが、バスは1日1便で12月~3月は運休である。
「御所野遺跡」は集落の中央に配石遺構や墓などの墓域が造られ、その周囲に竪穴建物、掘立柱建物、祭祀に伴う盛土などが分布し、さらにその外側の東・西にも竪穴建物が密集している。
竪穴建物のなかには、焼失後に廃棄されたものもあり、調査の結果、これらの竪穴建物は土で覆う屋根構造だったことが明らかとなっている。
盛土からは、大量の土器や石器のほかに、シカ、イノシシなどの骨、クリ、クルミなどが焼かれた状態で出土している。
また、祭祀遺物と考えられる土偶、土製品、石製品などが集中的に出土しており、火を使用した祭祀が繰り返し行われていたことが分かる。
共同の祭祀場と墓地の進出
紀元前2000年頃~紀お元前1500年頃、集落の小規模化と分散化、集落外への共同の祭祀場及び墓地の構築と維持・管理が進んだ時期である。
構成遺跡は「⑨入江(いりえ)貝塚」・「⑩小牧野(こまきの)遺跡」・「⑪伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡」・「⑫大湯(おおゆ)環状列石」の5遺跡であり、また関連資産として「鷲ノ木(わしのき)遺跡」がある。
<⑨入江貝塚>
「入江貝塚」は北海道南西部の洞爺湖町に所在し、内浦湾を望む標高約20mの段丘上に立地する。
「入江貝塚」へは洞爺駅(JR室蘭本線)から徒歩約15分であり、そこから徒歩約5分の所にガイダンス施設の「入江・高砂貝塚館」がある。
「入江貝塚」は竪穴建物による居住域と土坑墓による墓域、そして段丘の縁や斜面にある貝塚からなる遺跡である。
墓域からは筋萎縮症に罹患した成人男性の人骨が検出されており、長期にわたり周囲の人々の手厚い介護を受けながら日常生活を送っていたことが分かる。
貝塚からは、アサリ、イガイなどの貝類のほか、ニシン、カサゴなどの魚や、エゾシカやイルカ類などの獣の骨、釣り針や銛などの骨角器が出土しており、漁労や狩猟が活発に行われていたことを知ることができる。
<⑩小牧野遺跡>
「小牧野遺跡」は青森県中央部の青森市に所在し、八甲田山西麓の二つの河川に挟まれた、青森平野を一望する標高約80〜160mの舌状台地上に立地する。
青森駅(JR奥羽本線)から徒歩約5分の古川3番バスのりばから青森市市バス「大柳辺」行きで約25分の「野沢」で下車、徒歩約5分の所にガイダンス施設の「青森市小牧野遺跡保護センター 縄文の学び舎・小牧野館」があり、「小牧野遺跡」はそこから徒歩約25分である。
「小牧野遺跡」の最も高いところの斜面に造られた環状列石は、中央帯が直径約2.5m、内帯が直径約29m、外帯が直径約35mの三重の環を描いている。
その周りを囲むように直径約4mの環状配石や一部四重となる列石などが配置されており、全体では直径約55mである。
環状列石やその周辺からは土器や石器のほか、土偶やミニチュア土器、動物形土製品、鐸形土製品、三角形岩版、円形岩版などの祭祀に関する遺物が出土している。
<⑪伊勢堂岱遺跡>
「伊勢堂岱遺跡」は秋田県北部の北秋田市に所在し、米代川沿岸の2つの河川に囲まれた標高約42~45mの河岸段丘上に立地する。
「伊勢堂岱遺跡」へは縄文小ケ田駅(秋田内陸縦貫鉄道線)から徒歩約5分であり、遺跡に隣接してガイダンス施設の「伊勢堂岱縄文館」がある。
「伊勢堂岱遺跡」は環状列石を主体に配石遺構、掘立柱建物跡、土坑墓、貯蔵穴、溝状遺構などからなる。
環状列石は白神山地などの遠方の山並みを望むことができる段丘の北西端に、4基が隣接して位置する。
環状列石はいずれも直径30m以上で、最大のものは直径約45mもあり、その周辺からは土偶、動物形土製品、鐸形土製品、岩版類、三脚石器、石剣類など祭祀・儀礼の道具が多数出土している。
<⑫大湯環状列石>
「大湯環状列石」は秋田県北東部の鹿角市に所在し、米代川の支流である大湯川沿岸、標高約180mの台地上に立地する。
「大湯環状列石」へは鹿角花輪駅(JR花輪線)から秋北バス「大湯温泉」行きで約35分の「大湯環状列石前」で下車、遺跡に隣接してガイダンス施設の「大湯ストーンサ-クル館」がある。
「大湯環状列石」は最大径約52mの万座(まんざ)環状列石と最大径約44mの野中堂(のなかどう)環状列からなる。
いずれも川原石を様々な形に組み合わせた複数の配石遺構を環状に配置し、また2基の環状列石のそれぞれの中心の石と日時計状組石を一直線に並ぶように配置されている。
環状列石の周りには掘立柱建物、貯蔵穴、土坑墓などが同心円状に配置されており、土偶や土版、動物形土製品、鐸形土製品、石棒、石刀などの祭祀・儀礼の道具が多く出土している。
<鷲ノ木遺跡>
「鷲ノ木遺跡」は北海道南西部の森町に所在し、標高約70mの河岸段丘上に立地する。
森駅(JR函館本線)から車で約5分の所にガイダンス施設の「森町遺跡発掘調査事務所」(平日のみ)があり、「鷲ノ木遺跡」へはそこから車で約15分である。
「鷲ノ木遺跡」の環状列石は楕円形の配石を中心に環状の列石が二重に巡るが、その規模は直径約37mという北海道最大規模である。
その南約5mの所にある竪穴墓域は約11.6×9.2mの竪穴の中に、土坑墓のほかに供献品や墓標を設置する穴が造られている。
遺跡全体が江戸時代に噴火した駒ヶ岳の火山灰に厚く覆われていたため、保存状態はきわめて良好である。
祭祀場と墓地の分離
紀元前1500年頃~紀元前400年頃、祭祀・儀礼が充実し、共同祭祀場が顕著となった時期であり、構成遺跡は「⑬キウス周堤墓群(しゅうていぼぐん)」・「⑭大森勝山(おおもりかつやま)遺跡」・「⑮高砂(たかさご)貝塚」・「⑯亀ヶ岡(かめがおか)石器時代遺跡」・「⑰是川(これかわ)石器時代遺跡」の5遺跡である。
<⑬キウス周堤墓群>
「キウス周堤墓群」は北海道中央部の千歳市に所在し、石狩低地帯に面する標高約15~21mの緩やかな斜面に立地する。
「キウス周堤墓群」へは千歳駅(JR千歳線)から車で約15分、ガイダンス施設の「千歳市埋蔵文化財センター」へは長都駅(JR千歳線)から車で約7分である。
周堤墓とは、地面に円形に竪穴を掘り、掘り上げた土を周囲に環状に積み上げてドーナツ状の周堤を造り、その内側に複数の墓を配置した、この地域独特の墓制である。
「キウス周堤墓群」には9基の周堤墓が存在し、最大のものは外径約83m、周堤上面から竪穴底面までの高低差が約4.7mである。
周堤墓内の土坑墓には赤色の顔料(ベンガラ)が撒かれているものが多くあり、墓標らしき立石が埋められたものもある。
<⑭大森勝山遺跡>
「大森勝山遺跡」は青森県弘前市に所在し、岩木山北東麓の標高143~145mの舌状丘陵上に立地する。
「大森勝山遺跡」へは 弘前バスターミナル(弘前駅から徒歩約5分)から弘南バス「鰺ヶ沢・天長園」行きで約45分の「赤倉神社登山口」で下車、徒歩約60分であり、遺跡から車で約10分の所にガイダンス施設の「裾野地区体育文化交流センター」がある。
「大森勝山遺跡」は大規模な環状列石を伴う祭祀遺跡で、環状列石は、台地上を整地した後、土手状に盛土し、その縁辺部に77基の組石を配置したもので、長径約48.5m、短径約39.1mのやや楕円形である。
遺跡からは土器や石器のほか、祭祀用の岩版・石剣、円盤状石製品などが出土している。
中でも円盤状石製品は環状列石及びその周辺から約250点出土しており、環状列石と関連する祭祀・儀礼に用いたものと考えられている。
<⑮高砂貝塚>
「高砂貝塚」は北海道南西部の洞爺湖町に所在し、内浦湾を望む標高約10mの低地に立地する。
洞爺駅(JR室蘭本線)から徒歩約15分の所にガイダンス施設の「入江・高砂貝塚館」があり、「高砂貝塚」はそこから徒歩約5分である。
「高砂貝塚」は貝塚と墓域からなり、貝塚からは、タマキビ、アサリなどの貝類やニシン、カレイ、マグロ、エゾシカ、イルカなどの骨が出土している。
中でもアサリやカレイが多くみられることは、貝塚周辺に砂浜が発達していたこと、一時的な寒冷期であったことが分かる。
墓域は土坑墓と配石遺構からなり、土坑墓は土器や石器、石製品などの副葬品とともに赤色の顔料(ベンガラ)が散布されている。
このほか、抜歯の痕跡が認められる人骨や胎児骨を伴う妊産婦の人骨なども確認されている。
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<⑯亀ヶ岡石器時代遺跡>
「亀ヶ岡石器時代遺跡」は青森県津軽半島のつがる市に所在し、岩木川沿岸の標高約7~18mの丘陵上に立地する。
「亀ヶ岡石器時代遺跡」へは五所川原駅(JR五能線)から弘南バス「五所川原~市浦庁舎線」で約34分の「亀ヶ岡」で下車する。
ガイダンス施設の「つがる市木造亀ヶ岡考古資料室」へは五所川原駅(JR五能線)から弘南バス「五所川原~市浦庁舎線」で約40分の「館岡」で下車し徒歩約15分である。
「亀ヶ岡石器時代遺跡」は、台地上に土坑墓が多数群集する墓域が広がり、その周囲の低湿地には、祭祀場としての捨て場がある。
遺物は漆塗りの土器や漆器、土偶、植物製品、ヒスイ製の玉類などが多数出土している。
そのなかでも、1887年(明治20)年に出土した左脚を欠いた大型土偶(国重要文化財)は、その眼部の表現から「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」として知られており、海外でも高い評価を得ている。
<⑰是川石器時代遺跡>
「是川石器時代遺跡」は青森県東部の八戸市に所在し、新井田川沿岸の南北の沢に挟まれた標高10~15mの段丘上に立地する。
八戸駅(JR東北新幹線)から南部バス「是川縄文館」行きで約20分の所にガイダンス施設の「八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館」があり、「是川石器時代遺跡」はそこから徒歩約5分である。
なお、八戸駅からのバス便は土曜・日曜・祝日の運行であり、「是川石器時代遺跡」は2022年(令和4年)5月現在、整備のため閉鎖中である。
「是川石器時代遺跡」は「一王寺(いちおうじ)遺跡」・「堀田(ほった)遺跡」・「中居(なかい)遺跡」の3遺跡で構成されている。
なかでも「中居遺跡」は縄文時代晩期のもので、居住域、墓域、捨て場、配石や盛土など多様な遺構が確認されている。
低湿地の捨て場からは、精巧な土器や土偶をはじめ、弓やヤスなどの木製品、漆が塗られた弓や櫛、腕輪、容器などの漆製品が多数出土しており、優れた工芸技術を知ることができる。
また、クリ、トチなどの木の実の殻や、シカやイノシシ、スズキ、マグロなど骨も出土し、狩猟・漁労・採集による生業の様子が分かる。
北海道・北東北の縄文遺跡群の活用
北海道・北東北の縄文遺跡群は、前章で紹介したように17の構成遺跡と2つの関連資産で構成されている。
遺跡群の特徴は、紀元前13,000年頃から紀元前400年頃までの1万年以上にわたり、環境の変化に適応しながら、採集・漁労・狩猟を基盤とした生活の実態や精神文化を表す、さまざまな遺構や遺物が確認されていることである。
遺構は竪穴建物や墓地、祭祀・儀礼の場である捨て場や盛土、環状列石など、遺物は土器・石器のほか貝類、魚や動物の骨、骨角器、木製品、漆製品、土偶、土版、交易品などの食生活や環境を示す多種多様なものである。
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現在、北海道・北東北の縄文遺跡群を構成する各遺跡では、来訪者が当時の景観を体感できるよう整備を進めたり、ガイダンス施設を充実したりと活用に向けてさまざまな取組がおこなわれている。
例えば、地域住民のガイドによる遺跡案内やスマートフォンによる音声ガイド、タブレット端末を活用した情報提供などである。
また、発掘調査現場での説明会や発掘体験、土器や石器、土偶、装身具などの作製を通して当時の人々の知恵や技術を体感できる体験プログラム、縄文まつりなどもおこなわれている。
さらには、縄文カレーや発掘プレート、縄文パフェなどの「縄文グルメ・スィーツ」、縄文土器・土偶レプリカ、遮光器土偶メガネなどの「縄文おみやげ」も充実している。
以上のように、北海道・北東北の縄文遺跡群の各遺跡ではさまざまな普及活動に取り組んでいるが、今後は次世代の文化財保護を担う子どもたちへの普及・啓発活動に期待したい。
そのためには、小学校・中学校・高等学校との連携事業をより進めるとともに、子どもたちが遺跡やガイダンス施設に気軽に行くことができるように公共交通機関を便利にすることも必要と考える。
<主な参考文献>
パンフレット『世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群』縄文遺跡群世界遺産本部
パンフレット『北海道・北東北の縄文遺跡群 まるごとナビ2021』縄文遺跡群世界遺産保存活用協議会
公式サイト「世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群」
キッズサイト「JOMONぐるぐる」
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(寄稿)勝武@相模
・波多野氏の館の探究~「波多野城址」と「東田原中丸遺跡」
・土肥実平の館を探究する~土肥館と土肥城~
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