躑躅ヶ崎館の概要
真田信綱(幸隆)・信綱父子の屋敷があった躑躅ヶ崎(つつじがさき)館(山梨県甲府市)は、戦国時代に甲斐国(山梨県)の守護・武田氏の本拠地として築かれた。
躑躅ヶ崎館は県中部の甲府盆地の北端、南流する相川の扇状地上に位置する。
東側を藤川、西側を相川に囲まれ、北方約2.5㎞の山上には詰城として機能した要害山城が所在する。
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武田信虎・武田晴信(信玄)・武田勝頼の3代、60年余りにわたり守護所として甲斐国の政治・経済・文化の中心であった。
現在、跡地には武田神社が鎮座し「武田氏館跡」として国の史跡に指定されている。
躑躅ヶ崎館の築城経緯
南北朝時代に安芸守護・武田信武が入府して以降、15世紀初頭まで甲斐国の守護所は八代(笛吹市)・千野(甲州市塩山千野)に置かれていた。
室町時代の15世紀初頭、守護所は小石和(笛吹市石和町)に移転され15世紀中頃までこの地にあった。
1416年(応永23年)10月、鎌倉公方の足利持氏と前関東管領の上杉氏憲(禅秀)が争う上杉禅秀の乱が起きた。
この乱の影響は甲斐国にも及び、1417(応永24年)、上杉方についた守護・武田信満が自害すると、守護代・跡部氏や有力国人が台頭するなど混乱した。
1465年(寛正6年)、武田信昌は跡部氏を排斥し、甲府盆地東部・石和の川田館(山梨県甲府市)を築き家臣団を集住させた。
その後、武田信昌は嫡男・武田信縄に家督を譲り落合(山梨市落合)に隠居するが、次男の油川信恵を後継者にすることを望み、武田信縄と油川信恵との間で内乱が生じた。
その内乱は1508年(永正5年)、武田信縄の子・武田信虎が油川信恵を敗死させると治まり、武田信虎による甲斐国の統一が進展していった。
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武田信虎は守護館を石和から甲府に移すべく、1519年(永正16年)8月から躑躅ヶ崎館の工事を始めた。
『高白斎記』(こうはくさいき)には、1519年(永正16年)8月の条に「十五日新府中御鍬立ヲ初ム。同十六日信虎公御見分。同十ニ月廿日庚辰信虎公府中江御屋移り」、また翌1520年(永正16年)3月の条に「十八日三沢ノ宗香於甲府万部ノ経始ル」とある。
これらの記述から1519年(永正15年)8月に鍬立式を行い、工事を始めてから4ヶ月後の12月に工事を終え、翌1520年(永正16年)3月に完成を祝う式典(落慶法会)が行われたことがわかる。
以後、躑躅ヶ崎館は1581年(天正9年)12月、武田勝頼が新府城(山梨県韮崎市)に移るまで、有力な戦国大名・武田氏の本拠として機能した。
武田氏の盛衰
躑躅ヶ崎館に移転した直後の甲斐国の情勢は平穏なものではなく、武田信虎は新館の建設と同時に有力国人の城下町移住も進めたが、有力国人は甲府への集住に抵抗した。
史料には「永正十七年五月当国栗原殿大将トシテ、皆々星形ヲサミシ奉テ、一家国人引退玉フ」(『妙法寺記』)とあり、1521(永正17年)5月に栗原氏・大井氏・今井氏らの有力国人が甲府を退去している。
有力国人層の反抗に加えて、北条氏・今川氏・諏訪氏などによる国外からの侵攻も相次ぎ、1521年(大永年)から1532年(享禄年)にかけて武田氏は国人層の制圧と臣従させることに苦心した。
こうした武田氏ヘの抵抗や侵攻も1555年(天文年)頃には鎮静化し、甲府への移転から10数年後に武田信虎の下で国内統一に成功し、守護大名から戦国大名へと変わっていった。
武田信虎は1541年(天文10年)、嫡男・武田晴信(以下「信玄」とする)により駿河国(静岡県)に追放された。
その後の武田氏は、武田晴信のもと勢力を強め、信濃国(山梨県)、駿河国(静岡県)、上野国(群馬県)、遠江国(静岡県)、三河国(愛知県)などに所領を拡大していった。
武田信玄は有力な戦国大名に成長し上洛を目指したが、1573年(元亀4年)4月に上洛途中で病死すると、武田氏の没落が始まった。
武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は1575年(天正3年)5月の長篠の戦いで、織田信長・徳川家康の連合軍に大敗した。
この戦いで「武田二十四将」として名を馳せた有力武将の多くが討死し、領国支配に動揺が生じた。
その立て直しのため、武田勝頼は1581年(天正9年)正月、新たに新府城(山梨県韮崎市)を築き躑躅ヶ崎館から移転した。
その後、1582年(天正10年)3月、織田信長に攻められ、天目山の戦いで武田家は滅亡した。
絵図にみる躑躅ヶ崎館の変遷
躑躅ヶ崎館は東西284m(百五十六間)、南北193m(南北百六間)という広大な城域を持ち、周囲は高さ8mほどの土塁と、幅約10mの堀で囲まれている。
その構造(縄張り)は今も残る絵図類によると、武田信虎が築城した当初は東曲輪・中曲輪を主郭部とする方形単郭であった。
武田信玄の時期に当たる1558年~1570年(永禄年間)の絵図には、建物の配置が明瞭に記されていて、当時の各曲輪内の様子を知ることができる。
大手口は館の東側に設けられており、そこから中に入ると右側(北側)に御番所、左側(南側)奥に的山がある。
主郭部の中央には主殿と本主殿を中心に火焼間・看経間(かんきょうま)・膳所などが配置され、その南には築山と泉水があった。
その北側には「御うら方」の建物と台所が廊下で続き、その奥に「太郎様御座所」・産所・広間などがある。
なお、「太郎御座所」の「太郎」とは武田家の嫡男に付けられる幼名であり、武田信玄、その嫡男の武田義信、武田勝頼の嫡男・武田信勝も幼少期は「太郎」と称している。
ここでいう「太郎」とは、この絵図が1558年~1570年(永禄年間)に作成されたものとすると、年代的には1567年(永禄10年)に生まれた武田信勝であると考えられる。
ただし、武田信勝は高遠城で生まれ、1571(元亀2年)に武田勝頼とともに躑躅ヶ崎館へ移っている。
これらのことから「太郎様御座所」は1538年(天文7年)に武田信玄の嫡男として生まれた武田義信の居室であると考えたい。
中曲輪の西南隅には二階櫓と雪隠(せっちん)、北東隅には毘沙門堂・不動堂などが、また中曲輪にはー御旗屋(みはたや)・庫裡(くり)・風呂屋などがみられる。
そのうち御旗屋には、孫子(そんし)の言葉を大書した、いわゆる「風林火山」の旗などが置かれていたのである。
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その後、武田信玄から武田勝頼、そして武田氏滅亡後と、躑躅ヶ崎館の規模は拡張されていった。
まず、東曲輪の北に御隠居曲輪が新たに設けられ、続いて西側の堀を隔てて西曲輪、その後御隠居曲輪の西側に無名曲輪と味噌庫曲輪がそれぞれ増設された。
『甲斐国志』には、西曲輪について「或人ノ説二此ヲ人質曲輪トモ云伝フト云」とあり、人質曲輪と称せられていたことが分かる。
また「御隠居曲輪」については「或ハ土俗ノ唱フル御北様、御裏様、御西様ナドト云ヘル婦人方ノ居処ナリシニヤ」と、婦人たちの館ではないかと推測している。
各曲輪の周囲には、堀がめぐっているが、東輪と西曲輪との間の堀は共有となっている。
館の四方をめぐる堀のうち、北側の堀だけは「カラ堀」の注記があり、空堀であったことが推測できる。
館の入口である虎口(こぐち)は東曲輪・中曲輪の南を除いた東・西・北の三ヶ所と、西曲輪の南・北にあり、それぞれ門が設けられている。
東曲輪は東に大手口があり、北の虎口の外側には厳重な丸馬出しが設けられ、大手口と同様に堀を切断して土橋が存在している。
西曲輪の南・北の虎口は、その前面に方形の空間を設け、二つの門を構えた枡形(ますがた)虎口となっており、南の虎口は堀が切断されてなく、東曲輪の虎口とは形態を異にしている。
1582年(天正10年)3月に武田氏が滅亡すると、甲斐国は、織田信長の家臣である河尻秀隆が支配したが、1582年(天正10年)6月の本能寺の変後は徳川家康の領国となった。
徳川家康により甲斐国の支配を任された平岩親吉(ちかよし)は、躑躅ヶ崎館を改修し、西曲輪の南に堀を隔てて「梅翁曲輪(ばいおうくるわ)」を新たに増設し、中曲輪に天守台を設けている。
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躑躅ヶ崎館は、武田信虎が甲斐国を統一していく過程で、守護館をこれまでの川田から甲府に移転し築かれた館である。
築城当初は方形単郭の守護館であったが、武田氏が守護大名から有力な戦国大名へと転換していく中で曲輪の増設が繰り返されて堅固な防御性を持つ館、というより「城」へと変遷を遂げたのである。
躑躅ヶ崎館は1938年(昭和13年)5月に国史跡「武田氏館跡」の指定を受けて以降、近年では部分的ではあるが、発掘調査が実施されており、貴重な研究成果が蓄積されている。
(寄稿)勝武@相模
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