真田一族と武田信玄~甲府にある真田幸綱(幸隆)・真田信綱の屋敷跡

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真田幸綱(幸隆)・信綱の屋敷跡

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、甲斐国古府中(山梨県甲府市)にあった甲斐国守護・武田氏の居館で、武田信玄らの領国経営における中心地であった。
現在、館跡地には武田神社があり、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されている。
継続的に発掘調査が行われており、その成果をもとに整備も進められている。
交通アクセスは、JR中央本線「甲府」駅北口より北へ一本道2.2㎞、バス約8分の「武田神社」で下車、徒歩すぐである。





往時、館の周辺には真田幸綱(幸隆)・真田信綱父子などからなる「武田二十四将」と呼ばれる武田一族や有力武将の屋敷が点在した。
現在、大正時代の地図「古府之図」に基づき、位置が明らかになっている屋敷跡22カ所に、略歴などを紹介する案内板が設置されている。

真田幸綱の屋敷は、躑躅ヶ崎館の大手門から南東側の曲輪(現・「武田氏館跡大手門東史跡公園」)の南東隅にあった。
現在は民間アパートが建っており、その一角に「真田弾正忠(だんじょうのじょう)幸隆屋敷跡」と記された案内板が設置されている。
なお、そこから一本西側の道路を行った「武田氏館跡大手門東史跡公園」の南西隅には「高坂弾正忠昌信屋敷跡」が位置する。
高坂昌信は農民出身ながら武田信玄の寵臣として異例の出世を遂げ、馬場信房、山県昌景内藤昌豊とともに「武田四天王」と称せられた武田氏重臣の一人である。
真田幸綱の屋敷が躑躅ヶ崎館の大手門や「武田四天王」の一人である高坂昌信の屋敷の近くという重要な場所にあることは、真田幸綱への武田信玄の信頼が厚かったことを物語っている。





真田信綱(真田幸綱の嫡男)の屋敷は、真田幸綱の屋敷から北西方向に躑躅ヶ崎館の堀に沿って約780mのところにあった。
現在、雑貨店の一角に「真田源太左衛門尉信綱屋敷跡」と記された案内板が設置されており、、北東方向に約260mのところには、武田信玄の軍師として名をはせた山本勘助の屋敷があった。

真田幸綱(幸隆)

真田幸綱(幸隆)は真田昌幸の父に当たるが、その出自については海野一族と伝えられているほか、その詳細は様々な家系図とともに諸説があり確定していない。
名前についても、諸系図では「幸隆」と記されているが、当時の確実な史料においては「幸綱」と記されており、本稿では「幸綱」に統一する。

1541年(天文10年)、甲斐国(山梨県)の守護・武田信虎が信濃(長野県)に侵攻した際、同年5月の海野平の戦いで海野一族は敗北し上野国(群馬県)へ亡命している。
この戦いに真田幸綱が参加していたことを示す史料はないが、一族とともに上野国箕輪(みのわ)城主・長野業正(ながのなりまさ)のもとに逃れた。

1541年(天文10年)6月、武田晴信(信玄)が父・武田信虎を駿河(静岡県)へ追放し、武田氏の家督を継承すると、翌1542年(天文11年)に関東管領・上杉憲政と和睦し、本格的に佐久・小県郡侵攻を再開した。
このとき、真田幸綱は武田家に帰属して旧領を回復しているが、その経緯や時期については諸説がある。
『高白斎記』には、真田幸綱が調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田氏方に臣従させたとある。
江戸時代初期に編纂の『甲陽軍鑑』には、1548年(天文17年)の上田原の戦いに板垣信方の脇備(わきぞなえ)として参戦したとある。
江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が1544年(天文13年)に武田家の足軽大将である山本勘助の推挙によるものとし、『沼田記』が1545年(天文14年)説、『滋野世記』が1546年(天文15)年説を伝えている。





武田家へ臣従後の真田幸綱は、信濃先方衆(しなのさきかたしゅう)として村上義清方の望月氏の調略などで活躍した。
1550年(天文19年)9月、武田晴信が戸石(といし)城を攻めた際、真田幸隆は村上義清方の清野氏や寺尾氏などを調略するが、武田軍は戸石城の堅固な造りと城兵の旺盛な士気により1000人近い死傷者を出して退却した(「砥石崩れ」)。
この戸石城攻めは『高白斎記』(駒井高白斎の日記)の1551(天文20)年5月26日条に「砥石城真田乗取」という記述から、真田幸綱の謀略により成功したと伝わる。

1553年(天文22年)、村上義清が葛尾城の落城しにより越後国(新潟県)に逃れると、真田幸綱は旧領を完全に回復し、引き続き真田本城を本拠地とし、戸石城の城番を兼ねた。
この時期は、武田晴信と長尾景虎(上杉謙信)が信濃国(長野県)の領有をめぐり対立を強めた頃であり、真田幸隆は対長尾氏(上杉氏)の最前線に置かれたのである。

1559年(永禄2年)、武田晴信が出家して信玄と名乗ると、真田幸綱も剃髪して一徳斎と号したという(『甲陽軍鑑』)。
1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いでは、真田幸綱は嫡男・真田信綱とともに妻女山(さいじゃさん)の上杉本陣への夜襲に加わり、その後は、武田信玄の上野国(群馬県)侵攻を調停や城攻めなどで支えた。
例えば、吾妻郡内での鎌原氏と羽尾氏の所領争いについて、双方が真田氏の同族でもあることから、真田幸綱が調停に関わっている。
また、1563年(永禄6年)に斎藤氏の居城・岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)、1565年(永禄8年)に嵩山城(群馬県吾妻郡中之条町)、そして1567年(永禄10年)には白井城(群馬県渋川市)の攻略に成功している。
以上のように、武田氏の有力武将となった真田幸綱であるが、1567年(永禄10年)に病を得て1570年(元亀元年)頃に嫡男・真田信綱に跡を譲って隠居し、7年後の1574年(天正2年)5月、62歳で死去した。

真田信綱

1537年(天文6年)に真田幸綱の長男として生まれ、同母弟の真田昌幸・真田信尹らと同様、幼年期から武田信玄に出仕していたと考えられているが、このことを示す確実な史料は見当たらない。
真田信綱の名が残る確実な史料は、1562年(永禄5年)年に信濃国(長野県)にある真田氏の氏神・四阿山奥宮社殿を修造のときに奉納された父・真田幸綱との連名の連署である。
それ以前の初陣や武田家へ出仕した時期などについては、父・真田幸綱らとともに行動をしていたためか、真田信綱自体の記録が残されておらず不明である。

武田家出仕後の真田信綱は、父・真田幸綱とともに信濃国や上野国を転戦し、1568年(永禄11年)には弟・真田昌輝とともに駿河国(静岡県)攻めの先鋒を担い、1569年(永禄12年)の三増峠(みませとうげ)の戦いでは真田昌輝や内藤昌豊とともに殿(しんがり)を務めて戦功をあげている。
1572年(元亀3年)の「信玄惣人数書上」によれば、真田信綱は前年に隠居した真田幸綱に代わって信濃先方衆の筆頭にあげられており(『軍鑑』)、同年の武田信玄の上洛作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦するなど、「武田二十四将」の名に恥じない活躍をしている。

真田信綱は1574年(天正2年)5月に真田幸綱の死去に伴い正式に真田家の家督を継いだ。翌1575年(天正3年)5月、長篠の戦い武田勝頼に従い参戦して奮戦するが、織田信長・徳川家康連合軍の銃撃によって弟の真田昌輝とともに戦死した。
真田家の家督は武田勝頼の命により真田信綱の遺児に受け継がれることは認められず、武藤家を継いでいた弟の真田昌幸が継承した。





真田幸綱・真田信綱の父子は武田信玄にとって信頼できる武将であり、二人の行動はその期待に十分応えるものであった。

(寄稿)勝武@相模

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