考古学からみた躑躅ヶ崎館~大手周辺の発掘調査と整備を中心に~

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整備計画と発掘調査

城郭を調査する方法には、文献史料や絵図類などを読み解く文献調査や、現地に赴き現状の遺構を観察する縄張調査、そして発掘調査で発見された遺構や遺物を分析・考察する方法がある。
躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)は1519年(永正16年)に武田信玄により築城され、1581年(天正9年)年に武田勝頼が滅亡した後も、織田信長豊臣秀吉・徳川家康の時期に甲斐国(山梨県)統治の中心として再利用されてきた。
館跡には土塁や堀・枡形虎口・馬出・石積みなど、往時の姿を彷彿とさせる遺構が随所に残されており、地下にも多くの遺構や遺物が存在する。





躑躅ヶ崎館は1938年(昭和13年)に戦国大名の居館の構造を伝える重要な文化財として国の史跡に指定されたが、1959年(昭和34年)に史跡範囲の南側一帯が「居住地域」に指定されたことで、館跡周辺の宅地化が進んだ。
住宅建設などの開発に伴う発掘調査は、1979年(昭和54年)までは山梨県教育委員会、それ以降は甲府市教育委員会が実施してきたが、断続的で限定的なものであった。

1994年度(平成6年度)に地元住民の理解と協力を得て「史跡武田氏館跡保存管理計画」が策定されると、1995年度(平成7年度)から2002年度(平成14年度)にかけて主な曲輪を中心として遺構の残存状況や曲輪の変遷状況などを把握するために試掘調査が実施された。
その成果をもとに2004年度(平成16年度)には「整備基本構想及び整備基本計画」が策定され、それに基づく保存・整備の基礎資料を得るための発掘調査が今も進められている。

1980年度(昭和55年度)~1982年度(昭和57年度)の調査

1980年度(昭和55年度)から1982年度(昭和57年度)にかけて、指定地域南側の梅翁曲輪(ばいおうくるわ)の周辺で住宅の新築及び増改築に伴う緊急発掘調査が実施され、その調査地点、検出遺構・遺物は以下のとおりである。
【梅翁曲輪】
・中央部で2種類の暗渠(あんきょ)水路が検出
・東北部で水路・溝が検出、溝中から多量の土器、陶器類が出土
・西北部の出入口部分で暗渠水路、石段状遺構、礎石状遺構が検出、土器片、陶器片、古銭、漆器等の多種類の遺物が出土
・東側土塁上で土塁構築前の礎石が検出、陶磁器類が出土
・南側土塁上で土塁構築前の生活面が検出、埋葬人骨が出土
【梅翁曲輪の周辺】
・古絵図にある穴山氏の居館跡で集石を検出(人工的なものであるかは不明)
・古絵図による高坂氏屋敷跡で集石を検出
・史跡指定地域の東南端で土器、陶器、古銭のほか縄文時代の遺物が出土





梅翁曲輪については武田氏の菩提寺である恵林寺(えりんじ)所蔵の「甲州古城勝頼以前図」の添書に「平岩七之介築添曲輪ハ・・」と記されている。
「平岩七之介」とは、武田氏滅亡後に甲斐国を領有した徳川家康の城代を務めた平岩親吉のことであり、この添え書きから梅翁曲輪は平岩親吉のときに付設されたことがわかる。
その一方、恵林寺所蔵の古絵図には、その位置に「典厩(てんきゅう)」と記されているものもある。
「典厩」とは武田信玄の弟に当たる武田左馬介信繁のことであり、武田信玄のときの梅翁曲輪の場所には武田信繁の屋敷が存在していたことが推察される。

梅翁曲輪ではこれまでの発掘調査によって、前述したように溝、礎石など遺構が検出され、陶磁器類などの遺物が出土しているが、遺構の重複関係や16世紀の陶器などの出土遺物から、少なくとも2時期にわたる造営が確認されている。
梅翁曲輪は発掘調査の成果から、武田氏の時期には、武田信繁などの武田親族衆の屋敷地であったが、武田氏滅亡後、平岩親吉の時期には、土塁や堀が構築せれて蔵前の庁所となったと考えれている。

1995年度(平成7年度)~2002年度(平成14年度)の調査

躑躅ヶ崎館では1995年度(平成7年度)から2002年度(平成14年度)にかけて各曲輪や館の周辺において試掘調査が実施され、以下のような成果を得ている。
【主郭部(東曲輪・中曲輪)】
 1996年度(平成8年度):中曲輪南部で池泉、石塁、庭園、土塁基底部石垣確認
 1998年度(平成10年度):武田神社社務所増築に伴い石塁、石列、柱穴列等確認
 1998年度(平成10年度):参道の土塁断面から6時期の変遷を確認
 2000年度(平成12年度):北東部で神社関係建物等の削平と整地(遺構なし)
 2000年度(平成12年度):大手馬出で石塁・掘立柱建物・溝跡確認
 2001年度(平成13年度):北側馬出で堀・土橋・暗渠水路・石積等を確認
 2002年度(平成14年度):天守台で石垣の測量、礎石・階段・土塁内石積等を確認
【西曲輪】
 1997年度(平成9年度):北側枡形虎口の変遷と門跡の確認
【御隠居曲輪】
 2000年度(平成12年度):南部でスポット公園建設に伴う調査(遺構・遺物なし)
【味噌曲輪】
 1995年度(平成7年度):東土塁の断ち割による構造把握、柱穴列等確認
 1996年度(平成8年度):西土塁の門跡、馬出土塁・井戸跡・建物基壇等確認
【無名曲輪】
 2000年度(平成12年度):曲輪を区画する堀・土塁を新たに発見
【笹堀】
 1995年度(平成7年度):東部で堀底と石積検出
 1996年度(平成8年度):中央部で堀底と複数の形態を持つ石積確認
 1997年度(平成9年度):西部で石列と石積確認
【館周辺部】
 1997年度(平成9年度):武田通り南北線で井戸跡、集石墓、溝跡、柱穴等確認
 1998年度(平成10年度):県道東西部分で水路・土塁跡、重複する遺構を確認
 2001年度(平成13年度):字三角地点で溝・礎石・柱穴等を確認





以上の試掘調査により各曲輪や館周辺部での遺構の有無や、遺構の深さ・範囲・時期などが把握できたことで、2004年度(平成16年度)に「整備基本構想及び整備基本計画」が策定されたのである。
この策定過程で史跡「武田氏館跡」全体の整備の範囲や順序などについて検討が行われ、その結果、館跡が「大手門周辺ゾーン」「北郭全域ゾーン」「西曲輪ゾーン」「梅翁曲輪ゾーン」の4つの範囲に分けられた。
整備の順序については、来訪者の多くが南側にある武田神社参道を館跡の正面であると誤認識していることから、まずは往時の館の正面及び周辺部の復元を目指して「大手門周辺ゾーン」が第1期整備事業として位置付けられた。

「大手門周辺ゾーン」の調査成果

大手門周辺部では、甲府市教育委員会により2000年度(平成12年度)に試掘調査が実施された。その結果、馬出土塁の石積みが自然石の野面積みであり、年代的には武田氏滅亡以降の建造物であることが指摘され、石積み東側では1号堀が検出された。
2006年(平成18年)2月から2009年(平成21年)3月にかけて本格調査が実施され、その結果、大手口に構築された防御施設の範囲や構造から、以下のように4期にわたって変遷していることが判明した。
【大手1期】
試掘調査の結果も含めて長方形の地割による屋敷地が確認され、屋敷地からは中国陶磁器や高麗青磁碗など、主に武士が使用する遺物が出土している。
ただし、付近から溶解した金属が付着した土器も多数出土していることから鍛冶職人の住居の可能性もあり、第1期では、館に近接して城下町が展開していたとも考えられている。
【大手2期】
大手口の土橋を囲い込むように湾曲した半月形、いわゆる「三日月堀」の形態をなす2号堀(以下、「三日月堀」)が存在した。
調査により、堀幅は約4m、深さ約2.5m、概ね全長約30mの規模と推定され、北側は大手土橋前に虎口が開かれていたことが確認された。
三日月堀は丸馬出の一部と考えられているが、内側の土塁の痕跡は確認されておらす全体の構造を把握するまでには至っていないという。
堀の中からは、主郭部側から投げ込まれたと考えられる多くの礫群が検出されており、人為的に埋め戻されたことが確認されている。
この破却は同一の場所に、後述する1号堀や大手石塁などが構築され、虎口形態が大きく変更されたことに伴うもので、馬出構造としては最も古く位置付けられている。
【大手3期】
三日月堀より新しい1号堀が大手石塁の外側を大きく取り囲んでおり、対となる位置で検出された3号堀とが、「コ」の字形を呈して角馬出の形態をなしている。
その全長は約50mに及び、堀が途切れる中央及び南北両端の3箇所に虎口が開いていたと想定されている。
【大手4期】
検出された野面積みの大手石塁は「L」字形を呈するが、「諸国古城之図」(広島私立図書館浅野文庫蔵)をはじめとする絵図類の多くは「コ」の字形に描いている。
大手石塁には中央と南側の内側2箇所に石階段が設けられているが、中央の階段には土間敷の踊り場が設けられており、土間を覆う建造物が存在した可能性が高い。
また、大手石塁と惣堀土塁隅に設けられた石積みの痕跡の間が虎口であることを考えると、大手北側の空間は織豊期の桝形虎口の形態であることがわかる。

以上、発掘調査により大手口の構造は4期の変遷を遂げていることが明らかになったが、具体的な年代を考える上で重要となるのが三日月堀と大手石塁である。
三日月堀の構築年代については、出土遺物が少なく、大手口や館全体の構造の変化の中で考える必要があるとされている。
三日月堀の位置は、現状の大手土橋より北側に位置し、また現状の東曲輪・中曲輪からなる主郭(以下、「主郭」)に合わせた造りとなっている。
主郭については、これまでの発掘調査により16世紀半ばに堀と土塁を埋め立てて、ほぼ2倍の現状の規模にまで拡大させたことが判明している。

三日月堀の構築は、主郭が現状の規模にまで拡大された以降であり、1551年(天文20年)に主郭の西側に西曲輪が増設(『高白斎記』)されたことや、興国寺城(静岡県沼津市)で検出された同規模の三日月堀の存在などから、武田信玄の末期から武田勝頼の時期とされている。
また、前述したように、三日月堀が人為的に破却されたことは明らかであるが、その具体的な時期については、破却後に角馬出状の虎口構造が採用されていることなど、政治的・軍事的な背景を踏まえ今後の課題となっている。





続いて、大手石塁は石積みの技術や虎口構造から織豊期のものであり、豊臣家臣の大名によって築かれたものと考えられている。
徳川家康の関東移封後の甲斐国は、羽柴秀勝が1590年(天正18年)、加藤光泰(みつやす)が1590年(天正18年)から1593年(文禄2年)まで、浅野長政・幸長父子が1593年(文禄2年)から1600年(慶長5年)まで領して躑躅ヶ崎館の主であった。
これらの中で、領有した期間が短い羽柴秀勝を除いて加藤光泰と浅野長政・幸長父子の関与が考えられるが、明確な記録は残されていない。

そのうち浅野長政・幸長父子が、躑躅ヶ崎館に代わる新たな甲斐国の本拠である甲府城の築城にかかわっていたことは、甲府城から浅野家の家紋瓦が多数出土していることから確実なことである。
浅野長政・幸長父子氏が甲府城を築城する一方で、同時期に躑躅ヶ崎館の改修を行う必要性がないことから、大手石塁の構築時期は、加藤光泰が館の主であった1590年(天正18年)から1593年(文禄2年)の間に想定できる。

発掘調査の成果を踏まえた整備

躑躅ヶ崎館では現在、2004年度(平成16年度)に策定された「整備基本構想及び整備基本計画」に基づき、計画的かつ系統的に発掘調査が行われており、顕著な成果をあげている。
「大手門周辺ゾーン」の調査では、大手口を半円形に囲い込む三日月堀が検出され、その築造時期は1551年(天文20年)以降と考えられている。
また、武田氏滅亡後の1590年(天正18年)から1593年(文禄2年)の間に、豊臣秀吉の家臣・加藤光泰により、大手石塁が築かれ大手口の防御施設が大きく代わったことも明らかになった。

こうした発掘調査を踏まえて、大手口の整備は戦国大名・武田氏三代の時期のものではなく、その後の躑躅ヶ崎館の最終段階にあたる豊臣政権期のものとなっている。
躑躅ヶ崎館ではこれまで大手門東一帯を史跡公園として整備したほか、西曲輪の南北の出入口部には、武田氏の優れた築城技法である枡形虎口が整備されている。
今後も梅翁曲輪松木堀の土塁修復工事や西曲輪の北馬出の整備、北側の各曲輪の環境整備が計画・実施されており、発掘調査の成果を十分に踏まえた整備を期待したい。





<主な参考文献>
 甲府市教育委員会 1985年『史跡武田氏館跡Ⅰ』
 甲府市教育委員会 1988年『史跡武田氏館跡Ⅲ』
 甲府市教育委員会 1999年『史跡武田氏館跡Ⅳ』
 甲府市教育委員会 2002年『史跡武田氏館跡Ⅸ』
 甲府市教育委員会 2009年『史跡武田氏館跡ⅩⅣ』

(寄稿)勝武@相模

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