「岩殿山城」を探究する~歴史・縄張り(構造)・発掘調査の成果から~

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武田勝頼が頼った山城

岩殿山城(いわどのやまじょう)は、山梨県大月市の標高約634mの岩殿山に築かれた山城で、登城口までは中央本線・大月駅から徒歩で約15分である。
岩殿山は相模川水系の桂川と葛野川とが合流する地点の西側に位置し、南面は西から東まで絶壁を連ね、北面も急傾斜である。
山頂の南側直下は、「鏡岩」と呼ばれる礫岩が露出した約150mの高さの崖で、狭い平坦地を挟んで、急角度で桂川まで落ち込んでいる。
1995年(平成7)年6月に「岩殿城跡」の名称で山梨県指定史跡に指定されているほか、山梨百名山、秀麗富嶽十二景、関東の富士見百景にも選定されている。


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歴史的には、1582年(天正10年)3月、織田・徳川連合軍が武田領に侵攻した際、武田勝頼が最後に頼った城として知られている。
武田勝頼は60日余りしか居住しなかった新府城(山梨県韮崎市)に火を放って東に向かった。
その際、真田昌幸は持ち城である岩櫃城(群馬県吾妻郡)に、小山田信茂は岩殿山城に籠城することを勧めた。
武田勝頼は真田昌幸の意見を退け岩殿山城に向かうが、その途中で小山田信茂に裏切られ天目山(甲州市大和町)で自害した(天目山の戦い)。
岩櫃城は難攻不落な城として知られているが、岩殿山城はどのような城であったのであろうか。

岩殿山城の歴史

岩殿山城の築城については、江戸時代の1783年(天明3年)に萩原元克が編纂した『甲斐名勝志』や『甲斐国志』では、小山田氏の本拠である谷村館(山梨県都留市)の詰の城とする説を取っている。
近年は岩殿山城を谷村館の詰の城とするには距離が離れすぎていることから、武田氏が相模国(現・神奈川県)との境目の城として築いたとする説が有力である。

小山田氏は武田氏に対抗していたが、1509年(永正6年)に武田氏に敗北すると、武田氏の傘下に入った。
その後は武田氏が相模の北条氏や駿河の今川氏と争い、相模・武蔵と接する郡内領は軍事的拠点となり、岩殿山城は国境警備の役割を果たしていたと考えられる。

1582年(天正10年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻時に、武田家臣・小山田信茂は武田勝頼を岩殿山城へ迎え籠城することを勧めた。
しかし、小山田信茂は途中で離反し、武田勝頼一行は天目山(山梨県甲州市)で自害(天目山の戦い)、戦国大名・武田氏は滅亡した。
武田氏滅亡後、小山田信茂は織田信長のもとに出向くが、甲斐善光寺で処刑され、郡内小山田氏も滅亡する。


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1582年(天正10年)6月、織田信長が明智光秀によって本能寺で殺害されると(本能寺の変)、甲斐国ではその遺領を巡り、徳川家康と北条氏直が争った。
岩殿山城がある都留(つる)郡では、本能寺の変が伝わると土豪や有力百姓などが蜂起し、甲斐国を統治していた織田家家臣・河尻秀隆はその家臣とともに追放された。
こうした状況を受けて、後北条氏はいち早く津久井城主・内藤綱秀を都留郡へ侵攻させ、岩殿山城を確保し都留郡一帯を制圧した。
1582年(天正10年)10月、徳川氏と後北条氏との間で講和が成立すると、甲斐国は徳川家康が領することになり、江戸幕府成立後も岩殿山城は要塞としての機能を保った。

岩殿山城の縄張り(構造)

岩殿山城の施設は山頂部に集中しており、『甲斐国志』には「一ノ堀」「ニノ堀」「本城」「馬場」「大門口」「蔵屋敷」「亀ケ池」「揚木戸(あげきど)門」という用語がみられる。
「大門口」(大手門)からつづら折りの細道を登りつめた所に「揚木戸門」と呼ばれる大岩をうがった門がある。
この門の先には穏やかな尾根上の通路に沿って「番所跡」の看板がある郭などいくつかの郭が連なり、その先に山頂部の西側にはま「馬場」と呼ばれる平場がある。
この平場は、東西が約15mと細長く、南北は約250mでやや段差があるが、馬場としてふさわしい広大な郭である。
その東に「蔵屋敷」と呼ばれる岩殿山城内で最も広大な約3アールの広さの郭があり、ここには武器・弾薬や食料が貯蔵されていたという伝承が残る。

さらに東へ向かって三の郭、二の郭に相当する郭が続き、岩殿山城の最高地点に当たる所に東西約50m、南北約15mの細長い郭がある。
この郭が「本城」と呼ばれるこの城の主郭であり、物見台や狼煙台が設置されていたと考えられるが、現在、放送関連の電波塔があり往時の状況を把握することは難しい。
主郭の西北端は細長く突起し、その先にある狭少な郭の東側は主郭への虎口(出入り口)であると推測されている。
主郭の東側の斜面には「一ノ堀」・「二ノ堀」と呼ばれる二つの堀切があり、さらに一段低い所に小郭と堀切がみられる。
また主郭を50mほど下った山腹には『甲斐国志』にある「亀ケ池」、また「馬洗先」と呼ばれる池があり、現在も少量ではあるが水が湧き出ている。

以上のように、岩殿山城の縄張り(構造)は岩殿山の山頂部西側の標高約610mの地点と東側の標高約635mの主郭の2つのピークを中心に、自然地形を生かしながら連結する郭によって構成されている。
また、岩殿山城の遺構は、岩殿山の頂上部分の他にも、その南側の丸山(岩殿公園)付近、北側斜面、西側の築坂(つくさか)付近などにもみられる。
ただし、前述した『甲斐国志』にみられる「一ノ堀」「ニノ堀」「本城」「馬場」「大門口」「蔵屋敷」「亀ケ池」「揚木戸門」などの地名の多くは伝承の域を出ず、現在、遺構として観察できるのは「一ノ堀」「ニノ堀」と「亀ケ池」のみであり、発掘調査などによる実態の解明が期待されてきた。

考古学調査とその成果

岩殿山城の考古学調査は、1995年度(平成7年度)から1997年度(平成9年度)にかけて山梨県大月市が実施し「岩殿山総合学術調査」(以下、「総合調査」)の一つとして行われた。
この総合調査は考古学、文献史学、城郭史、民俗学、建築史、都市史、仏教彫刻史、地形・地質、植物、動物などの各分野による総合的な学術調査で、そのうち考古学調査は1996年度(平成8年度)・1997年度(平成9年度)に試掘調査が行われた。

試掘調査は岩殿山城山頂部の『甲斐国志』にある「蔵屋敷」「亀ヶ池」を中心に4つの調査区を設定し、第1~第3調査区は1996年度(平成8年度)、第4調査区は第3調査区を拡大して1997年度(平成9年度)に行われた。
各調査区の場所、検出遺構、出土遺構などの概要は以下のとおりである。
【第1調査区】
「亀ヶ池」の上部の広い平坦面に等高線と平行な16×1mのトレンチを設定。遺構の検出、遺物の出土はなし。
【第2調査区】
「亀ヶ池」とその下方の「馬洗池」と呼ばれる2つの池に南北10m、幅1mの トレンチを設定。池の立ち上がりと壁際の石積みの一部を確認。数点の陶磁器が出土。
【第3調査区】「蔵屋敷」と伝えられている地点の平坦地に東西21×2m、南北14×2mの「十」字のトレンチを設定。底面より上の土層に焼土や炭化物片が多量に混入。東西・南北トレンチが交差する地点で、隅丸長方形の掘り込みと、それと重複する径100㎝・深さ40cmの丸い穴が検出。遺物は焼土交じりの土層から陶磁器片など43点が出土。
【第4調査区】
第3調査区の東側を拡張して5×8mのトレンチを設定。礎石状建物、円形の竪穴状遺構とその内外の小穴、楕円形や円形の穴などが検出。遺物は竪穴状遺構の範囲を中心に陶磁器片など74点、その他、粒状の炭化物の塊が2点出土。

この試掘調査では第3・4調査区を中心に、国産陶磁器をはじめ、明の染付、銭貨などの金属製品、茶臼、炭化種実などが出土している。
国産陶磁器には瀬戸・美濃産の天目茶碗・皿・四耳壼、各種染付、常滑産の甕、志戸呂産の皿などがあり、日常品のほか茶の湯に関わるものも多い。
銭貨は、判読できるものすべてが11世紀代に鋳造された北宋銭であり、金属製品には鉄釘や鉄滓があるが、その多くは陶磁器片が集中して出土する地点と重なっている。


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こうした試掘調査、中でも「蔵屋敷」と伝えられている第3・4調査区の検出遺構や出土遺物などの状況から、岩殿山城について以下のことが新たに明らかになった。
1点目は、16世紀中ごろから後半の天目茶碗などの出土遺物から、岩殿山城は遅くても16世紀半ばごろ、つまり戦国大名・武田氏の最盛期に存在 していたことが確実となった。
2点目は、堅固な山城である岩殿山城に茶の湯に関する礎石建物の存在が確認されたことである。
甲斐国で礎石建物が存在した戦国期の城郭は、武田氏の本拠である躑躅ヶ崎館や新府城のほか、武田一族の勝沼氏の勝沼氏館などに限られており、茶の湯に関する遺物の出土を加味すると、格が高い城であったと考えられる。
3点目は、焼土や炭化物などが確認されたことで、城内の建物が火災を受けていることが明らかになった。
この時期については、1582年(天正10年)3月の武田氏滅亡時のことなのか、今後も検討が必要である。

岩殿山城の性格

『甲陽軍鑑』には「駿河に久能、甲州郡内にゆわ殿、信濃にあがつま三処の名城を信玄公御覧じ立られ候は、御篭城有るべきとの事なり」とあり、岩殿山城は往時から関東3名城の一つとして知られていた。
その縄張り(構造)は峻険な自然地形を最大限に生かし、敵の侵入路を限定したり、要所に小さな郭や土塁を設けて敵の進撃を阻止するなどの工夫を加えている。

1996年度(平成8年度)・1997年度(平成9年度)に実施された試掘調査では、16世紀を中心とする国産陶磁器類が出土したことで、築城時期を含む年代観も明らかとなりつうある。
また、検出遺構や出土遺物から岩殿山城は臨時的な城郭ではなく、茶の湯に関する礎石建物を持つ、躑躅ヶ崎館や新府城に準じる拠点的な城郭であることも明確となった。

岩殿山城の性格については、江戸期より小山田氏の本城であるとする説が一般的であったが、近年は、武田氏直轄の城とする説が有力となっている。
岩殿山城が武田氏直轄の城として機能していたならば、1582年(天正10年)3月の織田・徳川連合軍が武田領に侵攻した際、新府城を放棄した武田勝頼が岩櫃城ではなく、岩殿山城を頼ったことも納得できる。


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<参考文献>
岩殿山総合学術調査報告書『岩殿山の総合研究―県史跡岩殿城跡、旧円通寺跡及び岩殿山の自然―』1998年 山梨県大月市教育委員会・岩殿山総合学術調査会

(寄稿)勝武@相模

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