葛西大崎一揆の解説~伊達政宗の失地回復の策略とは 

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小田原征伐(北条征伐)

戦国時代の1590年(天正18年)7月26日
奥州・陸奥国の中部にある葛西領主・葛西晴信と大崎領主・大崎義隆は、小田原の北条征伐に参陣しなかったことで豊臣秀吉に領地を没収されてしまいます。

その頃の葛西氏と大崎氏は、表向きは戦国大名でしたが独自に兵を擁立して参陣するだけの統治力がなく、何代も前から伊達氏に従属していたことから、領地没収は不運としか言えませんでした。

葛西氏と大崎氏の領地は、宮城県北部~岩手郡南部に及ぶ広大な土地だったため、この空白地を密かに狙っている奥州の戦国武将がいました。
「独眼竜政宗」の異名で知られる伊達政宗です。




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伊達政宗は、この地を狙うには理由がありました。
蘆名氏を倒したことで会津など8郡を手に入れたにも関わらず、奥州仕置の命令を無視して勝手に戦を行ったとして豊臣秀吉に領地没収されてしまったからです。

だが、この地に新領主として任じられたのは木村吉清でした。
木村吉清は、豊臣秀吉の家臣で京都奉行や検地奉行で功を残したという事で、知行5千石から30万石の戦国大名に大出世となったのです。

〈一揆までの経緯〉

新領主・木村吉清は葛西氏の居城だった寺池城を本拠地とし、嫡男の木村清久は大崎氏の居城だった名生城を拠点として領国経営を開始します。

ところが、木村吉清父子は領民の理解を得ず一方的な検地を実施して、通年よりも厳しい年貢を強引に取り立てたのです。
また、旧葛西・大崎氏の家臣たちを新たに取り入れることなく浪人とし、自分の家臣たちによる強引な刀狩りや狼藉などを黙認していたのです。
個人的見解ですが、これには大和朝廷時代から続く蝦夷(奥州)に対する根強い差別があったのかもしれません。

この傲慢な領国経営によって領民の不満が一気に高まり、旧葛西・大崎家の地侍を中心とした大きな一揆が勃発します。

葛西大崎一揆

1590年(天正18年)10月16日
旧大崎領の岩手沢城に旧城主・氏家吉継の家臣と領民が押し寄せて占拠します。
これが引き金となって領内の全域に一揆が拡大していきます。

そして、地侍を中心とした一揆勢は、木村吉清の居る寺池城にも押し寄せ城を包囲したのです。
籠城しても無理だと考えた木村吉清は、包囲の隙を見計らうと僅かな供回りで城を抜け出して佐沼城に立て籠ったのです。

また、嫡男の木村義久も同様に城を追われ、佐沼城に入ったことで父子が一揆勢に閉じ込められるような状況に陥ったのです。
この間も領内で起きた一揆は拡大を続け、領内の城を次々と奪還すると統治権を回復していったのです。

佐沼城に閉じ込められた木村吉清父子から奥州仕置軍筆頭の浅野長政は、帰京途中に滞在していた奥州・白河城で一揆勃発による救援の報せを受けます。
早速、浅野長政は蒲生氏郷と伊達政宗に木村吉清父子の救出と一揆鎮圧のために二本松城に参陣するように命じます。

〈家臣からの密告〉

1590年(天正18年)10月26日
旧葛西大崎領に向けて出陣した蒲生氏郷と伊達政宗は、下草城で作戦行動を協議し、11月16日に両軍による一揆鎮圧を開始することを決定します。

ここまでは、伊達政宗の思惑通りでしたが、自分の家臣による密告によって大きく外れていく事になるのです。
進軍の途中、蒲生氏郷の陣に伊達政宗の家臣・須田伯耆が突然来訪します。
なんと、裏で一揆を扇動したのが伊達政宗であることを密告したのです。

また、伊達政宗の祐筆(秘書役)だった曾根四郎助も一揆煽動の決定的証拠となる密書を持って同じく来訪してきたことで、伊達政宗が裏で一揆を煽動しているという疑惑が一気に確信へと変わっていったのです。
この密書には、一揆勢に蒲生軍の情報を提供して裏から攻めさせて蒲生氏郷を抹殺、そして伊達軍単独で木村吉清父子を救出して一揆鎮圧したことにしようとする内容が書かれていたのです。

伊達政宗は、この功により、旧葛西大崎領を獲得だけでなく、かつて自分の領地であった会津を含めた8郡も蒲生氏郷が無くなった事を理由にして好機を得たら手に入れようと考えていたのでした。

蒲生氏郷は、伊達政宗が間違いなく一揆煽動に関わっているとし、前方を行軍する伊達軍に知られぬよう方向を転換すると蒲生軍で名生城を一気に攻略します。
そして、伊達政宗に一揆煽動の疑惑ありとの報告を豊臣秀吉宛に送ると、一揆勢と伊達政宗の攻撃に備えて城の防備を固めたのです。




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蒲生氏郷の使者からの報告を聞いた豊臣秀吉は、石田三成を使者として派遣します。
伊達政宗は、策略が家臣の密告によって蒲生氏郷の知るところとなり、暗殺は失敗に終わったのです。

間者(黒脛巾組)から家臣の須田伯耆と曾根四郎助の密告によって蒲生氏郷に一揆煽動が知られてしまったと報告を受けた伊達政宗。
今後のためにも木村吉清父子の救出を第一選択として作戦行動を実施します。
そして、救出前に高清水城、宮沢城を攻略すると、11月24日に佐沼城を包囲していた一揆勢を撃退して木村吉清父子の救出に成功したのです。

伊達政宗は、木村吉清父子を蒲生氏郷の籠る名生城へ送り届けますが、強い警戒心を持っていたため受け入れを拒否したのです。
その後もやり取りを続けていると、蒲生氏郷から会津へ帰郷するために人質を差し出すように要求がありました。
これに応じた伊達政宗は、重臣の伊達成実と国分盛重を人質として差し向けますが、豊臣秀吉からの救援が明らかになるまで籠城を続けたのです。

〈上洛命令〉

1591年(天正19年)
人質を受け入れた蒲生氏郷は、正月になると帰郷します。
一方、豊臣秀吉の命により奥州・陸奥国を目指していた石田三成の軍勢は、相馬領・田中城に逗留すると蒲生氏郷、伊達政宗、木村吉清父子に向けて豊臣秀吉からの上洛命令を言い渡したのです。

1591年(天正19年)2月4日
豊臣秀吉の居る京・聚楽第へ呼ばれた伊達政宗、蒲生氏郷。
一揆煽動の有無について吟味されました。

伊達政宗は一揆煽動についての事実関係を否定し続けます。
証拠として提出された伊達政宗の花押の入った密書についても、花押の鶺鴒の目の所に針で空けた穴が入ってないとして偽物であると主張したのです。

密書が誰の目からも伊達政宗というのは明らかでしたが、豊臣秀吉は伊達政宗の主張を認めたのでした。
そして、伊達政宗に一揆鎮圧するように再度命令が下されて帰郷の途についたのです。




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一方、木村吉清父子は強引な内政が原因で領民に大きな不満を与え、葛西大崎一揆を引き起こしたとして改易となります。
改易後の木村吉清父子は、蒲生氏郷のもとに身を寄せるようになったのです。

再びの一揆鎮圧

1591年6月14日
米沢城に戻った伊達政宗は、一揆鎮圧のために旧葛西大崎領へ向けて再度出陣します。
進攻した伊達軍は、一揆勢が籠っていた宮崎城、佐沼城、寺池城などを次々と攻略しますが、佐藤為信、浜田景隆などの重臣が相次いで討死するなど伊達軍の損失も少ないものではなりませんでした。

その後も北進を続ける伊達軍のもとへ一揆勢の首謀者達から降伏を表明してきたのです。
これにより、伊達政宗による葛西大崎一揆の鎮圧が成し遂げられました。

〈戦後処理〉

一揆勢の首謀者らが伊達政宗のもとに集められました。
そして、伊達政宗に関わりの深かった者たちに対して非常に厳しい粛清が行われたのです。

表向きは、豊臣秀吉の命令で検地に反対する者は、徹底的に処罰することになっていたことになっていましたが、口封じのために皆殺しにしたのではないかとされています。

また、この処刑について伊達政宗の重臣・伊達成実は『伊達成実紀』にて「葛西大崎の一揆勢は伊達政宗によって騙し討ちされた」と記述されているため、これからも伊達政宗による陰謀説は有力であるといえます。

伊達政宗は、葛西大崎一揆を鎮圧したことで旧葛西大崎領(13郡30万石)を拝領しますが、引き換えに伊達、安達、田村など6郡44万石が没収されたため、加増ではなく減転封という結果となったのです。
この没収された6郡は、蒲生氏郷に拝領されたのです。

豊臣秀吉の裁断によって、表向きには伊達政宗は一揆煽動に関わっていないとなっていますが、結果的に一揆煽動に少なからず関わっていたとして減封とういう処分が下されたのでした。




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この減転封により、家臣の知行高が削減されただけでなく、荒れ果てた土地も多く十分な作物が育つには暫く時間が掛かることから、家臣の不満が伊達家内で一気に高まっていったのです。

また、追い打ちをかけるように伊達成実、鬼庭綱元、国分盛重、遠藤宗信といった重臣が相次いで出奔したことは、伊達政宗にとって大きな痛手となったのでした。

(寄稿)まさざね君

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