武田信玄誕生の城「要害山城」~躑躅ヶ崎館の「詰の城」~

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要害山城の概要・アクセス

要害山城(山梨県甲府市)は1520年(永正17年)6月、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)から北東へ約2.5㎞離れた標高約800mの要害山に武田信虎によって築城された山城である。
武田信虎・武田信玄・武田勝頼の三代にわたって使用され、武田勝頼が新府城(山梨県韮崎市)へ移るまでの62年間、躑躅ヶ崎館とともに武田氏の領国支配の本拠であった。
躑躅ヶ崎館が居館・政庁であるのに対して、要害山城は緊急時に立てこもる「詰(つめ)の城」として機能し、武田氏滅亡後も修築や整備が行われた。


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1600年(慶長5年)に廃城となったが、現在も遺構が良好に残されており、1991年(平成3年)3月30日に国の史跡に指定されている。
武田信玄が誕生した城と伝えられており、山頂の主郭部には東郷平八郎の揮毫(きごう)による「武田信玄公誕生之地」と刻まれた碑が建っている。

交通アクセスは、甲府駅からバスで約20分の「積翠寺下」バス停で下車し、要害山城登山口まで徒歩で約15分、登山口から主郭までは約30~40分かかる。
ただし、バスの本数は1日3本と極めて少ないので、注意が必要である。
また、甲府駅周辺からレンタサイクルを使うと登山口まで約30~40分程度である。

要害山城の歴史

要害山城の築城については、『高白斎記』の1520年(永正17年)6月の条に「晦日丙 戌積翠寺丸山ヲ御城ニ被取立普請初ル。(閏)六月朔丁亥信虎公丸山ニ登リ。香積寺ニ被下」とあり、1570年(永正17年)6月に築城されたことが史料で確認できる。

城主については、『高白斎記』の1521年(大永元年)8月の条に「昌頼丸山ノ城主ニ被仰付」とあるが、昌頼が誰のことであるかは明らかではない。
同時期の記録である『甲陽軍鑑』『甲斐国志』には「石水寺城番」として駒井次郎左衛門の名があり、駒井昌頼(駒井高白斎)ではないかと考えられる。

1521年(大永元年)、甲斐国(山梨県)は駿河国(静岡県)の今川氏の武将・福島正成の侵攻を受けた。
このとき、懐妊中の武田信虎の夫人は要害山城に避難し、嫡男・武田晴信(信玄)を出産したと伝わる。
また、城の麓にある積翠寺には産湯(うぶゆ)をくんだ井戸や産湯天神が現存している。
武田氏時代にこの城が実際に使われたのは、記録の上ではこのときだけである。


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武田信玄の没後、跡を継いだ武田勝頼は1575年(天正3年)、長篠の戦い織田信長・徳川家康の連合軍に大敗する。
その翌年の1576年(天正4年)6月、武田勝頼は帯那郷の村役人宛に、人夫催促状を発して要害山城の修理を命じている。
その内容は17歳から60歳までの男子を毎月3日ずつ要害山城の参加させるよう通知したものである。
長篠の戦いでの大敗後、武田勝頼は甲斐国の情勢悪化を踏まえて急遽、要害山城の防御を固めたことが想像できる。

1582年(天正10年)の武田氏滅亡後も、要害山城は甲府城が完成するまで躑躅ヶ崎館と一体化して領国支配の本拠として機能した。
1590年(天正18年)から1593年(文禄2年)まで、甲斐国を領した豊臣秀吉の家臣・加藤光泰(みつやす)が要害山城を修復したという記録が残る(『裏見寒話(うらみかんわ)』)。
また、『甲斐国誌』には「慶長五年ノ後ワリ壊ス」とあり、1600年(慶長5年)に廃城となったことが記されている。

要害山城の縄張り(構造)

要害山城は麓の積翠寺から山頂の主郭まで急斜面の登る通路が続き、その防御のために枡形虎口(城の出入口)や竪堀、堀、土塁、細長い郭が連続してみられる。
大手口(城の表面)側の第一の門は直線的に登りつめる途中にあり、第二の門は登城通路が直角に屈折するところにあり、いずれも残存する石積みや土塁などから、堅固な造りであったことが想像できる。

第二の門を入ると「不動曲輪」と呼ばれる武者溜り(むしゃだまり)風の平坦部があり、そこには「武田不動尊」が祀られている。
その少し先、登山口から主郭に至るほぼ中間地点には「諏訪水」と呼ばれる湧水(井戸)があり、それは諏訪明神に祈願して得たという伝承をもつ(『甲斐国志』)。
この場所より主郭までは通路と竪堀、堀、土塁、門、郭が複雑に配置されており、敵の侵入を容易に許さない堅固な造りとなっている。

主郭は東西が約73m、南北が約22mと細長い長方形で、四方に土塁が回るが、中でも東の搦手(からめて、城の裏口)口方面の土塁は、枡形状を呈し大規模なものである。
主郭の北側には3段の帯郭が設けられており、また搦手口から東へ続く尾根筋は極めて狭く、堀切と竪堀、小郭を巧妙に組み合わせることで、大手口以上の厳重な防御としている。

要害山城南遺構群(「熊城」)の縄張り(構造)

南遺構は要害山城から沢を隔てた南東の標高約725mから約675mの尾根上に所在し、「熊城」とも呼ばれている。
要害山城の搦手口からの尾根を東から南に向かうと南北方向に堀切があり、幅が狭い土橋が架けられており、それを渡ると「一の郭」である。
この郭は城内で最も高いところにあり、ほぼ平坦な長方形を呈し、西側の一段下がったところには帯郭がある。
郭の南側を中心に取り巻くように土塁が巡り、その基底部には他の郭でも多くみられる石積みが残存しており、南側の防御を重視していることがわかる。

「一の郭」から「二の郭」を下ったところにある「三の郭」は東西約30m、南北約15mの長方形を呈し、この城でもっとも広い面積を有する。
この郭も南側に土塁と石積みがみられ、北側には二段の帯郭が付属している。
「三の郭」を下ると「四の郭」・「五の郭」」、少し離れて「六の郭」と続き、これら三段の郭から約20m下がったところに「七の郭」・「八の郭」がある。


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「七の郭」・「八の郭」とも南北両側に堀があり、それぞれ西側は南北方向の堀切で画されている。
その形状は他の郭とは異なり、中央には一段高い土壇状の平坦部があり、「七の郭」・「八の郭」は監視するための何らかの施設があったと考えられる。

「詰の城」としての要害山城

要害山城は躑躅ヶ崎館の「詰の城」として、1520年(永正17年)に武田信虎によって築かれた山城である。
「詰の城」は、守護や戦国大名などの領主層が戦時の最後の拠点として設けた山城で、居城や居館とともに領国支配を担った。
朝倉氏の朝倉氏館と一乗谷城(福井県福井市)、大内氏の大内氏館と高嶺城(山口県山口市)、葛山(かずらやま)氏の葛山館と葛山城(静岡県裾野市)、河村氏の河村館と河村城(神奈川県山北町)などが知られている。

要害山城も62年にわたって戦国大名・武田氏の領国支配の本拠である躑躅ヶ崎館の「詰の城」として機能した。
その縄張り(構造)の特徴は、山の傾斜面を利用しながら登城通路に沿って郭を連続的に配置し、堀切、竪堀、土塁、門を絶妙に組み合わせて防御を強固にしていることである。
また、南東に位置する要害山城南遺構群(「熊城」)は、狭い尾根上に小規模な8つの郭を東西約180mにわたって配置し、武田氏の城郭には珍しい竪堀が随所にみられる。

南遺構群(「熊城」)は要害山城の搦手方面からの敵の侵入を防ぐことを目的に、新たに整備されたものと考えられる。
その時期は、長篠の戦いの翌1576年(天正4年)6月の武田勝頼による要害山城の修理の時と考えられるが、文献史料にその記録がないため推測の域をでない。

要害山城は1991年(平成3年)3月30日、要害山(ようがいさん)」の名称で国の史跡に指定された。
その解説文には「本丸に達する通路や枡形・曲輪・堀切・見張台等のほか、要所をかためる石垣もよく残っており、戦国の雄武田氏の城郭として、また館跡とあいまって中世豪族の居住形態の典型としてすぐれている」とある(「文化財データベース」)。
要害山城は戦国大名・武田氏の本拠である躑躅ヶ崎館の「詰の城」として評価されているのである。


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それにもかかわらず、主郭を除き整備が進んでおらず、登山口に説明板が設置されている以外は、主郭も含めて案内板や説明板などは無い状況である。
現在、躑躅ヶ崎館では発掘調査や復元整備が進められているが、今後、要害山城でも調査や整備を行い、館と「詰の城」が一体となった貴重な史跡として後世に伝わることを期待したい。

(寄稿)勝武@相模

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