信州の五稜郭「龍岡城」 ― 松平乗謨が築城したもう一つの五稜郭 ―

「信州の五稜郭「龍岡城」 ― 松平乗謨が築城したもう一つの五稜郭 ―」のアイキャッチ画像

概要

江戸時代末に北海道の箱館(現函館)に星型稜堡をもつ西洋式城郭として五稜郭が築城された。
函館の五稜郭は、城内の箱館奉行所や戊辰戦争(1868年~1869年)の最終局面である箱館戦争の舞台として国内外によく知られている。
現在は国の特別史跡として貴重な文化遺産であり、北海道有数の桜の名所として函館観光の中心となっている。

幕末期、この函館の五稜郭のほかにもう一つ、信濃国(長野県)にも「龍岡城(たつおかじょう)」(長野県佐久市)という名の五稜郭が築城された。
龍岡城は、田野口藩主・松平乗謨(のりたか)が藩の新陣屋として1864年(元治元年)3月に着工し、1864年(元治元年)の函館五稜郭の完成から遅れること3年、1867年(慶応3年)4月に完成した。


スポンサーリンク


龍岡城へはJR小海線の「龍岡城駅」または「臼田駅」から徒歩約20分である。
龍岡城は1934年(昭和9年)に国の史跡に指定され、現在は佐久市立田口小学校として活用されており自由に見学することはできない。
龍岡城から北東方向へ約2.1kmの「五稜郭展望台」からは五角形の星形をなす龍岡城の全景を見ることができる。

築城主・松平乗謨

龍岡城を築城した松平乗謨は、信濃国佐久郡(長野県佐久市)に1万2千石、三河国奥殿(愛知県岡崎市)に4千石の領地を持つ大給(おぎゅう)松平氏の11代藩主である。
大給松平氏は1704年(宝永元年)以来160年間にわたり奥殿(おくどの)の陣屋を本拠として、佐久にも陣屋を置いて領内25カ村を統治してきた。

松平乗謨は幼少時から学才・識見ともにすぐれ、江戸幕府の鎖国政策のもと海外諸国より著しく軍備が立ち遅れていることは、国家存亡の危機であると憂いていた。
長じて洋学を志し、美濃郡上(ぐじょう)藩士・山脇東太郎に蘭学を、出雲松江藩士・入江文四郎にフランス語を学び、特に西洋の火砲や築城技術への関心を高め、家臣にも積極的に洋学を奨励した。

松平乗謨は大番頭(おおばんがしら)に任じられると、藩庁を手狭な奥殿陣屋から領地の多くが存在する信濃佐久郡田野口に移転することと、新陣屋を西洋式の星型稜堡城郭として築城することを江戸幕府に願い出て許された。
新陣屋である龍岡城は1864年(元治元年)3月の着工から3年余をかけて1867年(慶応3年)4月に完成した。

その後も松平乗謨は若年寄・陸軍奉行・老中・陸軍総裁などの江戸幕府の要職を歴任したが、戊辰戦争(1868年~1869年)が始まると、松平乗謨から大給恒(ゆずる)に改名して明治新政府に帰順した。
明治新政府では、勲章制度の確立に功をなし、元老院議官・賞勲局副総裁・賞勲局総裁・枢密顧問官などの要職を歴任した。
1884年(明治17年)の華族令では子爵(ししゃく)に叙せられ、1907年(明治40年)には賞勲制度の確立を賞されて伯爵(はくしゃく)に上がっている。
また、大給恒(松平乗謨)は1877年(明治10年)に起きた西南の役における戦勝の悲惨な状況をふまえて、同年5月に佐野常民ともに博愛社(のちに日本赤十字社)を創設し副総裁に就任している。


スポンサーリンク


松平乗謨は1910年(明治43年)1月に72歳で没するが、幕末から明治へと変わっていく激動の時代の中で、西洋の知識や技術に高い関心を示して新時代を切り拓いた。
その象徴の一つがフランスの築城家・ボーバン(ヴォーバン)の稜堡式築城術を採用して築城した、我が国2番目の五稜郭である龍岡城であった。

龍岡城の構造・建築物

松平乗謨は1863年(文久3年)6月に江戸幕府から新陣屋の築城許可が得られると、同年7月には家老・出井勘之進に普請奉行に任じ、松平乗謨自らも同年9月に新陣屋の模型を完成させ、翌1864年(元治元年)3月に工事を開始した。
総費用は4万両余を費やしているが、城地は田野口村(長野県佐久市)から献上され、領内だけではなく他領の村々からも石材・木材などの献納や献金、人足の提供があったという。
中でも難工事の石垣は、伊那高島藩(長野県伊那市)から西洋式築城術に長けた石工(いしく)、棟梁2人と石工60人を招いて担当させるなどして、着工から3年後の1867年(慶応3年)4月に龍岡城が完成した。

龍岡城の総面積は函館の五稜郭の4分の1ほどの約6万6578㎡で、そのうち内城は約1万8612㎡、外城は約4万7966㎡で、星形五角形の内城の周りには石垣と土塁がめぐる。
堀は5つの角のうち北・東・南側の3つの角を結んで約7.2m(大手門前面は約9m)の堀幅でめぐっているが、南西側の堀は未完成の状態であった。

石垣は根石の上を約1mの粘土で固めて基礎とし、砲撃・地震などでずれないように、また地下水による土砂浸蝕を防ぐように造られている。
石の積み方には、表面に出る石の角や面をたたいて平たくし、石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる「打ち込みはぎ」や、一つひとつの角を丁寧にすり合わせて隙間なく積み上げていく「切込みはぎ」などが見られる。
特に、西南角の砲座下の石垣は石の配列を菱形にした「亀甲(きっこう)積み」であり、大手橋付近の重ね積みとともに優れた造形美を見せている。
その一方、堀外側の石垣は東南側から南側へ回るに従い、「打ち込みはぎ」から野面(のづら)積みに変わり粗末になっている。
石垣の高さは堀底から約3.6m、その勾配は直立に近く、その頂部は板石を堀側にわずかに突出させることで、敵の侵入を防ぐ武者返しが設けられている。

城内には表御殿・長屋・面番所・太鼓楼・台所・火薬庫などが建てられ、西南の角には砲座が置かれたが、大給松平氏は「城主各」ではなく「陣屋格」の大名であったため、天守やさまざまな防御施設は造られなかった。
門は北東側に大手門、東側に通用門、南東側に穴門、北西側に黒門があり、表御殿には薬医門が存在した。

廃城後の龍岡城

龍岡城は1867年(慶応3年)4月に完成するが、堀や石垣と同様に城内の建物の大半は板葺きであり、準備していた瓦は使用されなかったことが記録に残る。
1871年(明治4年)の廃藩後、龍岡城の建造物の多くは解体されて競売にかけられたり、取り壊されたりし、城内の大半は農地に転用された。
御殿の一部である「お台所」は農機具倉庫として使用されたが、1875年(明治8年)に城跡が小学校(現・佐久市立田口小学校)の用地になると、「お台所」も小学校校舎として活用され、1929年(昭和4年)に築城当時とは反対側の現在地に移築された。
「お台所」以外の建造物は、御殿の中心的建物であった「大広間」が佐久市鳴瀬落合の時宗寺の本堂として、東通用門が佐久市野沢の成田山薬師寺の門として、それぞれ移築され現存しており、また、薬医門と塀が新海三社神社に向かう道沿いの個人宅に移築されている。

現在の龍岡城は小学校の敷地となっているため城内の見学は制限されており、当時の建物として唯一現存する「お台所」の見学については、2週間前までに佐久市文化振興課文化財事務所(0267-63-5321)まで事前予約が必要である(原則200名以上の団体)。
かつての大手門前にある「五稜郭であいの館」では、龍岡城や松平乗謨に関する資料が展示されている。


スポンサーリンク


なお、城内に建つ佐久市立田口小学校は2022年(令和4年)度末で閉校することが決定しており、閉校後は小学校の全施設を解体撤去し、往時の龍岡城にできるだけ近い状態にするという整備計画が進められている。
整備に当たっては文献調査や考古学調査などの成果を踏まえ、保存と活用の両立が図られることを期待したい。

主な参考文献

・平井 清、他 1980年『日本城郭大系 第8巻 長野・山梨』新人物往来社
・パンフレット『龍岡城五稜郭』長野県臼田町
龍岡城五稜郭 | 佐久市ホームページ
佐久市立田口小学校

(寄稿)勝武@相模

「五稜郭」の築城~西洋式築城術を取り入れた城郭~
世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」~構成資産・関連資産の遺跡の解説~
波多野氏の館の探究~「波多野城址」と「東田原中丸遺跡」
土肥実平の館を探究する~土肥館と土肥城~
相模武士団の概説~源平の争乱期・平安時代末期から鎌倉時代初期を中心に~
考古学からみた藤原秀衡の館・柳之御所~発掘調査成果から探る特徴~
藤原秀衡と「平泉館」~『吾妻鏡』と柳之御所遺跡の調査から
中世初期の武士の館~文献史料・絵巻物から読み解く~
鎌倉城とは~大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の舞台をめぐる諸説
武田信玄誕生の城「要害山城」~躑躅ヶ崎館の「詰の城」~
考古学からみた躑躅ヶ崎館~大手周辺の発掘調査と整備を中心に~
武田氏の本拠「躑躅ヶ崎館」の特徴~現状観察から探る~
戦国大名・武田氏の「躑躅ヶ崎館」~真田氏ゆかりの館の変遷~

共通カウント