【西洋式城郭】江戸湾に築かれた「台場」を探究する~江戸幕府の海防政策と関連付けて~

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概要

江戸時代初期は朱印貿易の下、戦国時代の南蛮貿易の影響により日本人の海外渡航や貿易が盛んであったが、江戸幕府はキリスト教の禁止とともに、1616年(元和2年)以降、海外との交流を制限指していった。
1641年(寛永18年)以降は、「鎖国」と呼ばれる対外政策によりオランダ・清・朝鮮などを除き、海外との交流が禁止された。

江戸時代後期になると、ロシア・イギリス・アメリカの使節や軍艦・商船が、日本との通商を求めて寄港したり、日本近海に出没したりするようになった。
そこで、江戸幕府は各藩に命じて台場を全国各地の海岸に築かせて外国船からの攻撃に備えるとともに、1825年(文政8年)には異国船打払令を出し、外国船を撃退するように命じた。

1853年(嘉永6年)6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦(「黒船」)を率いて浦賀沖に現れ、江戸幕府に開国を求めた。
江戸幕府はその威力に屈して、翌1854年(嘉永7年)年3月に再来航したペリーと日米和親条約を結んだ。
さらに、1858年(安政5年)に日米修好通商条約を結び、ついでオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約(安政の五ヶ国条約)を結び、日本は開国した。




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高等学校日本史教科書にはこうした対外政策の展開の中で、台場についても触れているが、台場の具体的なことについては記載されていない。
そこで、本稿では江戸湾に築かれた台場が築かれた背景や経緯、特徴、歴史的性格などについて、江戸幕府の海防政策と関連付けながら探究する。

西洋式築城術と台場

台場は中世城郭や近世城郭とは異なり、函館五稜郭(北海道函館市)や龍岡城(長野県佐久市)と同じく稜堡(りょうほ)式城郭としての特徴を持つ。
西洋式築城術については、江戸時代初期には日本の兵学者の間で知られており、それに関する研究や著作がみられる。
1650年(慶安3年)、兵学者の北条氏長(うじなが)が、オランダ人ユリアン・スハーデル(Juiliam Sch Lten)から聴いた築城法・攻城法などを『由利安牟攻城傳(ゆりあむこうじょうでん)』としてまとめ、それを3代将軍・徳川家光に奏上している。
寛政期(1789年~1801年)から天保期(1831年~1845年)頃には、清水徳川家の軍学者である村尾正靖(まさやす)が著作『築城故實(ちくじょうこじつ)』において、西洋の稜堡式築城の特徴を加味した砦を考案している。
江戸時代末期の1859年(安政6年)には、医師で蘭学者の廣瀬元恭(げんきょう)がベクマンの著作『築城新法』を、また蘭学者の伊藤慎蔵(しんぞう)がケルキウエィキの著作『築城全書』をそれぞれ翻訳し刊行している。
さらに、1860年(万延元年)年には、大鳥圭介が吉母波石児の著作『築城典刑(てんけい)』を紹介しており、他にも1865年(慶応元年)に『斯氏(すし)築城典刑』、1867年(慶応3年)に『築城約説』などが刊行されている。

稜堡式城郭は16世紀に、攻城砲に対抗すべくイタリアで生まれ、その後、オランダ・フランス・ドイツでも採用され、それぞれ独自に発展していき、17世紀後半、フランスのボ-バンが各国の築城術を統合し理論化した。
鎖国下にあった日本においても西洋式築城術は兵学の一分野として研究がなされていたが、江戸時代後期に外国の軍艦・商船が相次いで日本近海に出没するようになると、西洋式築城術への関心がより高まったものと考えられる。

西洋式城郭は構造上の特徴から、稜堡・堡塔・台場の3種類に大別できる。
稜堡は、城郭の縄張りを星形にし、その突角部に砲座を置くことで、多方面から発射される十字火により敵を殲滅する機能をもち、典型的な城郭として函館五稜郭と龍岡城が現存する。
堡塔は、石壁に数個の砲眼を明けて、その穴から砲撃する円筒形の石造建築物で、特に大阪湾を中心に築城された。
台場は、敵に面する方向に石垣或いは土塁を築き、数カ所に砲座を設けた露天の施設で、絵図などから柵、番所、硝煙(えんしょう)蔵、人足小屋などの建造物があったことがわかる。

その中で台場は、寛政期から1853年(嘉永6年)のペリー来航以前までの間に、全国の海岸線に約600基が築かれた。
その場所は主に津軽海峡周辺、三陸海岸、常陸、銚子、江戸湾沿岸、紀伊半島南端、四国南岸、九州南岸、長崎周辺、山陰西部、北陸、佐渡などである。
ペリー来航(1853年)後も新たに築城された台場が約400基、改築された台場が約50基あり、その場所は主に津軽海峡周辺、江戸湾内、志摩半島、大阪湾、瀬戸内海、西九州、山陰地方である。

江戸幕府の海防政策と台場の築造

江戸幕府のお膝元である江戸湾では、寛政の改革期(1787年~ 1793年)に江戸湾防備体制の構築が計画されたが、改革の主導者・松平定信(さだのぶ)の老中辞職とともに中止された。
その後、1807年(文化4年)から台場築城の準備がおこなわれ、1811年(文化8年)から会津藩や白河藩などにより台場が築かれていった。
1807年(文化4年)10月、江戸幕府の鉄砲方・井上左太夫(さだゆう)に下田、浦賀、安房・上総(千葉県)の海岸を視察した。
翌1808年(文化5年)2月には、井上左太夫と浦賀奉行・岩本正倫(まさみち)らを伊豆・相模・安房・上総国内に派遣し、台場築造の候補地を選定させるなど、江戸湾防備の準備に着手した。
同年8月、イギリス軍艦フェートン号が長崎に侵入し、オランダ商館員を人質にして薪水(しんすい)・食料を強要して退去するというフェートン号事件が起こると、江戸湾防備体制の確立が急がれた。

江戸幕府は1810年(文化7年)、白河藩と会津藩に江戸湾の防備を命じ、上総側を白河藩、相州(神奈川県)側を会津藩に担当させた。
1811年(文化8年)、白河藩は洲崎(すのさき)台場(千葉県館山市)・竹ケ岡台場(千葉県富津市)、会津藩は安房台場(神奈川県三浦市)・平根山台場(神奈川県横須賀市)・観音崎台場(神奈川県横須賀市)を築き、藩兵を駐屯させた。
これにより寛政の改革期以降の懸案だった江戸湾防備が具体的に進んだことになるが、その後、ロシアとの緊張関係が緩和されると、江戸湾の防備体制も緩やかなものになった。
江戸幕府は1820年(文政3年)12月に会津藩による相州側の警備、1823年(文政6年)3月には白河藩による安房・上総側の警備をそれぞれ免じ、浦賀奉行や代官の所管として江戸幕府の直轄としたが、守備兵力は縮小した。

その後の10数年間、外国からの圧迫はほとんどなく、江戸幕府の海防政策は緩和・縮小されたままであった。
しかし、1837年(天保8年)6月、アメリカの商船・モリソン号が浦賀沖に来航し、日本人漂流民を送還して日本に通交を求めたが、江戸幕府は異国船打払令(1825年)に基づいてこれを撃退した(モリソン号事件)。
この事件をきっかけに、老中・水野忠邦(ただくに)を中心とする幕閣は、江戸湾防備の強化に着手した。
1839年(天保10)年、目付・鳥居耀蔵(ようぞう)、代官・江川英龍(ひでたつ)は伊豆・相州・安房・上総を視察し、江戸湾防備の改革案を提出した。

この改革案を踏まえて、江戸幕府は1842年(天保13年)8月、川越藩に相州、忍藩に安房・上総の警備をそれぞれ命じた。
また、同年9月に参勤中の諸大名に対して江戸屋敷に大砲を備えさせ、同年12月には下田奉行を復活し、羽田奉行を新設して江戸湾の外と内を固めた。
ほかにも水野忠邦は、海岸に領地を持つ諸大名に警備兵力や武器の報告、台場・遠見番所・海岸の絵図面の提出を求め、西洋砲術の奨励と普及を進めるなどの海防政策を図った。
しかし、これらの海防政策は、天保の改革の失敗により水野忠邦が老中を退くと縮小された。




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一方、欧米諸国による日本の開国への要求は激しくなり、1844年(弘化元年)にオランダ国王が
江戸幕府に開国を勧告し、1846年(弘化3年)にはアメリカ東インド艦隊司令長官・ビッドルが浦賀に来航し開国を要求している。
そこで、江戸幕府は1847年(弘化4)、新たに彦根藩に相州、会津藩に安房・上総の警備をそれぞれ命じ、猿島台場・千駄崎台場(神奈川県横須賀市)、大房崎台場(千葉県南房総市)を新たに築いた。
また、1852年(嘉永5)年にも亀ヶ崎台場・鳶の巣台場・鳥ヶ崎台場(神奈川県横須賀市)を新たに築くなど、相州側の防備をより充実させたが、江戸湾内の防備は放置された。

1853年(嘉永6年)6月、ペリー艦隊が来航した後、江戸幕府は江戸湾防備の不備を痛感し、品川沖に品川台場の築造を決めるとともに、江戸湾入口の警衛を熊本・萩藩に命じるなど、江戸湾の防備を強化した。
全国的には大船製造禁止令を解除し、西洋砲術修業令を発令するなど、外圧に対抗するための軍事充実策を実施した。
また、開国後は蝦夷地、神奈川、長崎、箱館の警備の強化にも力を入れ、その一環として1860年(万延元年)には神奈川台場が築かれた。

江戸湾沿岸の台場

江戸時代後期以降の江戸湾沿岸には、江戸幕府の海防政策の展開の中で、江戸湾の防備を担った会津藩・川越藩・鳥取藩・彦根藩・松山藩などにより多くの台場が築かれた。
例えば、本稿ですでにふれた洲崎台場・竹ケ岡台場・安房台場・平根山台場・観音崎台場・猿島台場・千駄崎台場・大房崎台場・亀ヶ崎台場・鳶の巣台場・鳥ヶ崎台場である。
以下、江戸湾に築かれた台場の中から、築造年代や経緯、規模、形状、歴史的役割などを踏まえ、特徴的な富津台場・竹ケ岡台場・品川台場・神奈川台場について紹介する。

【富津台場】
富津台場は、1810年(文化7年)に江戸幕府が松平定信に命じた安房・上総の海岸の防備体制の構築の一環として築かれた。
1812年(文化9年)に洲崎台場(千葉県館山市)などが築かれ、その後、1822年(文政5年)に洲崎台場が富津に移されて富津台場となったのである。
富津台場は浦賀水道の守備を目的に築かれ、対岸の相州側に築かれた平根山台場・観音崎台場などと連携して防備にあたったものと考えられる。
この台場の構造は、海岸の波打ち際よりやや離れた洲の南岸に平坦地をつくり、前面には2~3mの弾除けの土手を築き、この内部に大砲を据えた。
大砲は横一列に配置され、各砲の間にも土手を築き、大砲の前には弾丸が濡れないようにするために雨覆いを設け、近くには番所や弾薬庫、人足小屋などがあったという。

【竹ケ岡台場】
竹ケ岡台場は1812年(文化9年)、老中・松平定信の命で白河藩が東京湾に面した丘陵の麓に築き、白河藩や会津藩が守備した。
1858年(安政5年)に欧米諸国との修好通商条約が成立し、海防の必要性が薄れると、台場としての機能は停止したという。
この台場は古絵図などの資料によると、横一列に3門の大砲が配備され、三方に石積みがめぐり、砲と砲の間は石垣で区画されていた。
また、竹ケ岡台場の建築に伴い、台場から東へ約1.5㎞の平坦地に竹ケ岡陣屋が築かれた。
竹ケ岡陣屋は約2万2500㎡の広さを有し、会津藩・忍藩・二本松藩・柳川藩などの藩士200名ほどが駐屯したという。

【品川台場】
品川台場は1853年(嘉永6年)6月のペリー来航直後、江戸湾における江戸市中の前線基地として品川沖に築かれた台場である。
江戸幕府は江川英龍らの江戸湾巡視の結果を受けて、品川沖に11基(第一台場~第十一台場)の台場を築くことを決め、同年8月末から昼夜兼行の築造工事が進められた。
これに費やす石材・木材を運搬する船や人夫などは膨大な数に上り、総工費は約100万両という巨額なものになった。
そのためか、第一・第二・第三の3基の台場は1853年(嘉永6年)7月に完成、第五・第六台場と、途中で加えられた御殿山下台場は同年12月に完成したが、第四・第七台場は工事途中で中断、第八台場以降は未着手であった。

最終的に品川台場は6基が完成し、1855年(安政2年)から川越・会津・忍・庄内・松代・鳥取の6藩により本格的な警備がおこなわれ、警備体制の改善を図ったり、担当藩を交替させたりしながら、1868年(慶応4年)の江戸幕府崩壊直前まで江戸湾警備の役割を担った。
現在、第三・第六台場が1926年(大正15年)に国指定史跡となったが、残りの4基の台場は埋め立てや撤去工事により消滅した。
なお、第三台場は「都立お台場公園」の一角に整備・公開されており、また、海中にある第六台場とともにレインボーブリッジ上から見ることができる。

【神奈川台場】
神奈川台場(神奈川県横浜市神奈川区)は開国後の1859年(安政4年)6月から1860年(万延元年)にかけて、松山藩が6万両余の巨費を費やして独力で築いた。
設計は勝海舟、縄張りは佐藤政養・佐藤恒蔵が担当し、半星形で3つの稜堡もち、渡り道2本によって陸地とつなげ、その間を船溜まりとする、全国的にも稀少な稜堡式台場である。
築造の経緯は、1857年(安政4年)に、松山藩主・松平勝成が開港場となった神奈川周辺の警備を命ぜられたことで、翌1858年(安政5年)年、松山藩が藩費でこの地に台場を築くことを江戸幕府に願い許可を得たのである。
大砲は36ポンド砲10門、60ポンド砲4門が設置され、その標準方向が波止場を向き、その距離が約2.4㎞であることから、横浜開港に伴う警備強化と考えられる。
しかし、実際には幾度か礼砲が発せられたに過ぎず、神奈川台場を実見した外国人は軍事的な効果を疑問視していたという。
神奈川台場は、1924年(大正13年)11月の東高島駅の開業により埋め立てられ、現在は線路と住宅の間に石垣が残るのみである。

台場の歴史的性格

台場は江戸時代後期以降、ロシア・イギリス・アメリカなどの外国船が日本近海に出没し、江戸幕府に開国を求める中で、海防のために全国各地の海岸に築かれた西洋式城郭である。
その構造は、江戸時代初期から兵学者の間で知られていた西洋式築城術を具現化したもので、特に、神奈川台場は稜堡式の台場として全国的にも稀少な形態である。
また、台場は白村江の戦い(663年)の敗戦後、九州地方北部から瀬戸内・近畿地方にかけて築かれた古代山城や、蒙古襲来(1274年・1281年)の際、北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた石塁(「元寇防塁」)と同様に対外的な国家的事業による築城であった。

特に、江戸湾沿岸の台場は、戦国大名の支城体制のごとく、外国船の襲来等に備えて江戸湾の防備線上に無駄なく分布している。
しかし、大砲を備え砲撃を主とする台場であるが、江戸湾沿岸の台場で実際に砲撃した事例は、モリソン号が浦賀に来航したときの平根山台場のみであったという。

2018年(平成30年)年告示の高等学校学習指導要領では、すべての高校生が世界と日本の近現代史を結びつけて学ぶ科目である「歴史総合」が新設され、2022年(令和4年)度から全国の高等学校で授業がおこなわれている。
その中の項目「歴史の特質と資料」では「日本や世界の様々な地域の人々の歴史的な営みの痕跡や記録である遺物、文書、図像などの資料を活用し、課題を追究したり解決したりする活動」を通して、知識や思考力、判断力、表現力等を身に付けることができるよう指導することが示されている。
こうした学習指導をおこなうにあたって、台場は江戸時代後期以降の海防政策の具体を知ることができる貴重な資料であると考える。
「歴史総合」の授業において、台場を資料として活用しやすくするためには、台場の保存・整備をより進めるとともに、今後、発掘調査などを通して台場の実態の解明を期待したい。




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<主な参考文献>
赤星直忠 1955年「三浦半島城郭史」『横須賀市史八』横須賀市
大類伸・鳥羽正雄 1936年『日本城郭史』雄山閣
武井 勝 2001年「神奈川における西洋式築城との出会い~神奈川台場と小田原台場を中心に~」『歴史分科会研究報告《第二九号》』神奈川県高等学校社会科歴史分科会
原 剛 1988年『幕末海防史の研究』 名著出版
平井 聖、他 1980年『日本城郭大系 第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社
浄法寺朝美 1971年『日本城郭史』原書房

(寄稿)勝武@相模

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