築城名人・藤堂高虎の築城術を探究する~今治城にみられる築城術を中心として~

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藤堂高虎と築城

藤堂高虎(とうどう たかとら)は加藤清正(きよまさ)・黒田孝高(よしたか・官兵衛)とともに「三大築城名人」の1人として知られている。
74年間の生涯において22に及ぶ城(筆者確認のみ)の築城や改修をおこなっているが、それらの中には自らの居城や拠点とした城だけではなく、主君の豊臣秀長や豊臣秀吉に命じられて築いた城も多くある。
また、徳川家康が関ヶ原の戦い(1600年)後に、大坂城の豊臣秀吉や西国に配置した豊臣恩顧の外様大名に備えておこなった「天下普請(ぶしん)」による築城にも、藤堂高虎は重要な役割を担った。




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徳川家康は関ヶ原の戦い後、諸大名に築城工事を割り当てる天下普請によって、京への入り口や街道の要衝、大坂城を包囲する地に14城を築城した。
藤堂高虎は徳川家康にとって最初の天下普請である膳所(ぜぜ)城(滋賀県大津市)の縄張り(設計)を命じられたのを始めとして、江戸城(東京都千代田区)の大改修においても縄張りを担当した。
そのほか、篠山(ささやま)城(兵庫県丹波篠山市)・丹波亀山城(京都府亀岡市)・徳川期大坂城(大阪府大阪市)などの天下普請においても重要な役割を担った。
なお、藤堂高虎の築いた城の概要や天下普請への関与については以下の拙稿を参照していただきたい。

築城名人・藤堂高虎が築いた城の解説~自らの居城の築城と「天下普請」による築城への関与~

徳川譜代の家臣ではない藤堂高虎が、徳川家や江戸幕府にとって重要な城の築城や改修に関わった背景にはなにがあるのだろうか。
それは、藤堂高虎が徳川家康に信頼されていたことと、その築城術が徳川家康から高い評価を得ていたからだと考えられる。
関ヶ原の戦い(1600年)後、藤堂高虎が伊予(愛媛県)半国20万石を与えられて築いた今治城(愛媛県今治市)は、藤堂高虎の築城術が凝縮されている。

今治城の歴史・構造

今治城は、三重の堀に海水を引き込み、日本最大級の船着場を有する海城で、高松城(香川県高松市)・中津城(大分県中津市)とともに「日本三大水城(みずしろ)」として知られている。
今治城は、今治平野の中央部を流れる蒼社川(そうじゃがわ)が形成した三角州の左岸、瀬戸内海に面した海岸に築かれた。
宇和島(愛媛県宇和島市)城主・藤堂高虎は関ヶ原の戦い(1600年)の戦功によって、7万石から加増されて伊予半国20万石を与えられた。
今治地方の拠点は標高約105.3mの唐子山(からこやま)にある国分山(こくぶやま)城であり、南北朝時代には築かれていたという。
1585年(天正13年)の豊臣秀吉による四国平定後は、福島正則(まさのり)・池田秀氏(ひでうじ)・小川祐忠(すけただ)が相次いで国分山城主を務めた。

藤堂高虎も入封当初は国分山城を居城としたが、国分山城を廃して1602年(慶長7年)6月から今治城の築城に着手した。
その縄張りは渡辺 了(さとる)、普請奉行は木山六之丞(きやま ろくのじょう)が担当して建物も含むすべての築城工事が完了したのは1608年(慶長13年)3月であったという。
同年、藤堂高虎が伊勢国津(三重県津市)に24万石で転封となるが、今治領2万石が飛び地として残り、藤堂高虎の養子・藤堂高吉(たかよし)が今治城の城主を務めた。
その藤堂高吉も1635年(寛永12年)に伊賀国名張(三重県名張市)に移ると、松平(久松)定房(さだふさ)が入城し、それ以降、明治維新まで今治藩主・久松松平家の居城となった。

今治城は明治維新後に建造物の大半が取り壊され、現在は中核部分の石垣と内堀を残すのみとなった。
城跡は1953年(昭和28年)に県指定史跡となり、1980年(昭和55年)に5重6階の層塔型天守と多聞櫓(たもんやぐら)・武具櫓などが再建された。
その後も御金(おかね)櫓(1985年)・山里櫓(1990年)・鉄御門(2007年)などの再建が進み、んでいる。
今治城への交通アクセスは、JR予讃線「今治駅」からせとうちバス「今治営業所行き」で約9分の「今治城前」下車である。

藤堂高虎時代の今治城の構造については「正保城絵図」(以下、「絵図」という)などの諸資料から知ることができる。
絵図によると、城内の面積が約36万㎡、城外の面積が約81万㎡で、城の中枢部は幅約50mの堀で囲まれ、その内部は本丸・二の丸・三の丸に区切られている。
さらにその外側に中堀・外堀と三重の堀が囲み、北側は瀬戸内海に面し、堀には海水を引き込んだ輪郭(りんかく)式の大規模な海城である。
城の中核部の規模は、本丸が東西・南北43間(約78m)四方の正方形、本丸の北東の一段低い所にある二の丸が東西38間(約69m)・南北41間(約76m)、二の丸の北西にある三の丸は東西49間(約89m)・南北30間(約54m)である。
石垣は野面(のづら)積みの手法で自然石をそのまま積んでおり、その勾配は直線的で、その高さは本丸で約50m、二の丸で約47mである。
また、石垣の外縁下部の水際には幅4~5mの石塁による犬走りが設けられている。

建造物は二の丸に城主の居館があったとされており、絵図には、内堀と中堀の間の郭に「侍屋敷」・「侍町」・「蔵屋敷」、中堀と外堀の間の郭には「侍町」と記されている。
「侍屋敷」には中枢部に近い所に3ヶ所だけであることから重臣の屋敷が、「侍町」には一般家臣の屋敷が設けられ、三の丸の北東側の「蔵屋敷」の一角はその形態から角馬出しがあったと考えられている。
また、中堀の北隅には当時の国内最大級の船着場(ふねつきば)も備えられていた。




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城門は9ヶ所にあり、三の丸東にある大手門の「鉄御門(くろがねごもん)」をはじめ枡形虎口(ますがたこぐち)の形態である。
枡形とは石垣や土塁で囲んだ四角形の空間を設け、内側と外側に2つの門をずらして設けることで、敵が直進できないようにし、枡形内に敵を閉じこめ攻撃することもできる。
櫓は本丸に4基、二の丸・三の丸に6基など計20基があり、主要な門の周辺には、高石垣の上に長屋形式の多聞櫓が直線的に配置されている。
中でも「蔵屋敷」のさらに北東部の海に面した部分には、高石垣の上に2層櫓が横並びに6基も建てられていた。

天守については、天守台に関する遺構や天守の存在を示す当時期の資料は確認されていないが、後世の資料には次のように記されている。
まず、1751年(寛延4年)に藤堂高文(たかふみ)が著した藤堂家の家譜『宗国史』には「城中に五層の高楼を建て、府下に五街を開き工商居る、街の長さ各五町云々」という記述がある。
また、1812年(文化9年)完成の『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』には「慶長十五年丹波口亀山城普請のことうけたまわり、且今治の天守をたてまつりて、かの城にうつす」とある。
これらの記述から、今治城が完成した1603年(慶長13年)までには5層の天守が建てられ、その天守は1610年(慶長15年)に藤堂高虎が天下普請により丹波亀山城(京都府亀岡市)を築城した際に移設されたことがわかる。
その天守の型式は、これまでの主流であった「望楼(ぼうろう)型」ではなく「層塔(そうとう)型」であったと考えられている。
層塔型天守は、下の階から上層階へと階を重ねるごとに床面積を減じながら積み上げていく単純な構造の天守である。

藤堂高虎の築城術

藤堂高虎の築城術の基本は、築城名人として並び称される加藤清正とは異なり、方形や直角、直線を生かしたシンプルな縄張りを基に、幅広の堀や高石垣、多聞櫓によって防御と攻撃を可能にした堅固な城を効率よく築くことであるとされている。
ちなみに、加藤清正の築城術は多角形の郭(くるわ)を連結し、石垣を折り曲げて郭の隅を張り出させる「横矢掛かり」を多用した複雑な縄張りを基本としたものである。
今治城の特徴をみると、正方形を基本とした縄張り、広大な水堀、高石垣、枡形を有する城門、直線的な多聞櫓、層塔型天守など、今治城には藤堂高虎の築城術が凝縮している。
層塔型天守にしても、単純な構造であるため、用材を規格化しやすく、それゆえ工事期間が短縮され、移築も容易であるという利点がある。
藤堂高虎は、城の飾りや見た目を重視せず無駄を極力そぎ落とし、短期間の工事で完成させることを最優先し、シンプルではあるが堅固な城の規格化を目指したのであろう。

今治城築城の前後、徳川家康は大坂城の豊臣秀頼や豊臣恩顧の外様大名に備えた城郭網を短期間で完成させる必要があった。ことができたのである。
藤堂高虎は、こうした徳川家康の要求に応え、膳所城・徳川期伏見城(京都府京都市)・江戸城・伊賀上野城(三重県伊賀市)・篠山城・丹波亀山城・二条城(京都府京都市)・徳川期大坂城といった天下普請による築城に十分活用されたのである。

ところで、藤堂高虎は卓越(たくえつ)した築城術をどのように習得したのであろうか。
その答えは、藤堂高虎の経歴、特に、豊臣秀長(ひでなが・豊臣秀吉の弟)に仕え、織田信長や豊臣秀吉の築城に関わったことや交友関係にあると考えられる。
例えば、藤堂高虎の主君・豊臣秀長の兄である豊臣秀吉は、1576年(天正4年)に始まった織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市)の築城において築城奉行を命じられ縄張りを担当している。
藤堂高虎は豊臣秀長に従って安土城の築城工事に関わり、その際、近江国坂本(滋賀県坂本市)の石工(いしく)である穴太(あのう)衆との関係を築くなどして築城術を実見して学んだのであろう。
その後も藤堂高虎は穴太衆に加えて、大和国(奈良県)の法隆寺大工の中井家、藤堂高虎と同郷の近江国甲良(こうら・滋賀県甲良町)出身の建仁寺(けんにんじ・京都府京都市)大工の甲良家など、一流の技術者集団との関係を深めながら、築城術を高めていったものと考えられる。

藤堂高虎の築城術の詳細については、今後、信憑性の高い各種資料をもとに幅広い視点からの探究が必要である。




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<主な参考文献>
加藤 埋文 2021年『家康と家臣団の城』KADOKAWA
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1980年『日本城郭大系 第16巻 大分・宮崎・愛媛』新人物往来社
福井 健二 2016年『築城の名手藤堂高虎』戎光祥出版 

『愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)』
データベース「えひめの記憶」書籍一覧(愛媛県史)

(寄稿)勝武@相模

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