【徳川家康と城】江戸城の歴史を探究する~江戸氏の館から徳川15代将軍の城郭へ~

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江戸城の概要

 
江戸城(東京都千代田区)は江戸幕府の政庁が置かれて政治の中心であり、また徳川将軍15代の居城でもあった。
江戸城の歴史は平安時代に江戸重継(しげつぐ)が館(やかた)を構えたことに始まるとされている。
江戸氏が15世紀の動乱のなかで没落すると、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏が江戸の地を支配した。1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の家宰(かさい)太田道灌(どうかん)が本格的な城郭を築城したが、戦国の動乱の中、1524年(大永4年)以降は後北条氏の支城となった。
1590年(天正18年)、後北条氏の滅亡後に徳川家康が入城すると、特に1603年(慶長8年)の江戸幕府開幕以降は「天下普請(ぶしん)」による拡張・改築がおこなわれ、総構えを有する日本最大規模の城郭となった。




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明治維新(1868年)をきっかけに東京城と改称され、以後は皇居となり立ち入りはできないが、現在、その周辺は皇居東御苑(ごえん)や皇居外苑(がいえん)、北の丸公園として開放されている。
また、富士見櫓(やぐら)や伏見櫓などの建造物、枡形(ますがた)門、石垣などが随所に現存している。

太田道灌による築城

江戸の地に初めて館を構えたのは、12世紀の初期にこの地の開発をおこない「江戸冠者(かんじゃ)」と呼ばれた秩父重継(ちちぶ しげつぐ)であると考えられているが、それを証明する資料はない。
吾妻鏡』の1180年(治承4年)8月26日条に秩父重継の子・江戸重長(しげなが)の名がみえるのが史料の初見である。
江戸氏は鎌倉時代以降、1205年(元久2年)に謀反の疑いをかけられ討ち死にした畠山重忠の遺領を引きつぐなどして勢力を拡大していった。
南北朝の動乱を経て15世紀前半に起きた上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱(1416年~1417年)や永享の乱(1438年)においても、江戸氏は同族の豊島(としま)氏とともに活躍し、荏原(えばら)・豊島・多摩諸郡及びその周辺に勢力を拡大したが、太田道灌の台頭により衰退していった。

太田道灌は1432年(永享4年)、関東管領・上杉氏の一族である扇谷上杉氏の家宰・太田資清(すけきよ)の子として生まれ、1455年(康正元年)ごろ、父の跡を継いで家宰となり上杉定正(さだまさ)を支えた。
太田道灌は1456年(康正2年)に江戸城の築城を開始し、翌1457年(長禄元2年)に完成している。
この時期は、扇谷上杉定正と敵対していた古河公方(こがくぼう)・足利成氏(しげうじ)が下総方面で勢力を拡大しており、それへの備えとして太田道灌はこれまでの品川館から江戸氏の館跡に城を築いたと考えられている。

太田道灌が築いた江戸城について、室町時代中期の禅僧・万里集九(ばんりしゅうく)が著した『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』には、「其塁営の形をなすは子城(ねじろ)と日、中城と日、外城と日ひ、およそ三重」であると記されている。
ここでいう「子城」・「中城」・「外城」の比定地についてさまざまな説があるが、『日本城郭大系』では、「子城」を江戸期の本丸、「中城」を同じく二の丸、そして「外城」を三の丸としている。
これら3つの郭には5m~10m程度の高低差があり、それぞれの郭の間には「道灌堀」・「三日月堀」・「蓮池(はすいけ)堀」などの空堀があったとしている。
江戸城内には「静勝軒(せいしょうけん)」と呼ばれる望楼(ぼうろう)風の太田道灌の館のほか、物見櫓(やぐら)、倉庫、厩(うまや)などもあったという。
太田道灌は「静勝軒」などの建物に京・鎌倉の禅僧や歌人、連歌師などを招き、詩文などを通じて交流している様子が諸記録にみられる。

1488年(文明18年)7月、太田道灌は主君・上杉定正によって、相模国の糟屋(かすや)館(神奈川県伊勢原市)で殺害される。
主を失った江戸城には上杉定正の養子・上杉朝良(ともよし)が入り、その後、上杉朝良の養子・上杉朝興(ともおき)も城主を引き継いだ。
1524年(大永4年)1月、北条氏綱(うじつな・北条早雲の子)が江戸城を包囲する。
そのとき、上杉朝興に仕えて江戸城内に居た太田資高(すけたか・太田道灌の孫)が裏切り、北条氏綱に内応して江戸城は落城し、上杉朝興は河越(かわごえ)城(埼玉県川越市)に逃げた。

北条氏綱は武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県の一部)を支配する拠点として江戸城を重視し、本丸に富永政直(とみなが まさなお)、二の丸に遠山宗忠(むねただ)・直景(なおかげ)、三の丸には太田資高を配した。
北条氏綱の後も後北条氏は、北条氏康(うじやす)・氏政(うじまさ)・氏直(うじなお)と関東に勢力を拡大したが、後北条氏の本城は小田原城(神奈川県小田原市)であり、江戸城は支城の一つに過ぎなかった。

徳川家康・秀忠・家光による拡張・改築

1580年(天正18年)8月、豊臣秀吉による小田原攻めで後北条氏が降伏した後、所領を関東に移された徳川家康が江戸城へ入城した。
関東8ヶ国約250万石の所領を有することになった徳川家康には、江戸城はあまりにも貧弱であった。
1727年(享保12年)に大道寺友山(だいどうじ ゆうざん)が著した『落穂集(おちぼしゅう)』には、当時の江戸城の様子が次のように記されている。
それは、城内に杮葺(こけらぶ)きの建物が一棟もなく、すべて粗末な板葺き屋根で、台所は茅(かや)葺きで古く、玄関は船板を用いて板敷の部屋はなく土間であった、というものである。
また、『岩淵夜話別集(いわぶちやわべっしゅう)』(1716年、大道寺友山著)にも、江戸城の東は低地で海水が入り込み、一面に茅原(かやはら)が広がり、西は萱原(かやはら)が武蔵野へ果てしなく続くという風景であったことが、記されている。
江戸幕府の政庁で将軍家の居城としての江戸城の姿からは想像もつかないものであった。




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江戸城の拡張・改築は、徳川家康の入城時(1580年9月)から、これまでの本丸・二の丸に加え、西の丸・三の丸・吹上(ふきあげ)・北の丸を拡張する工事がおこなわれた。
また、道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設し、それに伴う残土で現在の西の丸下の半分以上の埋め立てや、周辺の街造りもおこなわれている。
ただし、この工事は豊臣政権の有力大名である徳川家康の居城としてふさわしい城郭とするものであった。

江戸城の本格的な大規模な拡張・改築は1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府が開かれたときから始まる。
その工事は、徳川家康が諸大名に命じて手伝わさせる「天下普請(ぶしん)」によるもので、2代・徳川秀忠(ひでただ)、3代・徳川家光に引き継がれた。
「天下普請」による大規模工事は「慶長期天下普請」・「元和期天下普請」・「寛永期天下普請」と呼ばれ、その概要は以下のとおりである。

【慶長期天下普請】
1603年(慶長8年)3月から現在の駿河台あたりの「神田山」を崩して日比谷の入江を完全に埋め立て、また前島では地面を掘って水路をつくる「掘割」をして道三堀や平川につなげる整備がおこなわれた。
この工事では。70家の大名が高1000石につき1人の人夫を出すことが命じられた。
1606年(慶長11年)3月から本丸・二の丸・三の丸と、雉子(きじ)橋から溜池落口(ためいけおちぐち)に至る外郭の石垣や天守台石垣の築造工事がおこなわれた。
藤堂高虎(とうどう たかとら)が縄張りをおこない、池田輝政(てるまさ)・加藤清正(きよまさ)・福島正則(まさのり)・黒田長政(ながまさ)など西国の外様大名28家が工事を担当している。
翌1607年(慶長12年)は東国の諸大名が命じられて前年の工事を継続し、加えて堀を掘削(くっさく)する「堀普請」がおこなわれた。
特に関東の諸大名が天守台の工事を担当し、同年中に5層6階の天守が完成している。
伊達政宗上杉景勝(かげかつ)・蒲生秀行(がもう ひでゆき)・佐竹義宣(さたけ よしのぶ)・堀秀治(ひではる)らの奥羽・信越の諸大名は堀の工事を担当した。

1611年(慶長16年)、西の丸の石垣工事がおこなわれているが、名古屋城(愛知県名古屋市)の築城を担当している西国の大名を外して東国の大名が命じられている。
1614年(慶長19年)からは、再び西国の大名が命じられて、本丸・西の丸・二の丸・虎の門に至る外郭の東側と西側の石垣工事がおこなわれた。
ただし、一部の工事は大坂の陣(1614年・1615年)や徳川家康の死去(1616年)で中断されている。

【元和期天下普請】
1618年(元和4年)、2代将軍・徳川秀忠により紅葉山東照宮(もみじやまとうしょうぐう)が造営され、中断していた石垣工事も再開された。
なた、神田と湯島の間の掘削工事をおこなわれ、その結果、城の北部に神田川が通り、外堀の役割を果たすことになった。
1620年(元和6年)、東国の大名が命じられて内桜田門から清水門までの石垣と、和田倉・竹橋・清水門・飯田町(のちの田安門)・麴(こうじ)町口(のちの四谷門)の各枡形(ますがた)門の整備がおこなわれた。
1622年(元和8年)2月、本丸の北側にあった出丸を本丸に取り込む拡張工事がおこなわれ、それに併せて浅野長晟(ながあきら)・加藤忠広(ただひろ)らの手伝いによって御殿や天守台の修築がおこなわれた。
同年11月には、徳川秀忠が新御殿に移っており、天守台も翌1623年(元和9年)3月には完成し、同年中には天守(「元和度天守」)も完成したと考えられている。

【寛永期天下普請】
1624年(寛永元年)に1623年(元和9年)7月に将軍職を徳川家光に譲った徳川秀忠の隠居所として西の丸御殿の改築がおこなわれた。
1629年(寛永6年)、前年7月の地震(マグニチュード6.1と推定)で被害を受けた石垣の修築と堀普請などがおこなわれた。
1635年(寛永12年)、二の丸を東側へ拡張する工事と、それに伴う二の丸・三の丸の整備がおこなわれた。
1636年(寛永13年)、120家の大名の手伝いによって赤坂・四谷・市ヶ谷・牛込(うしごめ)を結ぶ堀と神田川の水を引くための掘を掘削し、石垣・城門を築く工事がおこなわれた。
この工事によって江戸城の惣構えが完成し、見張り番を置いた江戸城の城門、いわゆる「三十六見附(みつけ)」も整備された。
1637年(寛永14年)には16家の大名に手伝いよって本丸御殿と天守台の改築がおこなわれ、同年8月に新御殿が、翌1638年(寛永15年)12月に5層6階の天守(「寛永度天守」)がそれぞれ完成した。
新御殿は1639年(寛永16年)8月の火事で全焼し、再び新築されることになる。

以上、地方の中世城郭に過ぎなかった江戸城は、徳川家康・秀忠・家光の3代にわたる拡張・改築によって、東西約5㎞、南北約3.9㎞に及ぶ日本最大規模の近世城郭に変貌した。
その工事は諸大名に命じて財力と労力を集中した「天下普請」によるもので、江戸城は最高権力を有する江戸幕府の政庁、あるいは15代の将軍の居城としてふさわしい城郭となったのである。
しかし、完成後20年ももたたない1657年(明暦3年)1月に江戸の町を襲った明暦の大火で、江戸城も天守をはじめ御殿・櫓(やぐら)など多くの建物が焼失した。
その後も江戸城は多くの火事に見舞われ、その都度再建が繰り返されたが、天守が再建されることはなかった。

江戸城の歴史的性格

1867年(慶応3年)10月、最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還をおこなうと、翌1868年(明治元年)4月、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、江戸幕府の政庁としての役割を終えた。
同年10月には明治天皇が京都より江戸城に遷(うつ)り、東京(とうけい)城と改名され、以後、皇居として現在に至っている。

江戸城の歴史は、12世紀初期に江戸氏が館を構えたことから始まると考えられ、1456年(康正2年)に太田道灌が中世城郭としての江戸城を築城した。
その後、江戸城は後北条氏の支城となったが、後北条氏の滅亡後の1590年(天正18年)に徳川家康が入城した以降は、徳川秀忠・徳川家光の3代にわたり拡張・改築がおこなわれ、江戸時代における政治の中枢としてふさわしい日本最大規模の城郭に発展した。
明治維新後は、1945年(昭和20年)までは日本の元首、それ以後は象徴である天皇の住居(皇居)となっている。
江戸城は近世から近現代まで時代の要請に応じて変貌を遂げながら、日本の政治・経済・文化の中枢としての役割を果たしてきた希少な城郭であると言える。




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<主な参考文献>
齋藤 慎一 2015年『徳川の城~天守と御殿~』江戸東京博物館
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
野中 和夫 2015年『江戸城 ―築城と造営の全貌―』同成社
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第5巻 埼玉・東京』新人物往来社
平井 聖、他 2008年『【決定版】図説 江戸城 その歴史としくみ』学習研究社 

(寄稿)勝武@相模

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