江戸幕府の政庁「江戸城」の構造を探究する~藤堂高虎による縄張りと「天下普請」による変貌~

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藤堂高虎による縄張り

 
江戸城(東京都千代田区)は江戸時代、江戸幕府の政庁及び徳川将軍15代の居城として機能し、明治維新後は天皇が住まいする皇居となり、日本の中枢としての役割を担い続けている。
1590年(天正18年) 8月、徳川家康が江戸城に入城すると、直ちに太田道灌が築いた江戸城の修築と縄張り(設計)の見直しを図った。
1603年(慶長8年)2月に征夷大将軍に任命されると、江戸城を江戸幕府の政庁及び将軍家の居城にふさわしい城郭にするため、大規模な拡張・改築工事に着手した。




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江戸城の縄張りを担当したのは、築城の名手として名高い藤堂高虎(とうどう たかとら)である。
豊臣秀吉の正室ねね北政所)の甥・木下延俊(きのした のぶとし)の『慶長日記』には、「三月一日、江戸城経始、藤堂高虎縄張あり、公高虎に本丸狭ければ廣けられんと仰ければ、高虎云、本城は狭きに利多し、廣きに利少しと申上るゆゑ、前の廣さ也、二三の丸は縄張替りたるとなり」という記事がある。
この記事の「三月一日」は、『東京市史稿』では1606年(慶長11年)とされており、「公」(徳川家康)が藤堂高虎に、本丸が狭いようなら広げるようにと指示したことに対して、藤堂高虎は、「本城」(本丸)は狭い方が、利が多いので以前の広さとし、二の丸・三の丸の縄張りを見直す、と答えている。
藤堂高虎の縄張りは、方形の曲輪を並べて、空間を有効活用した単純な構造と、多聞櫓(たもんやぐら)と幅広い堀、そして高石垣による堅固な防御力が特徴とされているが、この記事からも藤堂高虎の縄張り思想をみることができる。

藤堂高虎は1556年(弘治2年)に近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)で生まれ、1570年(元亀元年)、15歳のときに近江国の戦国大名・浅井氏に仕えた。
浅井氏滅亡後は豊臣秀長(ひでなが・豊臣秀吉の弟)に仕え、1585年(天正13年)の紀州征伐と四国攻めの功績により紀伊国粉河(こがわ・和歌山県那賀郡粉河町)1万石の大名となった。
豊臣秀長の没後、豊臣秀吉直属の大名となり伊予国板島(愛媛県宇和島市)7万石を領し、豊臣秀吉の没後は徳川家康に与(くみ)して信頼を得た。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、藤堂高虎は伊予国今治(愛媛県今治市)に20万石を与えられて今治城を築城した。
この今治城が徳川家康の目に留まり、以後、徳川家や江戸幕府関連の城の縄張りを手掛けることになったのである。
なお、藤堂高虎が関わった城は、江戸城のほか膳所(ぜぜ)城(滋賀県大津市)・丹波亀山城(京都府亀岡市)・篠山(ささやま)城(兵庫県丹波篠山市)・徳川大坂城(大阪府大阪市)など数多く存在する。




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「天下普請」による築城

江戸城の築城は、藤堂高虎の縄張りのもと、江戸幕府が全国の諸大名に命じて工事を分担させる天下普請によっておこなわれ、徳川家康(慶長期)から始まり、2代・徳川秀忠(元和期)、3代・徳川家光(寛永期)へと引き継がれた。
以下、天下普請による築城の概要について、主なものを慶長期(1596年~1615年)・元和期(1615年~1624年)・寛永期(1624年~1643年)ごとに整理する。
【慶長期】
1604年(慶長9年)、浅野幸長(あさの ゆきなが)・池田輝政(いけだ てるまさ)・加藤清正(かとう きよまさ)・黒田長政(くろだ ながまさ)・福島正則(ふくしま まさのり)・細川忠興(ほそかわ ただおき)らの西国の外様大名28家に石材の運搬が命じられ、翌年から伊豆(静岡県)などから石材の運搬が始まった。
1606年(慶長11年)、3月から本格的な工事が始まり、この年は本丸の造営、天守台の築造、本丸周辺の石垣構築がおこなわれ、西国の諸大名が工事を分担した。
1607年(慶長12年)、これまでの工事の継続と外堀の普請(ふしん・土木工事)がおこなわれ、上杉景勝(うえすぎ かげかつ)・佐竹義宣(さたけ よしのぶ)・伊達政宗(だて まさむね)・最上義光(もがみ よしみつ)らの東国の外様大名が担当し、この年に慶長期の天守が完成した。
1611年(慶長16年)、西の丸の石垣構築と堀普請がおこなわれ、西国の外様大名が石垣構築、東国の外様大名が堀普請を担当した。
1614年(慶長19年)、本丸・二の丸・西の丸などで大規模な石垣工事がおこなわれ、西国の外様大名34家が担当し、江戸城中心部の石垣が完成した。
【元和期】
1618年(元和4年)、西の丸の南側の堀普請がおこなわれ、榊原忠次(さかきばら ただつぐ)・阿部正次(あべ まさつぐ)ら関東の譜代大名が担当し、また土屋利直が命を受けて紅葉山東照宮を造営した。
1620年(元和6年)、内桜田門から清水門までの石垣と各枡形(ますがた)の修築がおこなわれ、伊達政宗らの東国の大名が担当した。
1622年(元和8年)、土井利勝(どい としかつ)と酒井忠世(ただよ)を奉行として本丸北側の堀を埋め立て、本丸を拡張する工事や、阿部正之(まさゆき)を奉行として浅野長晟(ながあきら)と加藤忠広(ただひろ)により天守台を移動して築き直す工事がおこなわれた。
【寛永期】
1629年(寛永6年)、昨年7月の地震により崩壊した西の丸や雉子(きじ)橋から数寄屋(すきや)橋にかけての石垣の修築工事、堀浚(ほりさらい)がおこなわれ、石材の採石・運搬をおこなう「寄方(よせかた)」を徳川義直(よしなお)・頼宜(よりのぶ)・忠長(ただなが)・頼房(よりふさ)の4家と三河(愛知県)から西の譜代大名が、また石垣を積む「築方(ちくかた)」を東国の諸大名がそれぞれ担当した。
1634年(寛永11年)、本丸御殿の造営や天守台石垣、本丸廻りの石垣、虎の門など外郭石垣の修築がおこなわれ、西国の外様大名ら24家が担当した。
1635年(寛永12年)、前年の工事が継続され、天守台の修築とそれに伴う石材の採石・運搬を関東・信越の諸大名が担当し、雉子橋から溜池落口までの石垣に沿った堀普請を奥羽・信濃の外様大名が担当した。
1636年(寛永13年)、赤坂・四谷・市ヶ谷・牛込(うしごめ)を結ぶ堀と神田川の水を引くための掘の掘削、石垣・城門を築く工事がおこなわれ、石垣構築(「石垣方」)と「寄方」を西国の諸大名、堀普請を東国の諸大名、合わせて120家の大名が担当し、この工事で惣構えが完成した。
1637年(寛永14年)、酒井忠勝を総奉行に16家の諸大名が命じられて、本丸御殿と天守台の改築がおこなわれ、同年8月に新御殿、翌1638年(寛永15年)12月に5層6階の天守が完成した。

以上、江戸城の築城は藤堂高虎の縄張りのもと、江戸幕府が諸大名に命じて工事を手伝わせる天下普請によって進められた。
徳川家康の慶長期は、江戸城のほかに駿府城(静岡県静岡市)・名古屋城(愛知県名古屋市)・膳所城伏見城(京都府京都市)・亀山城・篠山城などの普請も重ねておこなわれ、その普請も命じられた西国の外様大名には財政面などで大きな負担となった。
2代将軍・徳川秀忠による元和期の普請は、慶長期とは異なり譜代大名も命じられていることが特徴である。
そして、3代将軍・徳川家光の寛永期の普請で外郭の惣構えが完成、本丸御殿や天守台の改築も完了し、「見附(みつけ)」と呼ばれている外郭の諸門も完成し、江戸城は中世城郭から日本最大規模の近世城郭となったのである。
なお、江戸城はたびたび大火に見舞われ、その都度、再建工事がおこなわれている。

江戸城の中心部・内郭の構造

江戸城の中心部である内郭は、本丸と二の丸、三の丸、西の丸、北の丸、紅葉山・吹上曲輪(ふきあげくるわ)などで構成されている。
各曲輪は前述した慶長期(徳川家康)・元和期(徳川秀忠)・寛永期(徳川家光)の普請により、改変されていった。
以下、主な曲輪の構造の変化や特徴について、本丸、二の丸、三の丸、西の丸と周辺曲輪に大別して整理する。

【本丸】
慶長期の本丸は、天守の東側に小曲輪を囲んだ多聞櫓(たもんやぐら)と櫓、門、南部分は虎口(こぐち・城の出入り口)と虎口空間、外桝形(そとますがた)が、そして北部分には馬出(うまだし)が設けられていた。
慶長期の本丸の特徴は、殿舎が並び建つ政庁・生活機能と、南北の虎口空間や馬出に象徴される実戦的な軍事的機能とが一体となっていたことにある、と指摘されている。
その後、前述した1622年(元和8年)や1635年(寛永12年)、1637年(寛永14年)の工事を経て本丸の構造が大きく変化した。

北側の堀が埋め立てられたことで本丸の構造が単純となり、本丸北端に移転された天守台が本丸北面を防御する要(かなめ)と位置づけられた。
天守台は、大天守台の南に小天守台が付設し、小天守台の西から多聞櫓がのびて本丸西辺の櫓と連結し、また大天守台の東からは石垣のラインがのびて本丸北部の内枡形へと連結した。
なお、1985年(昭和60年)の本丸北端部の発掘調査では、大天守台から東にのびた内枡形部分と考えられてる石垣が検出されている。
この石垣外側の本丸北端部は多聞櫓以外の建物はほとんどなく、内・外桝形と虎口による空間がいくつも重なる場所となっている。
この場所について、『江戸図屏風』には弓や鉄砲の稽古をしている様子が描かれており、戦いのときは攻撃・防御の空間であり、日常は広場として機能した場所であると指摘されている。
一方、本丸の南側虎口の外からを出たところから二の丸に至る間は、建物はほとんどなく、虎口と空間が重なるという慶長期と同じ構成である。

本丸は1639年(寛永16年)、本丸殿舎より出火し天守とその北側の櫓を除き全焼し、翌年にかけて殿舎などの再建がおこなわれた。
しかし、それらも1657年(明暦3年)のいわゆる「明暦の大火」でほぼ全焼し、殿舎などは1659年(万治2年)に再建されたが、天守が再建されることはなかった。
万治期以降、江戸城の本丸では大奥の拡張がおこなわれ、天守台は増築された大奥長局(ながつぼね)に取り囲まれて孤立し、また本丸から西方の紅葉山に出る虎口空間は半減した。
1985年(昭和60年)の本丸北端部の発掘調査で、さまざまな生活用品や女性用品が出土したことは、この場所に大奥長局(ながつぼね)が在ったことを裏づけている。

【二の丸】
本丸東側の低地に位置する二の丸は、虎口の位置や枡形の状況などから、帯(おび)曲輪として本丸の南北を結ぶだけの役割を担っていたに過ぎなかったと考えられる。
それが1630年(寛永7年)に二の丸庭園が造られ、1636年(寛永13年)には東側の三の丸方向へ拡張されて二の丸御殿が建てられた。
なお、庭園には泉水(せんすい)や茶屋・釣殿(つりどの)などの施設があったことが記録に残されており、御殿は1643年(寛永20年)に徳川家光の嫡子・竹千代(のちの4代将軍・徳川家綱)の御殿に建て直されている。
二の丸は、本丸南の虎口空間より下位に位置づけられた帯曲輪から、本丸と直結する曲輪として隠居御殿などが建てられるようになった。

【三の丸】
三の丸は二の丸の東側に南北に広がる曲輪で、重臣の屋敷や御鷹(おたか)屋敷などがあった。
1636年(寛永13年)の二の丸の拡張によって面積が縮小し、酒井忠勝(ただかつ)らの重臣の屋敷などは城内外に移された。
その際、三の丸には曲輪の北寄りに「くい違い虎口」が設けられ、内部が北と南に分けられた。
北側の部分には1643年(寛永20年)に三の丸御殿が建てられ、南側部分は慶長期以来の馬出しの機能を受け継ぎ、大手門の背後の広大な虎口空間が維持された。

【西の丸と周辺曲輪】
西の丸は本丸西方の高地に位置し、1592年(文禄元年)から翌年にかけて築かれ、当初は「新城」、「御隠居城」などと呼ばれていた。
西の丸には大御所となった徳川家康の隠居所が造営され、徳川家康が1616年(元和2年)4月に没するまで江戸に滞在したときに居住した。
この時期は2代将軍・徳川秀忠と大御所・徳川家康による二重政治がおこなわれており、西の丸は本丸とともに江戸城の中枢であったと考えられる。
西の丸の南側には的場(まとば)曲輪が隣接し、東側には西の丸下・大手前・大名小路、西側には吹上(ふきあげ)・北の丸といった大規模な曲輪が位置し、これら大規模な曲輪には各大名や上級家臣団の屋敷などがあった。
その後、1624年(寛永元年)に本格的な西の丸御殿が造営され、将軍職を退いた徳川秀忠が移り住んだ。
以後、この御殿は前将軍や次期将軍を継ぐ者が居住し、あるいは本丸御殿が焼失したときの将軍の一時的な居所としても使われた。
1629年(寛永6年)の工事の際には、西の丸と西下の山里(やまざと)曲輪を隔てていた堀が埋められ、西の丸はひと続きの曲輪となり面積が拡大した。

西の丸の北側の紅葉山には、1618年(元和4年)、東照大権現・徳川家康の霊廟(れいびょう)が建立されたのをはじめとして、代々の将軍を祭る霊廟が建てられた。
また、将軍の書物(紅葉山文庫)や具足(ぐそく)、鉄砲などを収納する蔵も建てられ、紅葉山は霊廟に加えて宝物(ほうぶつ)を安置する聖域として整備された。
西の丸の南側に位置する的場(まとば)曲輪は、『江戸図屏風』には建物がほとんど存在しない広場的な場所として描かれている。




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以上、江戸城の中心部である内郭の構造は、慶長期・元和期・寛永期における天下普請による工事によって変化していった。
慶長期の江戸城の内郭は、本丸にみられるように、江戸幕府の政庁及び生活機能と、虎口や馬出に象徴される軍事的機能とが一体となった構造であった。
それが元和期・寛永期の工事を経て、本丸における構造の単純化や天守台の移動、二の丸御殿・三の丸御殿・西の丸御殿の造営など殿舎空間が拡大するなど内郭の構造は大きく変化し、加えて紅葉山には将軍を祭る霊廟が建てられ聖域化した。
これらのことから、寛永期以降の江戸城では、将軍の本丸、前将軍の西の丸、聖域の紅葉山が一体となって、権威的な政治・儀礼や祖先崇拝を進める場となり、実戦的な軍事機能が衰え、江戸幕府の政庁・生活機能が重視されるようになった。
万治期以降の江戸城本丸で、大奥長局が増築され天守台が孤立したことは、生活機能が高まったことを示している。

江戸城は現在、西の丸・紅葉山・吹上が皇居となっており非公開であるが、本丸、二の丸、三の丸の一部が皇居東御苑として一般公開されている。
天守台をはじめ石垣、堀、大手門・北桔橋(きたはねばし)門・平川門などの城門、富士見櫓などを見学することができる。
その中で、江戸城の石垣は、加工法として打込(うちこみ)ハギ・切込(きりこみ)ハギの2種類、積み方は乱積(らんづみ)・布積(ぬのづみ)の2種類、組み合わせると4パターンがみられる。
また、石垣の隅角部の算木積(さんきつ)みも未完成のものから精度の高いものまであり、さらに
石に家紋などの印や文を刻んだ刻印石(こくいんせき)も多くみられる。
石垣の加工法や積み方、算木積の精度の違いによって築かれた時期や、刻印によって担当した大名を推定できるので、天下普請による工事の様子を想像することができる。




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<主な参考文献>
齋藤 慎一 2015年『徳川の城~天守と御殿~』江戸東京博物館
千田 嘉博 1993年「集大成としての江戸城」『国立歴史民俗博物館研究報告』国立歴史民俗博物館
野中 和夫 2015年『江戸城 ―築城と造営の全貌―』同成社
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第5巻 埼玉・東京』新人物往来社
平井 聖、他 2008年『【決定版】図説 江戸城 その歴史としくみ』学習研究社  
土生田純之・福尾正彦 1989年「江戸城本丸発掘調査報告」『書陵部紀要』第40号

(寄稿)勝武@相模

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