徳川将軍15代の居城「江戸城」の天守を探究する~短期間しか存在しなかった天守と現在も残る天守台~

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江戸城天守の概要

現在、江戸城の本丸の西北端近く、北桔橋(きたはねばし)門の正面に位置する天守台は、明暦の大火(1657年)後の1658年(万治1年)9月に再建された天守台が基となっている。
その後、1860年(万延1年)の小天守台を縮小する工事や、近代のおける気象台や高射砲台の設置などで改変されている。
また、天守台穴蔵(地階)の大半が埋めたてられ、天守台の下端は1m近く埋没しているが、天守台本体の保存状態はきわめて良好である。




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現状の天守台の規模は東西約41m、南北約45m、高さ約11mで、4つの隅には特大な長方形の巨石を算木積(さんぎづみ)の技法で8段積み上げている。
天守の外面は花崗岩(かこうがん)の巨石を切込(きりこみ)ハギの技法で整然と水平に積んでいるが、南面だけは乱れた積み方や多くの矢穴が残るなど、乱雑さがみられる。
南東隅から東面の南寄りにかけては、火災の痕跡である石材の割れや剥落・変色などがみられる。
また、天守台の南面には、上段と下段の2段からなる小天守台があり、下段には井戸が残る。

江戸城の天守は1607年(慶長12年)12月から1657年(明暦3)1月までのわずか50年ほどの間しか存在せず、その間に3度築造されている。
最初の天守は徳川家康によって1607年(慶長12年)12月に完成した「慶長度天守」と呼ばれるものである。
2度目の天守は2代将軍・徳川秀忠による1623年(元和9年)3月完成の「元和度天守」、最後は3代将軍・徳川家光による1637年(寛永14年)12月完成の「寛永度天守」である。
しかし、寛永度天守が1657年(明暦3)1月の明暦の大火で焼失した後は、天守が再建されることはなく、本丸の南端に現存する富士見櫓(やぐら)が天守の代わりに江戸城の象徴であった。

天守とは

天守は近世城郭を象徴する高層建築で、文献史料では「天守」・「殿主(でんしゅ)」・「天主」・「殿守」などと記されている。
織田信長が1576年(天正4年)正月から築城に着手し、1579年(天正7年)5月に完成したとされる安土城(滋賀県近江八幡市)の天主が始まりとされているが、それ以前に天守が存在したことが各資料から確認できる。
例えば、戦記物の『遺老(いろう)物語』の1558年(永禄元年)の記事には、楽田(がくでん)城(愛知県犬山市)の天守のことが記されている。
第一次史料では、例えば吉田兼見(よしだ かなみ・1535年‐1610年)の日記である『兼見卿記(かなみきょうき)』の1572年(元亀3年)12月の記事に坂本城(滋賀県大津市)の天主、また翌1573年(天正元年)の記事には高槻城(大阪府高槻市)の天守について記されている。

安土城の天主は入母屋(いりもや)造りの屋根の上に望楼(ぼうろう・遠くを見渡すためのやぐら)をのせた「望楼型」と呼ばれる型式で、慶長期(1596年~1615年)末まで主流となった。
望楼型天守は豊臣期大坂城(大阪府大阪市)・岡山城(岡山県岡山市)・広島城(広島県広島市)の天守などがその典型で、現存天守の中では丸岡城(福井県坂井市)・犬山城(愛知県犬山市)・彦根城(滋賀県彦根市)・姫路城(兵庫県姫路市)・松江城(島根県松江市)の天守が該当する。

その後、元和期(1615年~1624年)以降は、階を重ねて上層階にいくにつれて床面積が減じる「層塔(そうとう)型」と呼ばれる型式の天守が主流となった。
層塔型天守は江戸城の寛永期の天守が典型とされ、現存天守では弘前城(青森県弘前市)の代用天守である御三階櫓(やぐら)や松山城(愛媛県松山市)の大天守、宇和島城(愛媛県宇和島市)の天守
が該当する。

慶長度の天守・天守台の特徴

徳川家康によって築かれた慶長度天守は本丸中央部の西寄り、現在残る天守台より約200m、南側に位置していたとされている。
天守台については『当代記』の1607年(慶長12年)の記事に「此比関東普請衆ニ扶持被下、ニ月ヨリ之勘定ニ出也。去年ノ石垣高サ八間也。六間ハ常ノ石、二間ハ切石ナリ。此切石ヲ退ケ、又二間築上、其上ニ右ノ切石ヲ積、十間殿守也。惣テ土井モ二間アゲラレ、」とある。
この記事によれば、天守台は1606年(慶長11年)に「八間(けん)」(約14.5m)まで積み上げ、そのうち高さ「六間」(約10.9m)までは自然石であり、その上の「二間」(約3.6m)は切石(きりいし)であった。
翌1607年(慶長12年)には、関東の諸大名が前年に積まれた切石を一度取り外して2間(約3.6m)ほど高く積み直し、その上に再び切石を戻したことになる。
その結果、天守台の高さは約18.1m、広さは約36.2m四方となり、この上に天守が築かれた。
なお、1606年(慶長11年)の天守台の築造は黒田長政(くろだ ながまさ)が担当し、1607年(慶長12年)のそれは関東の諸大名のほかに、伊達政宗(だて まさむね)・蒲生秀行(がもう ひでゆき)・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)らの奥羽や越後(新潟県)の諸大名も担当している(『武徳編年集成』)。

天守の築造は京都の大工頭(だいくがしら)である中井正清(ながい まさきよ)が担当し、1607年(慶長12年)年中に完成した。
中井正清は1565年(永禄8年)に法隆寺大工の中井正吉(まさよし)の子として生まれ、1588年(天正16年)、徳川家康に200石で仕えた。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、1602年(慶長7年)に伏見城二条城(京都府京都市)の築造に関わり、その後も江戸城の慶長度天守のほか、二条城・駿府城(静岡県静岡市)・名古屋城(愛知県名古屋市)の各天守の築造を担当した。

この中井家に伝わる『江戸御天守軸組図』(中井家所蔵)や『江戸城天守平面図』(京都大学附属図書館所蔵・中井家旧蔵)を基に天守の復元案が示されているが、この2つの図面は慶長度天守ではなく元和度天守のものであるとする説もある。
2つの図面に描かれた天守は外観5重、内観5階・穴蔵(地階)1階の層塔型で、1階平面の規模は東西16間(約33.6m)×南北18間(約37.8m)である。
破風(はふ)飾りは、4重目(4階)四方の張り出し部分の東西が唐(から)破風(頭部に丸みをつけて造形した破風)、南北が千鳥(ちどり)破風(屋根の斜面に設けた小さな三角形の破風)である。
天守の外観は漆喰(しっくい)が塗りこめられた白壁で、屋根には鉛瓦が葺(ふ)かれ、雪に覆われた富士山のように輝いていたと伝わる(『慶長見聞集』)。

元和度の天守・天守台の特徴

1622年(元和8年)8月から1623年(元和9年)にかけて、2代将軍・徳川秀忠は本丸の拡張に着手する。
本丸御殿の拡張に伴い、慶長度天守・天守台は取り壊され、本丸内の北側に新たに元和度の天守・天守台が築き直された。
その場所は現在も残る天守台とほぼ同位置にあたる本丸の西隅で、天守台に付設して小天守台が存在した。
その築造工事は、1622年(元和8年)9月から阿部正行(あべ まさゆき)を奉行に浅野長晟(あさの ながあきら)や加藤忠広(かとう ただひろ)らが担当し、翌1623年(元和9年)3月には工事を終えている。

天守の構造は慶長度天守と同じく5重6階(地階1階を含む)の層塔型で、天守台を含めた高さは約30間(約55m)であったとされている。
慶長度天守のところで前述したとおり、中井家に伝わる『江戸御天守軸組図』や『江戸城天守平面図』は元和度天守の図面とする説があり、その是非については、今後の史料の発掘や研究の深化が必要であろう。

寛永度の天守・天守台の特徴

寛永度天守台は、黒田忠之(くろだ ただゆき)・黒田長興(ながおき)、浅野光晟(あさの みつあきら)・浅野長治(ながはる)が1637年(寛永14年)1月から築造工事に着手して同年8月に完成している。
この天守台は『黒田家続家譜』に「今春其舊基を改め、縦横の長短を替て新たに築くへき由」という記述があり、元和度天守台の長軸を90度反転したものであることがわかる。
『御本丸御天守台絵図』には、天守台の南面に小天守台が付き、その東側には階段が描かれている。




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1637年(寛永14年)12月に完成した天守は外観5重、内部5階・穴蔵(地階)1階で、高さ約44.8m、石垣を含めた高さは約60.6mであった。
『松井家譜』によると、総奉行は松井重政(まつい しげまさ)が任じられ、1重目を水野勝成(みずの かつなり)、2重目を永井尚政(ながい なおまさ)、3重目を松平康重(まつだいら やすしげ)、4重目を松平忠国(ただくに)、5重目を永井直清(なおきよ)が担当したという。

天守の姿は、『江戸城御本丸天守百分ノ壱建地割(たてじわり)』・『江戸城御本丸御天守閣建方(たてかた)之図』(いずれも都立中央図書館所蔵)など、数多く存在する図面から知ることができる。
天守の外観は、屋根の妻側(つまがわ)が1重目に大きな千鳥破風、2重目に千鳥破風を2つ並べた比翼(ひよく)千鳥破風、一方、平側は1重目に比翼千鳥破風、2重目に大きな千鳥破風とし、妻側と平側と対となり、4重目には妻側・平側の両面とも唐破風である。
5重目は高欄(こうらん)がなく、各層の面積が上層にいくにつれて減じていることから、層塔型天守であったことがわかる。
また、『江戸図屛風』(国立歴史民俗博物館蔵)によると、天守の屋根は黒銅色、破風飾りは金色で、壁の色は上部が白、下部が黒で、壁の3分の2以上が黒色である。
壁の上部は白漆喰の塗籠で、下部は銅板張りと考えられ、耐水性や防火・防弾性を意識した造りとなっている。

こうした寛永度天守は日本最大の規模を誇り、破風飾りの工夫、白と黒の壁などに、江戸幕府の政庁、また徳川将軍家の居城にふさわしい威信や風格を感じることができる。
加えて、耐震性や耐久性を意識した世界最大の木造建築であった寛永度天守は、完成後わずか19年後の1657年(明暦3年)1月の大火で焼失した。

再建されなかった天守

1657年(明暦3)1月18日、丸山本妙寺(文京区本郷、現在は豊島区巣鴨に移転)から出火し、江戸市中の6割が罹災した明暦の大火によって江戸城本丸が全焼し、寛永度天守も焼け落ちた。
直ちに天守の再建計画が立てられ、同年9月に前田綱紀(まえだ つなのり)が天守台の修築を命じられている。
前田家による修築工事の進捗状況や経費などは『江府天守台日記』(金沢市立玉川図書館所蔵)に詳細に記されている。
それによると、まず1658年(明暦4年)3月14日から神田橋脇や、天神濠(てんじんぼり)の下梅林門の手前に石材を引き揚げるための船着場(ふなつきば)を設け、同年5月4日から本格的な修築工事に着手している。
同年7月1日、北東に最初の角石が据えられてから2か月余りの1658年(万治1年・7月に改元)9月24日には天守台の修築を終えている。

この万治度の天守台の高さは『江戸天守台之図』(大坂城天守閣所蔵)によると、天守台の高さは寛永度の天守台より約2m低い。
それは、外部から天守台を見えないように、とする4代将軍・徳川家綱の命を反映したものと考えられている。
南面に付随する小天守台には井戸が描かれており、現在に残るものと同様であるが、小天守台の高さはこの図面では天守台より約4m低く、現在の小天守台の高さとは合わない。
これは、万延期(1860年~1861年)の本丸造営の際に小天守台を低くしたことを反映したものと考えられている。
また、天守台の石材については、杉田玄白が著した『後見草(のちみぐさ)』や『江府天守台日記』などによると、天守台の石材は瀬戸内海の犬島や小豆島(しょうどしま)で採石された御影石(花崗岩)が主に使われて、現存する天守台外観の石材と同じである。

こうした天守台の上に天守も建てられる計画であったが、1659年(万治2年)9月の保科正之(ほしな まさゆき)の意見によって天守の築造は見送られた。
保科正之は第2代将軍・徳川秀忠の子として生まれたが、認知されることなく保科正光の養子となった。
長じて異母兄にあたる3代将軍・徳川家光から信頼され、徳川家光の没後は4代将軍・徳川家綱(いえつな)の輔佐を厳命され、幕閣(ばっかく)に重きを成した。
明暦の大火後の江戸城天守の再建に際し、保科正之が「天守は近世の事にて實は軍用に盦なく、唯」観望に備ふるのみなり、これかために人力を費やすへからず」と主張したことが『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』に記されている。
すなわち、泰平の世に天守のために人力を費やす必要はない、との保科正之の意見がとおり、江戸市街の復興を優先することにして天守の築造は中止となったのである。

明暦の大火の55年が経過した正徳年間(1711年~1716年)にも天守の再建が計画された。
計画書や絵図なども作成されており、1658年(万治1年)9月に完成した万治度の天守台の上に寛永度天守と同様の天守を築造するという計画であった。
天守再建案絵図の一つである『江戸城御天守絵図』(国立公文書館所蔵)は正面・側面・各重の3図面からなり、鯱(しゃち)と破風飾りは金色、屋根は銅色、壁は淡墨(たんぼく)と白の2色で彩色されている。
彩色は異なるが『江戸図屏風』に描かれた寛永度天守と同じ構造であるが、このときの再建計画も実現されずに現在に至っている。

江戸時代は1603年(慶長8年)から1867年(慶応3年)までの265年間という長期にわたるが、江戸城を象徴する天守はわずか50年ほどの間しか存在せず、天守のない期間の方が長かった。
近年、江戸城天守の再建を目指した活動が活発化しているが、費用や手続き面などで多くの課題があるという。
例えば、500億円と試算されている再建予算をどのように準備するのか、天守台が残る皇居東御苑は皇室用財産として宮内庁が所管しているため、法改正や国会での議論が必要である、などの課題である。

明暦の大火(1657年)後、保科正之ら当時の幕閣が庶民の生活復興を優先して天守の再建を断念したという歴史的事実を踏まえると、この時期に天守を再建する必要はあるのだろうか。
今後、観光目的などで江戸城を象徴するものが必要というならば、51年間しか存在しなかった天守よりも明暦の大火(1657年)後、天守の代わりを果たした富士見櫓の方がふさわしいのではないだろうか。

富士見櫓は、1606年(慶長11年)に建てられ、加藤清正が築いた櫓台石垣は、江戸城内に現存する石垣の中でも最も古い石垣の一つであるという。
1657年(明暦3年)の明暦の大火で富士見櫓も焼失したが、1659年(万治2年)には再建された。
その後、1923年(大正11年)関東大震災で倒壊したが、旧材を利用して復元された。
富士見櫓の高さは約16mで、四面すべてに窓があり、破風飾りは1層の妻側が唐破風、平側は切妻破風、2層目の平側は唐破風である。
どこからみても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」とも呼ばれており、ほかの近世城郭の天守と比べても申し分のない規模と風格を有している。

こうした富士見櫓は2016年(平成28年)11月から櫓前の広場が整備されたことで、これまでよりもより間近で、富士見櫓を観ることができるようになった。
解決しなければならない課題は多くあると思うが、富士見櫓の常時公開を図る方が現実的であると考える。




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<主な参考文献>
齋藤 慎一 2015年『徳川の城~天守と御殿~』江戸東京博物館
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
野中 和夫 2015年『江戸城 ―築城と造営の全貌―』同成社
平井 聖、他 2008年『【決定版】図説 江戸城 その歴史としくみ』学習研究社  
三浦 正幸、他 2016年『江戸城天守 寛永度江戸城天守復元調査研究報告書』特定非営利活動法人 江戸城天守を再建する会

(寄稿)勝武@相模

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