【徳川家康と城】「天下普請」による築城を探究する~膳所城築城から徳川期の大坂城築城まで~

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天下普請による築城

全国統一を果たした豊臣秀吉が1598年(慶長3年)に没すると、五大老筆頭の徳川家康と五奉行の石田三成の対立が激化した。
1600年(慶長5年)、石田三成が五大老の毛利輝元を盟主に挙兵すると、徳川家康は福島正則黒田長政らの豊臣恩顧の諸大名を率いて関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。
「天下分け目の戦い」と称せられている関ヶ原の戦いは、徳川家康(東軍)が石田三成(西軍)に勝利したが、徳川家康にとっては豊臣政権における最高権力者としての地位を得たにすぎなかった。
1603年(慶長8年)、徳川家康は征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開き、政権を担うことになったが、大坂城には豊臣秀頼が健在であり、東軍側で勝利して所領を増やした西国の豊臣恩顧の諸大名も不気味な存在であったであろう。




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そこで、徳川家康は諸大名に築城工事を割り当てる「天下普請(ぶしん)」によって、京への入り口や街道の要衝、大坂城を包囲する地に14城を築城した。
天下普請による築城の期間は関ヶ原の戦いの翌年の1601年(慶長6年)から大坂夏の陣後の1620年(元和6年)までである。
築城された城は時期順に膳所(ぜぜ)城(滋賀県大津市)・二条城京都府京都市)・福井城(福井県福井市)・伏見城(京都府京都市)・加納(かのう)城(岐阜県岐阜市)・彦根城(滋賀県彦根市)・江戸城(東京都千代田区)・駿府城(静岡県静岡市)・篠山(ささやま)城(兵庫県篠山市)・名古屋城(愛知県名古屋市)・丹波(たんば)亀山城(京都府亀岡市)・伊賀上野城(三重県伊賀市)・高田城(新潟県上越市)・徳川期の大坂城(大阪府大阪市)である。

これら14城のうち、既存の城を大改修した城は、伏見城・江戸城・駿府城・丹波亀山城・伊賀上野城・大坂城の6城である。
また、二条城・江戸城・駿府城・大坂城の4城は、江戸幕府が直接管理し、それ以外の城は徳川一門か譜代大名が城主を務めた。

関ヶ原戦い直後の築城

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌1601年(慶長6年)から膳所(ぜぜ)城・二条城・福井城を新規に築城したほか、伏見城の再建にも着手した。
また、1602年(慶長7年)には徳川家康自らが城の場所を決めた加納城の築城を始めた。

膳所城
膳所城は関ヶ原の戦いで被害を受けた大津城の代わりに、京への東側の入口にあたる「瀬田の唐橋(からばし)」を抑えるために築かれた。
膳所城の築城は徳川家康にとって初の天下普請によるもので、藤堂高虎が縄張り(設計)を命じられ、諸大名が工事を割り当てられた。
膳所城へは京阪石山坂本本線・浜膳所本町駅から徒歩約5分で、現在、本丸跡が「膳所城跡公園」として整備されている。

【二条城】
二条城は1601年(慶長6年)から築城準備が、翌年から築城工事が本格的に始まり、1603年(慶長8年)には完成したという。
1624年(寛永元年)に大改修がおこなわれ、西側に本丸・二の丸が造営され、城全体を堀と石垣で囲む現在の姿となった。
2009年(平成21年)に発掘調査がおこなわれ、慶長期(1596年~1615年)の石垣の一部が検出されたことで、徳川家康が築いた二条城は現在の東側半分にあったことが明らかとなった。
その姿は「洛中洛外図屏風」(堺市博物館蔵)には、方形単郭という単純な構造で一重の堀がめぐり、天守は北西隅に5重の望楼型天守として描かれている。
また石垣の石材は、粗割(あらわり)石と自然石が多く使用されており、破却された聚楽第(京都府京都市)の旧材を再利用したものである。
二条城へは京都市営地下鉄東西線・二条城前駅から徒歩約1分で、現在、「元離宮二条城」として整備されており、1994年(平成6年)には世界文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されている。




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【福井城】
福井城が築城された場所は、北陸地方より畿内に至る要衝であり、1575年(天正3年)に織田信長の重臣・柴田勝家が北ノ庄城に築城した地である。
北ノ庄城は1583年(天正11年)、柴田勝家が豊臣秀吉に敗れた賤ケ岳の戦いで落城して焼失した。
関ヶ原の戦い後、徳川家康は次男・結城秀康をこの地に封じ、1601年(慶長6年)9月に諸大名に命じて福井城の築城工事を始めている。
福井城へはJR北陸本線・福井駅から徒歩約5分で、現在、本丸跡は官庁街となり、石垣と堀の一部残る。

【伏見城】
1598年(慶長2年)年8月、豊臣秀吉は伏見城で生涯を終えたが、その没後、徳川家康は伏見城に入城し政務をおこなっている。
1600年(慶長5年)8月1日、関ヶ原の戦いの前哨(ぜんしょう)戦で、石田三成の西軍に攻められ、守将の鳥居元忠・松平家忠らが戦死し落城した。
1601年(慶長6年)3月、徳川家康は藤堂高虎を普請奉行に任命して伏見城の再建工事に着手し、1603年(慶長8年)には、伏見城で征夷大将軍の宣下(せんげ)を受けている。
その後も1606年(慶長11年)年まで再建工事は続けられたが、1623年(元和9年)に廃城となり、天守は二条城に移築されるなど、多くの建物が各地に移築されている。
伏見城へはJR奈良線・桃山駅から徒歩約15分で、現在、「伏見桃山城運動公園」として整備され、模擬天守が建つが中には入ることはできない。

【加納城】
1602年(慶長7年)7月、徳川家康は「徳川四天王」の本多忠勝に加納城の築城を命じ、1607年(慶長10年)には上洛の際に工事の進捗状況を確認している。
加納の地は中山道の東西交通の要地にあたり、1601年(慶長6年)、徳川家康自らが江戸への帰路に下見をおこない、築城場所を決めたという。
建築の材料は、廃城となっていた織田信長の岐阜城のものが使われており、加納城二の丸の「三階櫓(やぐら)」は岐阜城天守の部材が転用されたものであると伝わる。
加納城へはJR東海道本線・岐阜駅から徒歩約15分で、現在、本丸跡が「加納公園」として整備されており、その周辺には石垣や堀跡が残る。

征夷大将軍・大御所時代の築城

1603年(慶長8年)、徳川家康は征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開くと、1604年(慶長9年)から彦根城の築城と江戸城の大改修に着手した。
1605年(慶長10年)に将軍職を徳川秀忠にゆずると、隠居後の居城とするために駿府城の大改修を始めている。
徳川家康は隠居後も大御所として実権を握り続け、1609年(慶長14年)に篠山城・名古屋城の築城と丹波亀山城の大改修、1611年(慶長16年)に伊賀上野城の大改修を命じ、そして1613年(慶長18年)には高田城の築城を計画している。

【彦根城】
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、徳川家康は「徳川四天王」の井伊直政を石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)に18万石で封じた。
井伊直政は佐和山城に入城したが、急峻で不便であることから廃城とし、井伊直政の没後に跡を継いだ井伊直継(後の直勝)の代の1604年(慶長9年)に彦根城の築城工事に着手した。
その工事は7ヶ国12家の諸大名が割り当てられ、1606年(慶長11年)には主要部の大半が完成している。
短期間での完成を目指し、石垣の石材や門、櫓などは佐和山城・大津城・長浜城・安土城などの旧材を使い、天守は大津城の5重4階の天守を移築しているが、彦根城全体の完成は大坂の陣後の1622年(元和8年)であった。
彦根城はJR彦根駅から徒歩で約15分の場所にあり、現在、天守・附(つけ)櫓・多聞(たもん)櫓が国宝に指定され公開されている。

【江戸城】
1580(天正18)年9月、徳川家康は江戸城に入城すると、徳川家の拠点にふさわしい城にするための拡張工事に着手した。
1603年(慶長8年)、徳川家康が征夷大将軍に任じられると、1604年(慶長9年)から天下普請による大規模な拡張・改築工事を開始した。
本丸の工事は1606年(慶長11年)3月から始まり、藤堂高虎が縄張りをおこない、池田輝政加藤清正・福島正則・黒田長政など西国の外様大名28家が割り当てられた。
翌1607年(慶長12年)からは東国の諸大名も天守台の工事を担当し、同年中に5層6階の天守が完成した。
江戸城の拡張・改築工事は2代・徳川秀忠、3代・徳川家光に引き継がれ、1638年(寛永15年)頃まで継続され、この間、天守は三度造営されている。
江戸城はJR東京駅から徒歩約5分の場所にあり、明治維新後に皇居となったが、現在は本丸、二の丸、三の丸の一部が一般開放されている。

【駿府城】
駿府は徳川家康が幼少時に人質として過ごし、1585年(天正13年)に駿府城を築いて領国経営の拠点とした地である。
1605年(慶長10年)に将軍職を徳川秀忠に譲った徳川家康は、駿府城を隠居後の居城とし、1607年(慶長12年)2月から本格的な築城工事を始めた。
その工事は越前(福井県)・美濃(岐阜県)、尾張(愛知県)・三河・遠江の諸大名が命じられて担当し、同年7月に本丸が完成した。
しかし、同年12月に失火により本丸が全焼したため、徳川家康は直ちに再建工事を諸大名に命じて、1607年(慶長12年)3月に再建工事が終了した。
徳川家康没後は、江戸幕府直轄の城として駿府城代が派遣され、明治維新後の一時期は徳川宗家を相続した徳川家達が在城した。
駿府城はJR静岡駅から徒歩約15分の所にあり、現在は駿府城公園として整備されており、天守台発掘調査の跡は一見に値する。

【篠山城】
篠山城は1609年(慶長14年)3月に、徳川家康が山陰・山陽へ通じる要衝である篠山に、大坂城の包囲と豊臣家ゆかりの西国大名を抑える拠点として築城した平山城である。
築城工事は、藤堂高虎が縄張り(設計)をおこない、池田輝政を普請総奉行として、福島正則・加藤嘉明・浅野幸長らの西国大名20家が命じられて、約8万人の人夫が動員された。
突貫工事で1609年(慶長14年)12月には完成し、その構造は方形を基本として二重の堀がめぐり、本丸の石垣は高くそびえるが、徳川家康の命により天守が築かれることはなかった。
篠山城へはJR宝塚線「篠山口駅」西口から「篠山営業所行」バスで約15分の「二階町」から徒歩約5分で、現在、二の丸跡には、大書院が木造建築で復元され公開されている。

【名古屋城】
名古屋城の二の丸周辺には、戦国時代に那古野(なごや)城があって織田信長も17年ほど居城とした。
織田信長は尾張国(愛知県)の中心であった清須城に居城を移し、間もなく小牧山城へ移るが、その後も清須城は織田信雄(のぶかつ)、羽柴秀次、福島正則、松平忠吉が城主となり繁栄を極めた。
1607年(慶長12年)に徳川家康は9男・徳川義直を尾張に封じると、1610年(慶長15年)2月から名古屋城の築城を始めた。
築城工事は加藤清正・黒田長政・細川忠興・前田利常(としつね)・蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)らの豊臣恩顧の外様大名17家が命じられ、その後、池田輝政・福島正則・浅野幸長も加わり合わせて20家が担った。
工事前から石材や木材などが集められ、20万人におよぶ人夫が動員されたことで、1610年(慶長15年)8月に加藤清正が担当した天守台、9月には本丸・二の丸・深井丸(ふけまる)の石垣が1年も経たずに完成している。
5重5階・地下1階の巨大な天守は1612年(慶長17年)末には完成し、その後、本丸御殿の建築工事が始まり、1615年(元和1年)2月に完成した。
名古屋城へは名城線 「名古屋城」 下車 7番出口より徒歩約5分で、現在、本丸御殿をはじめ多くの建物が復元されている。
ただし、天守については木造復元計画に伴う工事のため、2018年(平成30年)から閉館となっている。

【丹波亀山城】
丹波亀山城は1577年(天正5年)頃、明智光秀が丹波攻略の拠点とするために築城したのが始まりである。
徳川家康は1609年(慶長14年)に岡部長盛を封じて、西国大名に命じて丹波亀山城の大改修をおこなった。
藤堂高虎が縄張りをおこない、翌1610年(慶長15年)夏頃には近世城郭としての丹波亀山城が完成し、本丸には5重の層塔型天守が造営された。
丹波亀山城へはJR西日本嵯峨野線亀岡駅から南へ徒歩10分で、現在、城跡は「宗教法人大本」の敷地となっているが、許可を得れば石垣などを見学できる。

【伊賀上野城】
伊賀上野城は1585(天正13年)に筒井定次(つつい さだつぐ)が近世城郭として築城し、3重の天守が建てられていたという。
1608年(慶長13年)6月、徳川家康は筒井定次を改易にすると、同年8月に藤堂高虎を伊予宇和島(愛媛県宇和島市)から伊賀(三重県)に入国させ、伊賀上野城の大改修を命じた。
藤堂高虎は1611年(慶長16年)1月から改修工事をおこない、本丸を西に拡張し、高さ約30mの高石垣をめぐらすなど、大坂城の豊臣家との戦いに備えて、特に西方面の防御を重視した。
天守は5層であったが、建設中の1612年(慶長17年)9月、大暴風により倒壊し、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅びたこともあり、天守が再建されないまま明治維新を迎えた。
伊賀上野城へは伊賀上野鉄道伊賀市駅から徒歩約8分で、現在一帯は上野公園として整備され、大坂城とともに日本一の高さを誇る高石垣が残る。

【高田城】
徳川家康は徳川家と豊臣家の対立が激化する中、1610年(慶長15年)に6男・松平忠輝を越前に封じて交通の要衝である福島城の城主とした。
1613年(慶長18年)、徳川家康は信越・北陸の抑えとして高田に新たな城を築くことを計画した。1614年(慶長19年)年3月から松平忠輝の舅・伊達政宗をはじめ、上杉景勝・前田利常らの諸大名13家に命じて高田城の築城工事を始め、わずか3か月半で完成したとされている。
そのため、高田城には天守が建てられることはなく、石垣も積まれず土塁をめぐらしただけであり、その背景は豊臣家との決戦を控え、完成を急ぐ必要があったと考えられている。
高田城へは、えちごトキめき鉄道高田駅から東へ徒歩約20分で、現在、城跡は高田城址公園として桜の名所となっており、本丸土塁が築城当時の姿を今に伝えている。

徳川期の大坂城の築城

1615年(元和1年)の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡し、豊臣秀吉が築いた豪華絢爛な大坂城も落城し焼失した。
戦後、徳川家康は外孫の松平忠明を大坂城主にして復興に当たらせたが、城下町が中心で城の中心部の本格的な改修はおこなわれなかった。
1616年(元和2年)に徳川家康が没した後、1619年(元和5年)に松平忠明は大和郡山へ移封となり、大坂の地は江戸幕府の直轄領(天領)となった。
翌1620年(元和6年)、2代将軍・徳川秀忠は西国・北陸の外様大名47家に命じて大坂城の再建に着手した。
再建工事は藤堂高虎を総奉行として、1620年(元和6年)から1630年(寛永7年)までの10年間にわたり3期に分けておこなわれた。

1620年(元和6年)からの第1期工事は、47家の諸大名が命じられて、西の丸、二の丸北部・東部、三の丸の石垣工事を中心に、小堀遠州らを作事奉行に任命して、櫓(やぐら)や多聞(たもん)の建築もおこなわれた。
1624年(寛永1年)からの第2期工事は、58家の諸大名が命じられて本丸や天守台の造営がおこなわれたが、この工事は豊臣期の大坂城本丸に盛り土して完全に埋没させた後に、石垣や堀を新たに造る大工事となったという。
そして、1628年(寛永5年)からの第3期工事では、57家の諸大名が命じられて二の丸南面の整備がおこなわれ、広大な規模の南外堀と高さ約30mの高石垣が完成した。

完成した徳川期の大坂城は、高石垣や巨石の使用、幅・深さとも広大な規模の堀、そして豊臣期の天守より約20mも高い白亜の天守など、豊臣期の大坂城をはるかに凌駕する大規模な城となった。
ただし、巨大な天守は1665年(寛文5年)1月の落雷により全焼し、以後、再建されることはなかった。
大坂城へはJR大阪環状線大阪城公園駅やJR・地下鉄森ノ宮駅、地下鉄谷町四丁目駅で下車、現在、城跡一帯は「大阪城公園」として整備されており、徳川期の大坂城の堀、石垣、遺構などを見ることができる。

天下普請による築城の意義

徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)で勝利は収めたが、大坂城には豊臣秀頼が健在で、また徳川家康に味方し領地を増やした豊臣恩顧の大名が西国を中心に存在しており、それが脅威であった。
徳川家康は関ヶ原の戦いの翌1601年(慶長6年)に、京の東側を抑え出撃の拠点とするために膳所城を築城するが、徳川家康最初の天下普請によるものであった。
二条城の築城と伏見城の大改修は、京における徳川家の政治の拠点とするためであり、実際、徳川家康は伏見城で将軍宣下を受けている。
さらに、西国に配置した豊臣恩顧の外様大名が江戸を向かうことを抑えるために、北国街道の要衝に福井城、東山道に加納城・彦根城を築城した。
これらの城うち彦根城は京の守備を、また、他の城は戦時に江戸から西上する徳川軍を支援する役割も期待されたものと考えられる。

徳川家康の将軍・大御所時代における築城及び大改修は、大坂城の豊臣家や西国の外様大名に対する備えが主な目的であった。
例えば、大坂攻めをおこなうときの徳川軍の前線基地、あるいは西国大名が江戸へ攻めこんできたときの最終防衛拠点として駿府城が築かれた。
同様に西国から京へ入る西側の山陰道の要衝に篠山城、山陰道の京の入口近くに丹波亀山城が築かれたのである。

豊臣家の滅亡後、1620年(元和6年)に2代将軍・徳川秀忠は大坂城の再建に着手する。
この工事は豊臣期の大坂城を盛り土して埋没させた上に、より豪壮で堅固な城を築き、本丸には豊臣期の天守より約20m高い5重天守を建てた。
櫓(やぐら)・門などの建造物や高石垣、広大な幅で深い二重の水堀などに、豊臣期の大坂城を遥かに凌ぎ、江戸幕府の威信を誇示するための築城をみることができる。

また、天下普請による築城には、豊臣恩顧の外様大名に加えて、譜代大名や徳川家臣団を工事を割り当てる参加することが多くあった。
天下普請を命じられた豊臣恩顧の外様大名は、藤堂高虎や加藤清正に代表されるように、優れた築城理念や技術を有し、高い技術をもつ職人集団を把握していた。
徳川家康は天下普請によって外様大名の財力を奪うとともに、最新の築城技術を徳川家ゆかりの譜代大名や家臣団に習得させることも意図したものと考えられる。




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<主な参考文献>
加藤 埋文 2021年『家康と家臣団の城』KADOKAWA
齋藤 慎一 2015年『徳川の城~天守と御殿~』江戸東京博物館
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版

(寄稿)勝武@相模

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