徳川家康の祖・松平氏8代の盛衰と城~「松平城」から「岡崎城」へ~

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平氏8代の始まり

 
2023年(令和5年)のNHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康が生を受けた松平氏は、三河の松平郷(愛知県豊田市松平町)から始まった。
松平郷は、在原信盛(ありはらのぶもり)が開拓して館(「松平館」)を構え、その嫡子・松平太郎左衛門信重(たろうざえもん のぶしげ)も開拓を進め人馬の道を造るなど、領民からの尊敬を得ていた。
あるとき、松平信重のもとに、時宗の遊行(ゆぎょう)僧・徳阿弥(とくあみ)が現れた。
徳阿弥は松平信重の娘婿となって松平氏の家督を相続し、松平親氏(ちかうじ)と称して松平氏の初代となったと伝えられている。
以後、松平氏は松平泰親(やすちか)・信光(のぶみつ)・親忠(ちかただ)・長親(ながちか)・信忠(のぶただ)・清康(きよやす)・広忠と8代の系譜をつなげて徳川家康へと至る。




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初代・松平親氏は、1392年(明徳3年)に義父の松平信重が没すると、松平館の東方約500mの山頂に戦時用の城として「松平城」(「郷敷(ごうしき)城)」ともいう)を築いて本拠とし、近隣の武力征服を始めた。
松平親氏は弟・松平泰親とともに、松平郷の南方の額田(ぬかた)郡の7村「山中七名(しちみょう)」を手に入れるなど、山間部の松平郷の小領主に過ぎなかった松平氏発展の基礎を築いた。

松平親氏が没したとき、嫡子・松平信広(のぶひろ)と次男・松平信光が幼少であったため、松平親氏の弟・松平泰親が2代目を継いだ。
2代・松平泰親は1421年(応永28年)、甥の松平信広・松平信光を従えて、矢作(やはぎ)川左岸の岩津(いわづ・岡崎市岩津町)に居を構えていた中根大膳(たいぜん)を討ち取り、岩津を三河平野に進出する拠点とした。

松平信光・松平親忠の勢力拡大

3代・松平信光は1404年(応永11年)、松平親氏の3男として生まれ、1421年(応永28年)、叔父の2代・松平泰親と兄・松平信広とともに岩津の中根大膳を滅ぼした。
この戦いで兄・松平信広は脚を負傷して不自由な体となったため松平郷に残り、代わって松平信光が松平氏3代目を継いだ。
松平信光は標高約74mの丘陵上に「岩津城」を築き、その下には「岩津七城」と称される本城・新城・大膳城・大膳西城・妙心寺城・壇ノ上城・木平城を築き、一族を配置して守りを固めた。
1465年(寛正6年)5月、松平信光は室町幕府8代将軍・足利義政の命によって、額田郡の井ノ口砦(岡崎市井ノ口町)を拠点に乱を起こした吉良氏の浪人を鎮圧している。
この鎮圧は、松平信光が室町幕府政所の執事(しつじ)・伊勢貞親(さだちか)の被官であったことによるもので、松平信光の名声を額田郡一帯に高めることになった。

応仁・文明の乱(1467年~1477年)が始まったころ、松平信光は長坂新左衛門の「大給(おぎゅう)城」(豊田市大内町)、山下庄左衛門の保久城(岡崎市額田町保久)を攻略した。
大給城は足助(あすけ)街道と新城街道とが交差する九久平(くぎゅうだいら)の地(豊田市九久平町)の東方、標高約207mの山頂に位置する。
現在は本丸の北・西・南の三方が絶壁で、西から北にかけて「物見岩」と呼ばれる巨岩、「白米伝説」の米流し岩などが散在し、本丸の東側には石垣が残る。
他にも岩と岩とを連結した石垣や、飲料用の雨水を貯めた2つの「水ノ手曲輪(くるわ)」、大手門跡などがあり、この地方の貴重な山城である。
大給城は松平信光の3男・松平親忠に譲られ、その次男・松平乗元(のりもと)の系統(大給松平家)が城主となった。
松平乗元の子・松平乗正(のりまさ)の代の1510年(永正7年)に大改修がおこなわれ、今も残る本丸・石垣・館跡などは、このときの遺構であるという。
その後3代を経た1590年(天正18年)、松平家乗(いえのり)が徳川家康の関東移封に伴い、上野国名波(群馬県伊勢崎市)に移ると、大給城は廃城となった。




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1471年(文明3年)7月、松平信光は「安祥(あんじょう)城」(安城市安城町)を謀略によって攻略し居城とした。
『三河物語』には、松平信光が安祥城から約1500m離れた地で盆踊りを盛大に催し、それを見るために城兵が城から出た隙に攻め入ったことが記されている。
安祥城は、1440年(永享12年)に足利一族の和田親平(ちかひら)が台地の突端に築いた平城である。
当時は三方を沼地に囲まれ、わずかに北側が台地につながり、土塁と堀がめぐるという天然の要害であった。
現在、安祥城跡は歴史公園として整備され、本丸跡は了雲院(りょううんいん・浄土宗)の境内、二の丸跡には八幡社が建ち、1991年(平成3年)には、了雲院の西側に「安城市歴史博物館」が開館した。
城域では1988年(昭和63年)以降、数度の調査が行われており、多くの地点で堀が確認され、一部の堀では堀の中を区切る畦(あぜ)状の遺構が検出されている。
また、本丸跡にある了雲院の境内の発掘調査では、戦国時代の遺構が残されていることが確認されている。

次いで、松平信光は三河国守護・三木氏の守護代であった西郷稠頼(さいごう つぐより)が築いた「岡崎城」(岡崎市康生町)を攻略し、西郷稠頼の娘を正室に迎えた5男・松平光重(みつしげ)を岡崎城主とした。
なお、岡崎城の歴史や構造、特徴などについては以下のサイトを参照いただきたい。
【どうする家康】徳川家康が生まれた城「岡崎城」~その歴史と城郭の整備・拡張を探究する
【徳川家康と城】徳川家康誕生の城「岡崎城」の魅力を探究する~文献史料・絵図・発掘調査成果をもとに~

以上のように、松平信光は安祥城・岡崎城を手に入れたことで、西三河の3分の1以上を勢力下においた(『三河物語』)。
松平信光には48人の子女があっとされており、そのうち女子は近隣の土豪(どごう)に嫁がせ、男子は各地に封じて勢力拡大を図った。
分家した庶子や孫は所領の地名から、竹谷(たけのや)・形原(かたのはら)・大草・五井・能見(のみ)・長沢・深溝(ふこうず)と称した松平家である。
松平信光は1471年(文明3年)ごろ、家督を3男・松平親忠に譲って隠居し、1488年(長享2年)7月に85歳で没した。

4代・松平親忠が松平信光から家督を譲られ、安祥城主となったのは応仁・文明の乱の最中で、三河国内でも多くの戦いがおこった。
戦乱が続く中、神仏への信仰が厚かった松平親忠は、1472年(文明4年)に伊賀八幡宮(岡崎市伊賀町)を創建して氏神とし、1475年(文明7年)には松平家・徳川家の菩提寺となる大樹寺(岡崎市鴨田町)を創建した。

1493年(明応2年)10月、金谷城(豊田市小坂本町)の城主・中条出羽守を総大将とする3,000余の連合軍が岩津城を攻め落とした後、岡崎城に押し寄せ、井田野(いだの)に陣をしいた。
松平親忠は一族郎党2,000余で中条らの連合軍を敗走させ、この井田野合戦に勝利し、松平一族内からの信望を得て安祥松平家の地位を高めた。
一方、松平信光の長子の松平親長は、岩津城主として惣領家の岩津松平家を継いだが、次第にその勢力は衰えていった。
1496年(明応5年)、松平親忠は嫡子・松平長親に家督を譲って隠居し、1501年(文亀元年)5月に63歳で没した。
松平親忠の次男・松平乗元(のりもと)は大給松平家、9男・松平乗清(のりきよ)は滝脇松平家の創設した。

今川氏の脅威と松平一族内の争い

5代・松平長親が当主となったのは、井田野合戦(1493年)の勝利で安祥松平家の惣領家としての地位が強固になり、松平一族が結集、強固な家臣団が形成された時期であった。
その一方で、駿河・遠江(静岡県)の守護・今川氏親(うじちか)が東三河まで領土を拡大し、さらに西進して岡崎城・安祥城に迫ろうとしていた。
1506年(永正3年)8月、今川氏の客将・伊勢新九郎長氏(ながうじ・のちの北条早雲)が約1万の大軍で吉田城(豊橋市今橋町)を攻略、そこを拠点に岩津城を激しく攻めたてた。
これに対して松平長親は500余の軍勢を率いて安祥城から出陣、伊勢長氏の本陣まで肉薄し、今川勢を退けた。
その後、安祥松平家に逆らうものはいなくなったことから、松平長親は永正年間(1504年~1521年)の初めごろに、嫡子・松平信忠に家督を譲って隠居し、1544年(天文13年)8月、71歳で没した。
松平長親の次男・松平信定(のぶさだ)は桜井松平家、3男・松平親盛(ちかもり)は福釜松平家、4男・松平義春(よしはる)は東条城、5男・松平利春(としはる)は藤井松平家をそれぞれ創設した。

松平長親の嫡子・松平信忠は「武勇・家臣への情愛・民百姓への慈悲」に欠けており(『三河物語』)、次男・松平信定の方が6代目を相続する力量があった。
そのため、家臣団が2派に分かれて相争ったが、結局は松平信忠が6代目を継ぎ、父の松平長親が政務を後見した。
6代・松平信忠は当主になっても家臣団の信頼を得られず、松平郷松平家5代・松平勝茂(かつしげ)を中心とする家臣団からの勧告を受け入れ、1523年(大永3年)に家督を嫡子・松平清康に譲り隠居した。
松平信忠の次男・松平信孝(のぶたか)は三木松平家、3男・松平康孝(やすたか)は鵜殿(うどの)松平家を創設した。

三河統一の挫折と苦難

7代・松平清康は1511年(永正8年)に松平信忠の嫡子として安祥城で生まれ、1523年(大永3年)に家督を継いだ。
その頃、一族で岡崎城主・西郷信貞(のぶさだ)が山中城(岡崎市羽栗町)も有して勢力を強め、松平惣領家をないがしろにしていた。
そこで、松平清康は1524年(大永4年)、山中城を攻め落とし、さらに岡崎城も明け渡させて安祥城から岡崎城に移った。

岡崎城を居城とした松平清康は、「十八松平」と呼ばれる一族をはじめ、一門衆・家人・国人(こくじん)衆を強固な家臣団として組織、各地を転戦し三河統一をめざした。
1525年(大永5年)から1531年(享禄4年)にかけて松平清康が攻略し、追放したり帰服させた城)/城主は以下のとおりである。
〔足助(あすけ)城(豊田市足助町))/鈴木重政、吉田城)/牧野信成(のぶしげ)、田原城(田原市田原町))/戸田政光(まさみつ)、作手(つくで)城(新城市作手))/奥平貞勝(さだかつ)、長篠城(新城市鳳来町))/菅沼元成(もとしげ)、田峯城(設楽町田峯))/菅沼定継(さだつぐ)、小島城(西尾市小島))/鷹部家槊之助(たかべや さくのすけ)、宇利城(新城市中宇利))/熊谷直利(なおとし)、伊保(いぼ)城(豊田市貝塚町))/三宅加賀守、など〕

こうして、松平清康は三河一国をほぼ勢力範囲とし、甲斐(山梨県)の武田信虎(のぶとら・武田信玄の父)が和睦を願うまで勢力を強めたのである。
しかし、1535年(天文4年)12月5日、松平清康は尾張(愛知県西部)織田信秀(のぶひで・織田信長の父)を攻めるため、守山城(名古屋市守山区市場)へ出陣した際、家臣の阿部弥七郎に殺された。
阿部弥七郎は、父の阿部定吉(さだよし)から謀反の流言によって処罰される恐れがあると聞かされており、当日の早朝、放れ馬による騒ぎを、父が成敗されたと思い込み、松平清康を背後から斬殺したのである。
阿部弥七郎はその場で植村新六郎によって討ち果たされたが、総大将の松平清康を失った松平勢は総崩れとなり、三河に撤退した。
これは「守山崩れ」と呼ばれ、この事件を境に松平一族は三河統一を果たせなくなるどころか、苦難の道を歩むことになる。

松平清康が没したとき、跡を継いだ8代・松平広忠はわずか10歳であり、織田信秀と縁戚関係であった一族の松平信定が異心をいだき、岡崎城の奪取を図った。
1535年(天文4年)12月、松平広忠は阿部定吉らわずかな家臣に守られながら岡崎城を脱出し、伊勢(三重県)・遠江を流浪した。
その1年半後の1537年(天文6年)6月、松平広忠は駿河の太守・今川義元(よしもと)の支援を受け、大久保忠俊(ただとし)らの尽力で岡崎城に帰城した。
この流浪の間、東三河は今川氏に占拠され、西三河は織田氏に侵略されており、松平広忠は今川千須元に頼りながら、どうにか岡崎城を維持する状態であった。




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1540年(天文9年)6月、織田信秀が3,000余の軍勢で三河に侵入して安祥城を攻撃した。
安祥城の城将・松平長家(ながいえ)は松平広忠からの松平一族らの援軍とともによく防戦したが、松平長家をはじめ主な武将だけでも50余人の戦死者を出して安祥城は落城した。
安祥城が織田氏の三河経営の本拠となったことで、これ以後、松平氏の重臣・酒井忠尚(ただひさ)や一族の松平忠倫(ただとも)らが織田信秀に通じ、矢作川以西は織田氏の勢力範囲という状況になった。
1542年(天文11年)8月、岡崎城の奪取をめざす織田信秀に対して、それを阻止しようと今川義元が大軍を率いて三河に侵入し、小豆坂(あずきざか・岡崎市美合町、他)で今川・松平軍と織田軍が激突し、今川・松平軍が敗北した(「第一次小豆坂の戦い」)。

この間、松平広忠は1541年(天文10年)、水野忠政(ただまさ)の娘・於大(おだい)を正室に迎え、翌1542年(天文11年)には嫡子・竹千代(のちの徳川家康)が生まれた。
しかし、同年、水野忠政の没すると、その跡を継いだ水野信元(のぶもと)が織田信秀に属したため、1543年(天文12年)、松平広忠は於大を離縁し、翌年 田原城主・戸田康光の娘・真喜姫を正室とした。

第一次小豆坂の戦いで敗北した松平氏は、水野氏との断絶、一族の松平信孝(のぶたか)の裏切り、有力家臣の織田氏への内応なども相次ぎ、その勢力は衰退の一途をたどり、西三河の大半は織田氏の勢力範囲となった。
織田信秀の大軍が岡崎城に迫る中、単独では織田氏に対抗できなくなった松平広忠は、今川義元に救援を依頼して承諾を得たが、その代償に嫡子・竹千代を人質として駿府に送ることになった。
だが、その途中で竹千代は、戸田康光によって奪われ、尾張の織田信秀のもとに連れていかれ、そのまま人質となった。

1548年(天文17年)3月には、再び今川・松平軍と織田軍が小豆坂で激突、今川・松平軍が勝利し(「第二次小豆坂の戦い」)。
その翌月は織田信秀に与した松平信孝も戦死し、松平広忠は三河統一に向けて積極的に活動し制服を回復しつつあったが、翌1549年(天文18年)3月、近臣の岩松八弥(はちや)によって岡崎城内で殺害された。
松平広忠が24歳の若さで没したとき、嫡子・竹千代は織田氏の人質となっており、今川氏と織田氏が岡崎城を狙っていた。

松平氏は山間部の松平郷の小領主から次第に勢力を拡大していき、3代・松平信光と4代・松平親忠の代には松平一族や家臣団が強く結束し、西三河の3分の1以上を勢力下においた。
5代・松平長親と6代・松平信忠の代は、今川氏からの圧力や松平一族内の争いなどにより、その勢力は弱まった。
7代・松平清康は再び勢力を拡大し、三河一国をほぼ勢力範囲としたが家臣に殺され、跡を継いだ8代・松平広忠は今川氏に頼らざるを得ないほど衰退する中、家臣に暗殺され、松平氏は危急存亡の秋(とき)を迎えたのである。




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<主な参考文献>

笠谷 和比古 2016年『ミネルヴァ日本評伝選 徳川家康』ミネルヴァ書房 
工藤 寛正 2009年『徳川・松平一族の事典』東京堂出版
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社

(寄稿)勝武@相模

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