【徳川家康と城】「小牧山城」の解説~織田信長による築城と小牧・長久手の戦いの陣城~

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概要

小牧山城(愛知県小牧市)は1563年(永禄6年)に織田信長が尾張平野中央部の標高85mの小牧山に築いた山城である。
織田信長は美濃(岐阜県)の斎藤氏を攻略するために、清須城(愛知県清須市)から小牧山城に移り、小牧山南側の麓(ふもと)には城下町を整備して居城とした。
4年後の1567年(永禄10年)、織田信長が攻略した稲葉山城(岐阜県岐阜市)に居城を移すと、小牧山城は廃城となったが、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いの際、徳川家康の陣城(じんしろ=臨時の城)となった。




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現在、小牧山全体が「小牧山史跡公園」として整備されており、石垣や土塁、堀、井戸などの遺構がみられ、山頂の3層4階建ての天守閣風の建物「小牧山歴史館」、山麓の「小牧山城史跡情報館(れきしるこまき)」では小牧山城の歴史や特徴を学ぶことができる。
また、2003年(平成16年)から主郭地区で史跡整備に伴う発掘調査が継続しておこなわれており、織田信長築城時の小牧山城の姿が明らかになりつつある。

小牧山城へは、名鉄小牧線「小牧駅」から西へ徒歩20分(1.9km)、車では小牧I.C. より国道41号を南下し、弥生町交差点を東へ約5分である。

織田信長による築城

織田信長は1560年(永禄3年)5月、桶狭間の戦いで今川義元を破ると、三河国(愛知県東部)の松平元康(のちの徳川家康)と同盟を結び、美濃国(岐阜県)の斎藤氏を攻めることとした。
その拠点として1560年(永禄3年)6月、織田信長は重臣で築城の名手である丹羽長秀に命じて小牧山山頂に城を築かせ、同年7月にはこれまでの居城・清須城から小牧山城に移り住み、小牧山の南麓には城下町も整備した。
その4年後の1567年(永禄10年)、織田信長、齋藤氏の稲葉山城(岐阜県岐阜市)を攻略して岐阜城と改称し、ここに居城を移したことで小牧山城は廃城となった。

織田信長の小牧山城の構造(縄張り)は、標高約86mの小牧山頂上に主郭(しゅかく)を築き、その周囲を三重の石垣が取り巻き、中腹も削平して数多くの曲輪を配した小牧山全体を城郭化したものである。
大手道は小牧山南の麓から中腹まで直線で、中腹から山頂まで屈曲を繰り返して主郭に至っている。
小牧山城では、2004年度(平成16年度)から主郭地区を中心に史跡整備に伴う発掘調査(2007年度までは試掘調査、それ以降は本格調査)が継続的におこなわれている。
発掘調査により、石垣や建物跡などが確認され、これまでは砦(とりで)に近いものと考えられていた小牧山城が本格的な城郭、「織豊系城郭」の原型であったことが明らかとなっている。

以下は主郭地区において発掘調査で得られた主な成果を、時系列で整理したものである。
【2004年度(平成16年度)】
永禄期(1558年~1570年)に築かれたかなりの規模の石垣を確認し、大手道の下層の調査では、大手道に沿って山側に石積が発見。
【2005年度(平成17年度)】
自然石の野面積みで築かれた石垣が部分的に2段程度残存していたこと、これまでに確認されていた永禄期の大手道がさらに西側に続くことが判明。
【2010年度(平成22年度)】
主郭をめぐる石垣の一部が築城時の状態で保存されていることを確認、「佐久間」という墨書のある石垣石材(以下、「墨書石垣石材」という)が出土。
【2014年度(平成26年度)】
3段目の石垣を確認し、その石垣は構築状況や小ぶりで搬入され石材の存在などから「腰巻石垣」である可能性が推定。
【2016年度(平成28年度)】
大手道で岩盤を人工的に加工して石垣と組み合わせた壁面を確認。
地層の状況から
【2018年度(平成30年度)】
玉石敷と排水用の側溝を持つ礎石建物と建物付近からは目茶碗、青磁の小碗などが出土した礎石建物の計2棟の建物の一部を確認。
【2019年度(令和元年度)】
大手道で人工的に切り立てた岩盤と石垣を組み合わせた壁面を確認。
【2020年度(令和2年度)の第13 次発掘調査】
石垣の検出に加えて、玉石が敷かれた遺構(「玉石敷遺構」)とその範囲内に立石の可能性のある石材を確認。
【2021年度(令和3年度)】
大手道で2段の石垣と人工的に切り立てた岩盤で構成される壁面を確認。




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以上のように、小牧山城ではこれまでの主郭部の発掘調査で、三重に取り巻く石垣や墨書石垣石材、屈曲を繰り返す大手道、2棟の礎石建物の一部、庭園に伴う玉石敷遺構などが確認されている。
それらのうち、墨書石垣石材は日本最古の石垣墨書であり、刻まれている「佐久間」という文字から、織田信長の重臣・佐久間信盛(のぶもり)らの佐久間一族が主郭斜面の石垣の構築に関わっていたことを示す貴重な資料である。
2棟の礎石建物については、その付近から天目茶碗、青磁(せいじ)の小碗などが出土しており、小牧山城の山頂に織田信長が居住した館が存在した可能性を示唆するものである。
玉石敷遺構については、立石の可能性のある石材から「枯山水」のような庭園に伴う遺構と推定されている。
1567年(永禄10年)、連歌師の里村紹把(さとむらしょうは)が京都と駿河を往還した際に記した紀行文『富士見道記』には、小牧山城の新しい庭の完成を祝う連歌の会の発句をつとめたという記述があり、玉石敷遺構との関連性が指摘されている。
小牧山城には織田信長の城づくりの考え方が随所にみられ、その建築思想や技術はのちの岐阜城や安土城(滋賀県近江八幡市)の築城に大きな影響を与えたものと考えられる。

なお、織田信長は1563年(永禄6年)に小牧山城を築くと同時に、城の南側に城下町も整備しており、城下町の発掘調査もおこなわれている。
その城下町は1567年(永禄10)年に織田信長が岐阜城に移ると、家臣団や商工業者も移ったため城下町は廃れたが、一部の住人はこの地に残り、小規模な町場は存続した。

小牧・長久手の戦いの陣城

小牧山城は1567年(永禄10年)、織田信の長が岐阜城に居城を移したことで、廃城となったが、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康が土塁や堀などを改修して堅固な陣城とした。
小牧・長久手の戦いは、1582年(天正10年)6月に織田信長が明智光秀によって討たれた本能寺の変後、徳川家康・織田信雄(のぶかつ)と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)との間で尾張国(愛知県西部)を舞台におこなわれた持久戦である。

本能寺の変の際、徳川家康は数少ない家臣とともに堺を遊覧中で極めて危険な状態であり、一時は自害も覚悟したという。
しかし、本多忠勝らの重臣に説得され、服部半蔵らの案内で伊賀国(三重県西部)の険しい山道を越え、伊勢国長太(なご・三重県鈴鹿市)から海路で三河国岡崎城(愛知県岡崎市)へ帰還した(神君伊賀越え)。
その後、徳川家康は甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)・上野国(群馬県)の混乱に乗じて北条氏とも同盟を結び、これまでの駿河国・遠江国(静岡県)、三河国(愛知県東部)に甲斐国、信濃国を加えた5か国を領する大大名へと成長した。

一方、織田信長を失った織田政権では、羽柴秀吉が織田信長の嫡孫・三法師(さんぽうし・のちの織田秀信)を推戴し、1583年(天正11年)に柴田勝家を賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで破り、織田信長の3男・織田信孝(のぶたか)を自害させ、織田信長の後継者としての地位を固めつつあった。
こうした羽柴秀吉に対抗するため、織田信長の次男・織田信雄は徳川家康を頼り、これに応じた徳川家康は1584年(天正12年)3月、約1万5千の兵を率いて清州城に入り織田信雄と合流した。
羽柴秀吉は約10万の兵で尾張に侵攻し、池田恒興が犬山城(愛知県犬山市)を占拠すると、織田信雄・徳川家康連合軍(以下、「織田・徳川軍」という)は直ちに小牧山を占領し、織田信長が築いた旧城を改修して堅固な本陣を構えた。
2015年度(平成27 年度)の小牧山城の発掘調査では、主郭南斜面の調査区で石垣を築いた面を覆うように土を盛って造成した痕跡が確認され、小牧・長久手の戦い時に徳川家康方が陣城として使用する際の改修によるものではないかと推定されている。

織田・徳川軍と羽柴秀吉軍(以下、「羽柴軍」という)との戦いは、徳川軍が羽黒に陣をしいていた秀吉軍の森長可(ながよし)らを破るなど、二度の小競り合いがあっただけで両軍の主力がぶつかることなく時が経過した(小牧の戦い)。
1584年(天正12年)4月になると、羽柴軍は羽柴秀次(ひでつぐ・羽柴秀吉の甥)を大将として、徳川家康の本拠・岡崎城(愛知県岡崎市)を奇襲する作戦を実行した。
このことを地元民からの通報で知った徳川軍は、羽柴秀次軍を追撃して長久手において、池田恒興・森長可をはじめ2,500人を討ち取り、徳川軍の完勝に終わった(長久手の戦い)。

その後、織田・徳川軍と羽柴軍との間で大きな戦闘はなく持久戦が続いたが、同年5月1日に豊臣軍が、また徳川軍も7月中旬に撤退した。
同年11月には、羽柴秀吉と織田信雄とが単独講和を結び、次いで徳川家康と羽柴秀吉も和解して8ヶ月にわたる小牧・長久手の戦いは終わった。
小牧・長久手の戦いでは、小牧山城が徳川家康の陣城となったほか、小牧周辺には多くの砦(とりで)が徳川軍・羽柴軍によって築かれている。

その後の小牧山城

江戸時代になると、小牧山は尾張藩領となり、徳川家康ゆかりの地として一般庶民の入山が禁止され、尾張徳川家が保護・管理した。
明治時代には、1873年(明治6年)に「県立小牧公園」として一般公開されるが、1889年(明治22)に再び小牧山が徳川家の所有となったため一般公開が停止された。
昭和に入った1927年(昭和2年)10月26日、小牧山は国の史跡に指定され、1930年(昭和5年)には徳川家から小牧町(現・小牧市)に寄付されたが、太平洋戦争期(1941年~1945年)には軍の施設が置かれ、関係者以外の入山は禁止となった。

戦後になると、1947年(昭和22年)に小牧山東側の麓(ふもと)に小牧中学校が建設され、1968年(昭和43年)4月、山頂に「小牧市歴史館」が開館した。
小牧中学校が1998年(平成10年)に史跡外へ移転すると、2003年(平成15年)に その跡地を史跡公園として整備して開放した。
翌 2004年(平成16年)から4か年かけて主郭地区で試掘調査がおこなわれ、その結果を受けて2008年(平成20年)から現在に至るまで発掘調査が継続しておこなわれ、前述したように貴重な成果をあげている。
その間、2019年(平成31年)には山麓に「小牧山城史跡情報館(れきしるこまき)」が開館している。

今後も小牧山城や城下町の発掘調査がおこなわれ、その貴重な成果をふまえて小牧山城の往時の姿がより復元・整備されることを期待する。




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<主な参考文献>
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社
史跡小牧山の歴史 | れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)
主郭地区の発掘調査|小牧市

(寄稿)勝武@相模

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