【徳川家康と城】徳川家康の居城「駿府城」の特徴を探究する~発掘調査で判明した城郭史上最大級の天守台~

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概要

静岡県静岡市の中心街にある駿府城は、徳川家康が二度、居城とした名城である。一度目は1586年(天正14年)から1590年(天正18年)まで、二度目は1607年(慶長12)から1616年(元和2年)に徳川家康が没するまでである。
それに伴い、徳川家康は1585年(天正13年)11月から(以下、天正期という)と、1607(慶長12年)年2月から(以下、慶長期という)の二度にわたって駿府城を築城した。

駿府城の構造は三重の堀をもつ輪郭式で、中心部に本丸が設けられ、その外側に二ノ丸、さらにその外側に三ノ丸が同心円状にめぐる。
往時には本丸御殿や櫓(やぐら)、門、五重七階、あるいは六重七階と伝えられる天守が威容を誇った。
現在、駿河城は本丸・二ノ丸の跡地が「駿府城公園」として整備され公開されている。




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駿府城跡では2016年(平成28年)8月から2020年(令和2年)3月にかけて本丸・天守台の発掘調査が行われた。
発掘調査によって天正期と慶長期に築かれた天守台の石垣などが検出され、慶長期天守台は城郭史上最大級の規模であることなどが判明した。

本稿では、駿府城本丸・天守台跡の発掘調査の成果をふまえ、駿府城の特徴について探究する。

本丸・天守台跡の発掘調査

徳川家康没後400年にあたる2015年(平成27年)、静岡市、浜松市、岡崎市、静岡県などが連携して「徳川家康公顕彰四百年記念事業」を実施した。
この事業を通して、徳川家康が築城した駿府城、その中でも天守・天守台の再現への関心が高まったという。
このことを受けて、2015年度(平成27年度)策定の『第3次静岡市総合計画』には「天守閣再建を目指した天守台の整備検討」が盛り込まれた。
そこで、静岡市はその整備方針を決定する際の基礎資料を得るために、天守台の正確な位置や規模、石垣の残存状況などを確認するために、本丸・天守台跡の発掘調査を実施したのである。
発掘調査は2016年(平成28年)8月から2020年(令和2年)3月にかけて行われたが、その間、調査主体の静岡市は発掘調査の「見える化」に取り組んでいる。
具体的には、発掘調査の現場を常時公開し、訪問者が自由に散策・見学できる「見学ゾーン」を設け、発掘作業の様子や検出された石垣の状況などを観察できるようにした。
また、「発掘情報館きゃっしる」を併設し、駿府城や天守台、発掘調査に関する資料を展示している。

発掘調査の結果、「今川期(中世)」、「天正期(戦国時代末期)」、「慶長期~幕末期(江戸時代)」、「明治時代以降(近代)」の4時期の遺構と遺物が確認されている。
そのうち「天正期(戦国時代末期)」及び「慶長期~幕末期(江戸時代)」の発掘調査成果の概要は以下のとおりである。
【天正期(戦国時代末期)】
天守台の規模は検出面で東西約33.6m、南北約37.5mを測り、築城当時(1589年)の全国の城郭と比べて大規模な天守台であったことが明らかとなった。
小天守台も検出されており、それは『家忠日記』の「小傳(天)主てったい普請当候」という記載を裏付けるものである。
また、天守台は慶長期天守台と同様に本丸の北西隅に築かれており、慶長期天守台を築く際に破壊されていることが判明した。




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遺物は石垣背面の裏込め石の中や整地された土層から、中国産磁器(じき)や瀬戸産大窯(おおがま)製品、常滑(とこなめ)産甕(かめ)、かわらけ、などが出土している。
これらの遺物の大半は16世紀後半のもので、1587年(天正15年)から駿府城の築城は開始されたとする『家忠日記』の記述と矛盾しないことが確認されている。
大量に出土した瓦には、金箔(きんぱく)を施した瓦(以下、金箔瓦という)も多数含まれており、その種類は軒丸(のき)瓦や軒平(のきひら)瓦、鯱(しゃち)瓦、鬼瓦などである。
金箔瓦の大半は、瓦が集中して出土した天正期天守台の南側や本丸西面の石垣外側で出土している。
金箔瓦以外の瓦は軒丸瓦、軒平瓦、鬼瓦、丸瓦、平瓦、棟瓦など多彩である。

【慶長期~幕末期(江戸時代)】
発掘調査によって慶長期天守台をはじめ、小天守台、天守台下御門及び木橋、本丸堀、二ノ丸石垣などが確認された。
天守台は東西約59.5m、南北約66.5mを測り、南北に長い長方形を呈している。
その規模は『駿府城御本丸御天守台跡之図』(以下、『天守台跡之図』という)に記されている東西30間2尺7寸(59.9m)、南北33間4尺(66.2m)とほぼ一致する。
小天守台は天守台の南側で検出されており、その位置は『天守台跡之図』に記載された場所と同じである。
天守台の東側に隣接する天守台下御門では、本丸堀に面した石垣と枡形内部の石塁の石垣が検出された。
石垣や築石には刻印や朱書がみられるものがあり、天守台石垣、本丸北面・西面石垣、二ノ丸石垣で刻印46箇所、朱書5箇所が確認されている。

また、天守台及び二ノ丸の石垣の特徴から、天守台は慶長期(1607年)に築かれて以降、宝永地震(1707年)後及び安政地震(1854年)後に改修されていることも明らかとなった。
特に、慶長期については、天守台石垣の特徴や新旧関係から、2つの時期(「慶長Ⅰ期」・「慶長Ⅱ期」)に分かれることが考えられている。
1607(慶長12年)年8月に天守台及びその周辺の石垣の築造は完了したが、その後、1607(慶長12年)年12月、本丸が火災を受けた(『当代記』)。
この火災で天守台の設計が変更され、完成した天守台を取り壊し、天守台東・南面石垣、小天守台石垣、天守台下御門北面の石垣を増築するなどして、『天守台跡之図』に記載されている天守台が完成した、というものである。

遺物については、瓦のほか、数は少ないが国産陶磁器、かわらけなどが出土している。
瓦は軒丸瓦、軒平瓦が出土しているが、その時期は江戸時代前期・中期・後期に分けられるという。
陶磁器は17世紀初期の瀬戸産の天目茶碗や唐津産の碗、18世紀代の瀬戸産・常滑産製品、19世紀前半の肥前産染付碗などが出土している。

以上、駿府城本丸・天守台の「天正期(戦国時代末期)」及び「慶長期~幕末期(江戸時代)」の発掘調査成果の概要についてまとめてみた。
ちなみに「明治時代以降(近代)」の遺構としては、小穴10基、石積みやモルタル造りの貯水槽が確認されている。
遺物は、陸軍の軍隊食器や弾丸、瓦、陶磁器、薬瓶、試験管、陸軍のバッチ、海軍制服のボタンなどが出土している。
これらの遺構や遺物は、陸軍歩兵第三十四連隊の兵営時代か第二次世界大戦が始まって間もない時期のものであると考えられている。
なお、「今川期(中世)」の発掘調査成果については、下記のサイトを参照いただきたい。

戦国大名・今川氏の居館「今川館」を探究する~徳川家康が築いた「駿府城」跡の発掘調査成果を中心に~

天守台からみる駿府城の特徴

駿府城本丸・天守台跡の発掘調査により、駿府城の性格や特徴をより深く理解する上で、多くの貴重な情報が得られている。
天正期天守台は、その東側に渡櫓台と小天守台が接続する連結式の構造であることが判明した。
その天守台の規模は東西約33.6m、南北約37.5mと、当時の豊臣政権下で築城された大坂城(大阪府大阪市)、岡山城(岡山県岡山市)、会津若松城(福島県会津若松市)などの城郭の天守台と同じく大規模なものである。

慶長期天守台は、新旧2時期の石垣が確認され、本丸の火災(1607年12月)をきっかけに短い期間で改築されたことが明らかとなった。
天守台の規模は東西約59.5m、南北約66.5mと日本城郭史上最大級の規模であり、当初は五重七階、あるいは六重七階の天守が建っていたと伝わる。
ただし、天守は1635年(寛永12年)、城下から出火した火災によって焼失し、その後は再建されなかった。

遺物は、天正期天守台から金箔瓦が大量に出土しているが、このことは天正期の駿府城の性格を考える上で大変重要である。
豊臣政権の城郭政策として、金箔瓦の使用を豊臣一門や関東の徳川家康領国に接する主要な城郭などに制限した、という説が一般的であった。
それが、天正期天守台から大量の金箔瓦が出土したことで、徳川家康による駿府城の築城を豊臣秀吉の城郭政策と関連付けて考える必要がある。




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このことについて、天正期の駿府城は徳川家康が築城したが、豊臣政権の城郭政策の一環として築かれたとする仮説が出されている。
豊臣秀吉は関東・東北平定を進めるために、豊臣政権下の実力者である徳川家康にふさわしい巨大な天守台と金箔瓦が葺かれた天守を築かせた、というものである。
その後、駿府城は豊臣秀吉の重臣・中村一氏の居城となったこと、徳川家康が天正期天守台を破壊して同じ場所に慶長期天守台を築いたことも、この仮説を裏付けているという。

以上のように、駿府城本丸・天守台跡の発掘調査によって駿府城の築城背景や特徴などが解明されつつある。
今後、発掘調査の成果を文献史料や絵図類などと照合しながら検討を重ねることで、往時の駿府城の姿が蘇ってくるであろう。

なお、発掘調査後の保存整備については、慶長期天守台石垣の下から天正期天守台石垣が重なるように検出され、さらにその下からは今川氏の館の痕跡も検出されていることから、保存整備の方針が立たないという。
保存整備にあたっては、天守台や天守の再建を志向するではなく、発掘調査の様子を常時公開してきたことをふまえ、発掘調査終了時の現状を見学できるような工夫を期待したい。




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<主な参考文献>
静岡市教育委員会 2022年『静岡市埋蔵文化財調査報告 駿府城本丸・天守台跡』
武井 政弘・高田 哲哉 2017年『城郭からみた豊臣秀吉の権力』
中井 均・加藤 埋文 2020年『東海の名城を歩く 静岡編』吉川弘文館
西ヶ谷 恭 1999年『国別 戦国大名城郭事典』東京堂出版
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社

(寄稿)勝武@相模

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