【どうする家康】徳川家康と城郭(概要編)~居城の変遷を探究する

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徳川家康の略歴

2023年(令和5年)1月9日から放映が始まったNHK大河ドラマ『どうする家康』では、松本潤が演じる徳川家康の生涯がタ-ニングポイントで、どのような選択をしたかという視点から描かれる。
徳川家康は1543年(天文11年)に三河国(愛知県)の小大名である松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男として岡崎城(愛知県岡崎市)で生まれた。
幼少期から青年期にかけては尾張国(愛知県)の大名・織田氏、駿河国(静岡県)の大名・今川氏のもとで不自由な人質生活を送り苦労した。

1560年(永禄3年)、桶狭間(おけはざま)の戦いで今川氏が没落して以降は、織田信長と同盟して三河国に加えて遠江 (とおとうみ)国(静岡県)に領国を拡大し、1585年(天正13年)には武田氏の滅亡により駿河国も領有することになった。
1582年(天正10年)、本能寺の変で織田信長が没すると甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)を手に入れ、三河国・遠江国・駿河国を加えて5ヶ国を領する大大名となった。




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その後、織田信長没後に勢力を拡大した豊臣秀吉に臣従し、1590年(天正18年)の小田原合戦で後北条氏が滅ぶと、豊臣秀吉の命で後北条氏旧領の関東に移封された。
豊臣秀吉の没後は1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍に勝利し、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開いた。
1605年(慶長10年)、徳川家康は就任2年で将軍職を3男・徳川秀忠に譲り駿府(静岡市)に隠居するが大御所として実権を握り続け、1615年(慶長20年)、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、以後264年間続く江戸幕府の基礎を固めたのである。

徳川家康の居城は勢力の拡大や周辺の戦国大名との関係、そして立場の変化などを契機に次のような変遷を遂げた。
すなわち、徳川家康は岡崎城から1570年(元亀元年)に浜松城(静岡県浜松市)、1586年(天正14年)に駿府城(静岡県静岡市)、1590年(天正18年)に江戸城(東京都千代田区)に居城を移し1607年(慶長12年)には再び駿府城に移り1616年(元和2年)にそこで没した。

各居城の概要

本項では徳川家康が居城とした各城郭の歴史や特徴、現状などの概略について整理する。

【岡崎城】
岡崎城は1455年(康正元年)、三河国守護代・西郷氏が、矢作(やはぎ)川と菅生(すがう)川とが合流する地点の丘陵上に築いたと伝わる。
1524年(大永4年)に徳川家康の祖父に当たる松平清康(きよやす)が入城して松平氏の本拠となり、徳川家康は1543年(天文11年)に城内で誕生した。
徳川家康が今川義元の下で人質生活を送っていた時期は、今川氏から城代が派遣されたが、桶狭間の戦い(1560年)後は徳川家康が復帰し、1570(元亀元年)に浜松城に移るまで居城とした。

徳川家康が浜松城に移ると、岡崎城は嫡男・徳川信康が城主となったが、1579年(天正7年)に徳川信康が自刃した後は、重臣の石川数正(かずまさ)、次いで本多重次(しげつぐ)が城代を務めた。
1590年(天正18年)、徳川家康が関東に移されると、豊臣秀吉の家臣・田中吉政が城主となるが、関ヶ原戦い(1600年)以降は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏、水野氏、松平氏など家格の譜代大名が城主を務めた。

現在、岡崎城には1617年(元和3年)に完成した複合連結式の天守を参考に、1959年(昭和34年)、復興天守が建てられ内部は歴史資料館として公開されている。
交通アクセスは愛知環状鉄道「中岡崎駅」より徒歩約15分、または名鉄東岡崎駅・JR岡崎駅よりバス「康生町方面行き」に乗車、「康生町」で下車して徒歩約5分である。

【浜松城】
浜松城は三方ヶ原台地の東南端に位置し、中世の曳馬(ひくま)城を取り込んで、1570年(元亀3年)、徳川家康が築城に着手した。
徳川家康は三河国の統一を果たすと、甲斐国(山梨県)の武田信玄との間に今川領分割の協定を結び、1569年(永禄12年)に今川氏真(うじざね)が在城していた掛川城(静岡県掛川市)を攻略し、遠江国(静岡県)を支配下に置いたことで、居城を浜松城へ移したのである。
浜松城は1582年(天正10年)ごろまで修築・増築工事が行われており、徳川家康は1586年(天正14年)に駿府城に移るまで在城した。
この間、1572年(元亀3年)12月には、浜松城に迫る武田軍を、織田信長からの援軍とともに三方ヶ原で迎え撃つが大敗し、徳川家康は命からがら浜松城に逃げ帰っている。

関ヶ原の戦い(1600年)後は徳川家とゆかりの濃い譜代大名が城主を務め、江戸幕府の老中などの要職に登用される者も多く、「出世城」と呼ばれた。
明治維新後は荒廃したが、1958年(昭和33年)、野面積(のづらづ)みの旧天守台の上に復興天守が建てられ、郷土博物館として利用されている。
交通アクセスはJR浜松駅、遠州鉄道線新浜松駅より徒歩約20分である。

【駿府城】
駿府城は1585年(天正13年)、武田氏滅亡により駿河国を領有することになった徳川家康が浜松城に次ぐ居城として築城に着手し、1589年(天正17年)には現在の二ノ丸内に本丸御殿が完成した。
翌1590年(天正18年)、徳川家康は後北条氏の滅亡を受けて関東に移り、駿府城には豊臣秀吉の家臣・中村一氏(かずうじ)が入城し、関ヶ原の戦い(1600年)後は内藤信成(のぶなり)が城主となった。
1607年(慶長12年)、徳川家康は将軍職を徳川秀忠に譲って駿府に隠居するが、「大御所」として実権を維持し続けた。
「大御所政治」の拠点として、駿府城は諸大名に命じて大規模な改築が行われ(「天下普請」)、名古屋城(愛知県名古屋市)とともに東海道における最大拠点となった。
完成した駿府城は3重の堀を持つ輪郭(りんかく)式平城で、天守台は、石垣上端で約55m×約48mを測る城郭史上最大級の規模であったという。

現在、駿府城の跡地は、二ノ丸・本丸が「駿府城公園」として市民に開放されており、東御門や巽櫓(たつみやぐら)などが復元・公開されている。
また、天守台の発掘調査が2016年(平成28年)8月から行われ、その情報は発掘調査現場に併設されている「見学ゾーン」と「発掘情報館きゃっしる」で公開されている。
交通アクセスはJR静岡駅から徒歩約15分、静岡鉄道新静岡駅から徒歩約12分である。

【江戸城】
江戸城は1457年(長禄元年)、麹町(こうじまち)台地の東端に扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の重臣・太田道灌(どうかん)が築いた平山城が前身である。
1590年(天正18年)、関東に移された徳川家康が江戸城に入ると増築が行われたが、それは徳川氏の居城としてのものであった。
1603年(慶長8年)、江戸幕府の開幕以降はその中枢として「天下普請」による大規模な拡張や修築が行われ、本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲約16kmにおよぶ区画を本城とし、外堀と駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。

明治維新(1868年)以降は、吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっており、その東側にある江戸城の中心部であった天守台・本丸・二ノ丸・三ノ丸の跡一帯は皇居東御苑(ごえん)として、また、南東側の皇居外苑(がいえん)と北側の北の丸公園が開放されている。
皇居東御苑への交通アクセスはJR線・地下鉄の東京駅及び地下鉄の大手町駅から徒歩約5分である。

徳川家康の居城の変遷

以上のように、徳川家康は岡崎城から浜松城、駿府城、江戸城、そして再び駿府城へと居城を移している。
徳川家康が居城を移した背景には、徳川家康の勢力の拡大や、隣国の戦国大名との関係、立場の変化などが考えられる。
徳川家康が生まれ、人質の時期を除いて青年期を過ごした岡崎城から浜松城への移動は、今川氏の没落により三河国に加えて遠江国も領国となったことと、境を接する武田氏への対応がある。
浜松城から駿府城への移動についても武田氏が滅亡し、駿河国が領国に加わったことがある。
駿府城から江戸城への移動は、豊臣秀吉の命によって後北条氏の旧領である関東に移封されたことがある。
そして、江戸城から駿府城への移動は、徳川秀忠に将軍職を譲った徳川家康が「大御所」として政治権力を維持する上で、江戸と大坂・京都の途中にある駿府城が最適であったことが考えられる。




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<主な参考文献>
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第5巻 埼玉・東京』新人物往来社
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社

(寄稿)勝武@相模

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