天下人・徳川家康の前に立ちはだかった「小さな大怪物」真田昌幸と信州真田氏

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 2023年6月中旬、NHKから大河ドラマ『どうする家康』の第10弾の新キャストが発表されました。そのキャスト群を覗いてみると、尾張織田氏の織田信雄・池田恒興・丹羽長秀など織田信長死後に活動を顕わにする人物に加え、小田原北条氏の北条氏政・氏直父子といった関東の雄将たちも発表されましたが、その中でも一番注目されたのが、松本潤さん演じる主人公・徳川家康を晩年に至るまで苦しめた信濃国の国衆・真田一族の登場でした。
 その信州真田一族の新キャストの中で一番脚光を浴びたのが、大御所・佐藤浩市さん演じる『表裏比興の者』と評された真田昌幸でした。(どうする家康公式Twitterの真田昌幸役の発表のいいねとリツイートは、同日発表された新キャストより圧倒的な反応があります)




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 どうする家康の公式HPの佐藤浩市さん演じる真田昌幸のトピックスはズバリ『戦国乱世、最後の怪物』。そして昌幸紹介文は、『小国ながらも徳川始め列強を手玉に取り、生き残りを図る反骨不屈の男。』とも記述されています。
 駿河台大学教授・黒田基樹先生は、著書『国衆 戦国時代のもう一つの主役』(平凡社新書)において、(上掲の大河ドラマの評価と同様)、真田昌幸を『戦国大名を翻弄する国衆』として評されていますが、その昌幸の異才ぶり・真田家サバイバル戦略が最大限に発揮されたのが、天下の覇者・織田信長が本能寺の変で横死直後に勃発した「天正壬午の乱」(1582年)でした。

 長らく甲斐武田氏の旧領であり、同氏滅亡後は尾張織田氏の領域となっていた甲斐・信濃2ヶ国が本能寺の変後に一種の無政府状態となり、東海の徳川家康、南関東の北条氏政、日本海の上杉景勝など3つの有力戦国大名が甲信争奪戦に邁進していました。中でも、甲信地方南方に割拠する徳川・小田原北条の両氏がこの争奪戦に、並々ならぬ攻勢を示していました。
 徳川・小田原北条・越後上杉の強豪勢が、甲信の地を巡って三者鼎立している状況下で、巧妙な駆け引き・外交謀略で立ち回って生き残ったばかりでなく、後世まで名将/戦上手、遂には『表裏比興の者』という栄え?ある有名ぶりを轟かせた真田昌幸という小なる国衆領主は、正しく「小さな大怪物」というべき存在と言えるでしょう。

 真田昌幸が、信州真田家の勇名を天下に馳せるほどの外政力や軍才において大怪物ぶりを発揮することができた所以は、昌幸の実父の「真田幸綱(以前は真田幸隆の名で知られる)」の尽力、真田氏を傘下に治めていた戦国大名・武田信玄との接触があったからであります。
 信濃国の小県郡真田荘(現在の長野県上田市北西部)という山間の小さな村落を本貫地とする村落領主に過ぎなかった真田幸綱は、坂城郡の村上義清・諏訪大社の大祝家の諏訪頼重、甲斐国の戦国大名・武田信虎ら連合軍との戦い(1541年 海野平の戦い)で敗れ、本領を失い、上野国の名将・長野業政の下にて寓居していましたが、後に甲斐の武田信玄(当時は晴信。信虎の嫡男。)の配下国衆『信濃先方衆』として復帰を果たし、仇敵である坂城郡の村上義清との対峙するようになります。
 真田幸綱は甲斐の武田信玄傘下国衆として復帰した後は、信濃砥石城攻略戦など対村上義清戦線、次いで対越後上杉氏(長尾景虎こと上杉謙信)との対峙、晩年には西上野国の経略で功績を重ね、甲斐武田氏にとっては外様衆でありながら準譜代重臣として重用され、真田氏知行も、本領である真田荘・隣国の上野国の吾妻郡にも及ぶ有力国衆(先方衆)として成長しました。
 幸綱嫡男であり信州真田氏の当主となる真田信綱、次男・真田昌輝も父に劣らぬ活躍をし、甲斐武田氏家中において、有力武将として重用されています。長男・信綱は剛勇無双の名将として戦場で活躍し、次男の昌輝は、実弟の昌幸と同様、武田信玄をして「我が両目の如し」と言わしめたほどの智勇兼備の武士でした。
 武田信玄を筆頭に戦国最強の甲斐武田氏の有力武将が描かれた江戸期の絵画、有名な「武田二十四将図」があります。信玄の実弟・武田信繁馬場信春山県昌景など武田四天王といった現代でもその勇名さを遺す数多の武田の名将たちが描かれている中、真田幸綱・信綱・昌輝、そして真田昌幸(武藤喜兵衛)というように、信州真田一族に至っては、複数の武将が描かれています。
 真田昌幸の次男・真田幸村こと真田信繁が、大坂の陣にて後世まで語り継がれる大活躍したので、江戸期には信州真田氏の武勇が高まったことにより、上記の武田二十四将図でも、真田幸綱父子が描かれた理由もあると思うのですが、それでも信州真田氏一族の存在は、甲斐武田氏とって大きな勢力であったからこそ、二十四将の中に含まれたのだと思います。
 実父、実兄たちが甲斐武田氏と信州真田氏の勢力拡大のために身命を賭けていた中、1553年(天文22年)、少年期の真田昌幸(当時は真田源五郎、当時7歳)は、忠誠の証として武田氏の本拠地・甲斐(甲府)に出仕することになります。即ち、当時国衆が忠誠の証として戦国大名に差し出す「人質」であります。
 国衆から戦国大名の下へ差し出される人質についての詳細は、以前の記事で紹介させて頂いたので、今記事では割愛しますが、戦国最強武将と謳われる武田信玄の「秘書役(奥近習)=人質」として側近くに出仕し、信玄が創設した非凡なる内政・軍略・諜報活動などを直に学ぶという貴重な少年期を送った真田源五郎こと、後の真田昌幸にとっては何事にも代えがたい人質生活となりました。人質生活、と書けば何やら物騒な感じがしますが、現代感覚で言えば、「留学」と言ってもいいのではないでしょうか。
 
 『信玄に多くの部将がいたが、衣鉢を継いだと評価できる者は、この昌幸だったかもしれない』

 というように、司馬遼太郎先生は『街道をゆく9 信州佐久平のみち』で書いておられますが、後年、上田合戦にて天下の徳川軍を2度も撃退した真田昌幸の芸術的な作戦能力を鑑みれば、昌幸が少年期から武田信玄の奥近習として出仕して、直に名将・信玄に接し、その軍学や民政思想を自然と身に付けていったかもしれません。




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 真田昌幸の「人質期・信玄近習期(甲府留学)」の詳細を伝える史料は遺っていませんが、後の昌幸の芸術的とも言える天才的な戦術能力などを鑑みると、武田信玄以来、戦国最強と称された甲斐武田氏の本拠地・甲府での人質生活が、大いなる糧となっていることは容易に察しが付きます。
 因みに、後に真田昌幸の天敵となる徳川家康、織田信長・豊臣秀吉にその才幹を愛された文武両道の蒲生氏郷、この両者も少年期には先進国にて人質生活=留学生活を経験した国衆出身の子息たちであります。
 真田昌幸(源五郎)を近臣として召し抱えた武田信玄でも、昌幸の才気ぶりを愛する一方、甲斐武田氏の親族にして無嗣となっていた「武藤家(信玄の実母・大井氏の支族)」を昌幸に継がしめ、武藤喜兵衛昌幸と名乗らせました。
 NHK大河ドラマ『真田丸』で知名度が高まった真田昌幸の実弟・真田信尹(真田幸綱四男、幼名:源次郎)も、昌幸と同様、少年期より甲斐武田氏の人質として甲府で生活していましたが、この信尹少年も主君・武田信玄の命令により、甲斐の名門・加津野家(鹿角家とも)を継承し、元服後から武田氏滅亡まで加津野信昌と名乗っています。
 真田昌幸・真田信尹のように国衆本家の家督相続権が無い、いわゆる部屋住み身分の国衆の子弟たちは、臣従する戦国大名に人質として差し出される例が多くありますが、それらを受け入れる武田信玄(戦国大名側)も彼らを優遇した上、絶家あるいは家督後継者が無い大名家一門や譜代家老などに養子として送り込み、大名家家中の一員として登用することで、大名家の力、国衆との主従関係は更に強固になっていったのです。
 事実、後の真田昌幸こと武藤喜兵衛も、信州国衆真田氏の一門衆という立場ではなく、戦国大名・甲斐武田氏の準一門衆かつ譜代家臣として遇され続けます。1575年(天正3年)の長篠設楽原の戦いで、昌幸の長兄にして当時既に真田氏当主であった真田信綱・次兄の真田昌輝が敗死後、昌幸は国衆・真田氏当主となり真田姓に復しますが、以前と変わらず甲斐武田氏の準一門衆・譜代重臣とされ、亡き父兄が担当していた東信濃・西上野方面の郡代(軍司令官)を受け継いでいます。
 真田昌幸の父にして、戦国期国衆・真田氏を興した真田幸綱、その嫡男・真田信綱らは、甲斐武田氏に臣従し、同勢力拡大に貢献して最終的には、武田氏の準譜代家臣兼地方軍司令官となり、所領も1万5千貫を越えるほどの有力国衆まで成長させましたが、武田氏家中での幸綱・信綱父子の待遇は、飽くまでも北信濃先方衆の旗頭的存在(外様衆の代表者)のみであり、その反面、少年期から人質として甲斐武田氏で育った昌幸は、父や兄とは違い、真田氏の主筋である甲斐武田氏の準一門兼譜代重臣である武藤氏の当主として、父兄より厚遇されていました。

『真田氏の栄光は、昌幸によって樹立されたといっていい。』(「街道をゆく9 信州佐久平のみち」)

 前掲の司馬遼太郎先生は書いておられますが、それに僭越ながら筆者が自説を付け加えさせて頂くと、父兄が築き上げた信州真田氏の礎、甲斐武田氏での人質生活期があったからこそ智将、天下比興の者の真田昌幸は、真田氏の栄光、最盛期を樹立できたと思えるのです。

 1575年(天正3年)長篠設楽原合戦にて、実家の信州真田氏当主・真田信綱・真田昌輝兄弟が相次いで戦死したために、真田氏の当主となった真田昌幸は、甲斐武田氏の譜代重臣待遇を持ちながらも、亡き父兄の担当であった北信濃先方衆の代表格・西上野経略に従事しつつ、武田氏の本拠地である甲府にも定期的に出仕するという多忙な武士生活を約8年間送るようになります。
 真田昌幸が、国衆・信州真田氏本家の当主となった1575年以降の7年間は、真田氏の保護者(武家の棟梁)たる戦国大名・甲斐武田氏の最晩年というべき時期で、畿内では織田信長の勢力伸長が著しく、当時その傘下勢力というべき三河・遠江2ヶ国の徳川家康も南方から武田氏領国を圧迫していました。
 上記のように西方の織田信長・南方の徳川家康の2勢力に圧迫を受け、甲斐武田氏は西部と南部戦線で苦境に立たされる中、先述のように、亡き父兄の事業、北関東の「上野国経略」を継承した真田昌幸は、優れた政・戦略の両能力を大いに活かして、越後上杉氏勢力の内訌(御館の乱や新発田重家の反乱)という政治的情勢もあり、名胡桃城沼田城といった上野国の重要拠点の制圧し、武田氏の北関東支配圏の拡大に成功しています。
 この当時の甲斐武田氏にとって、西部・南部への勢力拡大が頭打ち、あるいは減退する中、北関東郡代として、武田氏譜代重臣格の名将・真田昌幸が存在してくれていたことは、大いに頼もしいものであったに違いないですが、昌幸当人からしても、名門の甲斐武田氏の力を背景にして己の才覚を活かし、強敵が存在しない上野国の攻略に成功したという功績は、武田氏滅亡した後も真田昌幸が、東信・西上野の両国で有力国衆として自存できた大きな要因となっていると思います。
 甲斐武田氏滅亡直後から真田昌幸は、本貫地である小県郡、支配担当であった西上野の岩櫃・名胡桃・沼田などの小規模の武士団(土豪や地侍)に対して、素早く所領安堵状を発給して、真田氏麾下への取り込みを行っています。
 即ち、それまで飽くまでも名門戦国大名・甲斐武田氏の傘下であった信濃小県郡・西上野の武士団は、同氏滅亡後は、信州の有力国衆・真田氏への配下へと転身されていったのです。
 本来、中小の武士団および在地領主たちの領地安堵、傘下組み込みは、真田昌幸の上司であった甲斐武田氏や越後上杉氏、小田原北条氏のような武威が高い戦国大名の役割であり、いくら主筋の武田氏から西上野国の経略担当(郡代)を一任されていた身分とは言え、同氏滅亡前後に、真田昌幸が安堵状を出して、地元の在地領主らを真田氏の傘下武将に取り組むことは越権的行為です。
 しかし、甲斐武田氏が滅亡直後になると、自分の活動基盤であった小県郡・西上野の吾妻領や沼田領に点在する中小の武士団を直ちに自身の勢力下に取り込み、勢力基盤を整えた真田昌幸の政略は、正に絶妙と言うべきですが、もう1つは先述のように、甲斐武田氏滅亡以前より昌幸が西上野で、名胡桃城・沼田城などの攻略に成功した戦功があり、在地領主たちから「真田安房守昌幸=戦の名手」という信用があったことも、後の困難な政局で真田氏が生き残った大きな理由となっているでしょう。
 真田昌幸と言えば、徳川家康・上杉景勝・北条氏政の3大勢力間を巧みに泳ぎ渡った「政局眼」、天下人・豊臣秀吉から『表裏比興の者』と評された「権謀術数の凄さ」が注目されがちですが、それ以前に信州真田氏の御館様(保護者)であった甲斐武田氏が消滅した後に、いち早く小県郡や西上野の武士団を味方衆として抑えた非凡な内政力もあったのです。
 他の国衆・地侍から見れば、かつて同じ主君(甲斐武田氏)に臣従した同僚身分であったはずの信州国衆の真田昌幸が、急に自分たちの棟梁顔をされたら、決して愉快な気分ではなかったのですが、実際、そのような国衆や地侍も存在しており、東信の小戦国大名として自立しつつある真田昌幸に反発しました。
 真田昌幸は、上記の反真田氏国衆に対しては、合戦で取り潰しや屈伏させ、中には謀略を駆使して相手を誅殺することにより、真田氏の勢力拡大と基盤固めに勤しんでいます。
 信州真田氏=諜報戦・ゲリラ戦の名手、忍者の大頭目というイメージが一般的に強く、事実そうであります。敵対勢力を謀略などで抹殺する、変幻自在・臨機応変の戦術・用兵を必要とするゲリラ戦、またその作戦を遂行するために必要な情報収集力は、上記の反真田勢力駆逐戦で活用されています。
 真田昌幸の父・真田幸綱から諜報戦やゲリラ戦を十八番としているのですが、息子の昌幸になると、その真田流戦法が全国規模に有名なり、更に昌幸次男・真田信繫が大坂の陣にて、天下の軍勢・徳川軍(江戸幕府軍)を相手に、真田流が遺憾なく発揮され近世期に講談(有名な真田十勇士)を通じて、後世に伝わることになります。
 以下のことは、飽くまでも筆者の拙い推察なのですが、甲斐武田氏、特に戦国レジェンドとされる武田信玄は、「透波(素破)」「歩き巫女(くノ一の望月千代女が好例)」といった忍者専門集団を多数抱えていたという通説があるほど情報収集力・諜報能力が天才的でありましたが、その信玄の下に若年より奥近習として出仕していた真田昌幸(武藤喜兵衛)は、武田氏と信玄が持つ諜報能力から大いに学び、それを後の真田氏に活かしたのかもしれません。
 以上の筆者の拙い推察は、自分が尊敬する歴史学者・磯田道史先生が提唱されている『甲斐武田氏の諜報能力の凄さ』(歴史番組『英雄たちの選択』など)を素とさせて頂いているのですが、更に磯田先生は、自著『日本史の探偵手帳』(文春文庫)で、『真田昌幸は武田信玄に直接師事した「愛弟子」であり、信玄軍本営にいた「実務担当者」である。』と信玄と昌幸の師弟関係も述べられています。




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 真田幸綱以来の信州真田氏は、信綱・昌輝、真田昌幸、その長男・真田信幸(信之)・真田信繫(幸村)というように、名将あるいは名君を輩出している優れた家柄ですが、昌幸が武田信玄に直接師事できたことが奇貨となり、小なりと雖も複数の戦国大名や天下人を翻弄したほどの知略と胆力を身に付けた「小さな大怪物」となったのです。
 その「小さな大怪物」の真田昌幸と最も激しく長きに渡って対立したのが、同じ国衆身分でありながら、本能寺の変後に勢力を真田氏以上に急速に伸張させた東海の覇者・徳川家康でした。
 『同業者相哀れむ』と『同業者相憎む』という2つの言葉がありますが、信州の国衆・真田昌幸と三河の国衆であった徳川家康は、残念ながら後者の方の関係でした。そして、もう1点、昌幸と家康の同業者的立場というか、大きな共通点がありました。
 前掲の磯田道史先生曰く、それは両者共に『武田信玄の弟子という関係性』(『日本史の探偵手帳』)だったということであります。
 真田昌幸は、武田信玄の側近の1人として、信玄から直接師事した愛弟子兼信玄の幕僚でしたが、徳川家康は信玄の敵対関係であり、信玄から散々に痛い目(三方ヶ原合戦での大敗北など)に遭わされながらも、家康は信玄を心底から畏敬し、武田流の政戦略・用兵を間接的に学び、甲斐武田氏滅亡後は、亡き信玄の教えを受け継ぐ武田遺臣団を再登用し、徳川軍の強化に努めたのは有名です。
 磯田道史先生が記述されるには、真田昌幸は『武田信玄の愛弟子』であるのに対し、徳川家康は『武田家のスタッフを手に入れたとはいえ、信玄を私淑していたに過ぎない』としています。
 本能寺の変後に、勢力拡大では徳川家康の後塵を拝することを余儀なくされた小さな大怪物の真田昌幸が、天下人になりつつある家康に対して反抗的態度を採り続けたのは、「我こそは武田信玄公の後継者」という密かな誇りがあったからかもしれません。(また筆者の拙い推量です)




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 今記事冒頭で記述させて頂きましたNHK大河ドラマ『どうする家康』では、真田昌幸役が名優・佐藤浩市さんが演じることになりましたが、その信州の山間から誕生した小さな大怪物の昌幸が、今後、主人公の徳川家康を翻弄してゆきます。
真田昌幸VS徳川家康、『武田信玄の弟子対決』が、大河ドラマ内でどのように繰り広げられるのか。今後の展開が愉しみであります。

(寄稿)鶏肋太郎

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