築城名人・藤堂高虎が築いた城の解説~自らの居城の築城と「天下普請」による築城への関与~

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藤堂高虎の生涯

藤堂高虎(とうどう たかとら)は加藤清正(きよまさ)・黒田孝高(よしたか・官兵衛)とともに「三大築城名人」の1人として知られている。
74年間の生涯において22に及ぶ城(筆者確認のみ)の築城や改修に関わり、その築城技術は徳川家康からも高い評価を得た。

藤堂高虎は1556年(弘治2年)に近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)の土豪・藤堂虎高(とらたか)の次男として生まれた。
1570年(元亀元年)、15歳のときに近江国の戦国大名・浅井氏に仕え、浅井氏滅亡後は阿閉貞征(あつじ さだゆき)・磯野員昌(かずまさ)・織田信澄(のぶすみ)と相次いで主君を替えた。
1576年(天正4年)、豊臣秀長(ひでなが・豊臣秀吉の弟)に仕え、竹田城(兵庫県朝来市)攻めや播州三木城(兵庫県三木市)攻め、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどに従軍し戦功をあげた。
その後、藤堂高虎は1585年(天正13年)の紀州征伐や四国攻めにおいても戦功をあげ、戦後、紀伊国粉河(こがわ・和歌山県那賀郡粉河町)1万石の大名となった。




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1586年(天正14年)、主君・豊臣秀長が豊臣秀吉に謁見するため上洛した徳川家康の接待役を務めた。
その際、藤堂高虎は聚楽(じゅらく)邸内に徳川家康の屋敷を造営する普請奉行を務め、徳川家康から才能を高く評価された。
その後も藤堂高虎は九州攻め(1587年)の戦功により2万石を加増され、1591年(天正19年)に豊臣秀長が没した後は、その養子・豊臣秀保(ひでやす)をよく支え、代理として朝鮮に出兵した。
1595年(文禄4年)に豊臣秀保が急死すると、藤堂高虎は高野山で出家するが、豊臣秀吉に才を惜しまれてその直臣になり、伊予板島(愛媛県宇和島市)7万石を与えられた。

1597年(慶長2年)、藤堂高虎は再び朝鮮に出兵すると、宇喜多秀家らとともに順天倭城(じゅんてんわじょう・韓国全羅南道順天市)を築城し、明・朝鮮連合軍の猛攻を退けた。
朝鮮から帰国した藤堂高虎は、宇和島城(愛媛県宇和島市)と大洲城(愛媛県大洲市)の大改修をおこない、近世城郭として整備した。

豊臣秀吉没後(1598年)の藤堂高虎は徳川家康との関係をより密にし、豊臣方の情報を伝えたり、徳川家康の危機を助けたりしたことで、より信頼されるようになった。
関ヶ原の戦い(1600年)では大谷吉継(よしつぐ)隊と死闘を演じるなど徳川家康方(東軍)の勝利に貢献した。
戦後、藤堂高虎は20万石に加増されて伊予今治(愛媛県今治市)に入封すると今治城を築城するとともに、大三島(愛媛県今治市)の沖合にある甘崎城(愛媛県今治市)の改修をおこなった。
さらには徳川家康に命じられて、京を押さえるために重要な城である膳所(ぜぜ)城(滋賀県大津市)の縄張り(設計)を担当し、その後も伏見城京都府京都市)や江戸城(東京都千代田区)など天下普請による築城にも縄張りなど重要な役割を担っている。

1608年(慶長13年)、藤堂高虎はさらに4万石を加増され、今治から伊勢国津(三重県津市)に24万石で転封され、伊賀上野城(三重県伊賀上野市)と津城(三重県津市)の築城に着手した。
この転封には、大坂城包囲網の一環として伊賀上野城で伊賀越えルートを押さえることと、徳川家康との連絡をより一層密にする必要があったことが考えられる。

その後も藤堂高虎は徳川家康から譜代大名並み(「別格譜代」)に重用され、徳川家康最期のときも外様大名ながらその場に侍(はべ)ることが許されている。
徳川家康没後も藤堂高虎は2代将軍・徳川秀忠から信頼され、1620年(元和6年)の徳川秀忠の娘・和子(かずこ)の入内(じゅだい)に尽力、領国経営にも力を発揮し、1630年(寛永7年)10月に江戸屋敷で没した。

藤堂高虎が築城・改修に関わった城

築城名人として知られる藤堂高虎がその生涯において、築城に関わったとされている城は、筆者が確認できたものだけでも20城に及び、それ以外にも確認できなかった城が存在すると考えられる。
それらの城の築城開始年・所在地等を年代順に整理すると以下のようになる。

1. 有子山(ありこやま)城:1583年(天正11年)・兵庫県豊岡市
2. 大和郡山(やまとこおりやま)城:1585年(天正13年)・奈良県大和郡山市
3. 和歌山(わかやま)城:1585年(天正13年)・和歌山県和歌山市、
4. 聚楽第(じゅらくてい):1586年(天正14年)・京都府京都市
5. 猿岡山(さるおかやま)城:1587年(天正15年)・和歌山県紀の川市
6. 赤木(あかぎ)城:1589年(天正17年)・三重県熊野市
7. 豊臣期伏見(ふしみ)城:1594年(文禄3年)・京都府京都市
8. 宇和島(うわじま)城:1596年(慶長1年)・愛媛県宇和島市
9. 大洲(おおず)城:1597年(慶長2年)・愛媛県大洲市
10. 順天倭(じゅんてんわ)城:1597年(慶長2年)・韓国全羅南道(ぜんらなんどう)順天市
11. 膳所(ぜぜ)城:1601年(慶長6年)・滋賀県大津市
12. 甘崎(あまざき)城:1601年(慶長6年)・愛媛県今治市
13. 今治(いまばり)城:1602年(慶長7年)・愛媛県今治市
14. 徳川期伏見城:1602年(慶長7年)・京都府京都市
15. 江戸(えど)城:1606年(慶長11年)・東京都千代田区
16. 津(つ)城:1608年(慶長13年)・三重県津市
17. 伊賀上野(いがうえの)城:1608年(慶長13年)・三重県伊賀上野市
18. 篠山(ささやま)城:1609年(慶長14年)・兵庫県篠山市
19. 丹波亀山(たんばかめやま)城:1610年(慶長15年)・京都府亀岡市
20. 二条(にじょう)城:1619年(元和5年)・京都府京都市
21. 徳川期大坂(おおさか)城:1620年(元和6年)・大阪府大阪市
22. 淀(よど)城:1623年(元和9年)・京都府京都市

以上の22城のうち、有子山城・大和郡山城・和歌山城・赤木城は主君・豊臣秀長に命じられて築城あるいは改修をおこなった城である。
次いで、聚楽第・豊臣期伏見城・順天倭城は豊臣秀吉の命により築城に関わった城である。

それらの中で、赤木城は標高約230mのところに位置する平山城で、主郭(しゅかく)を中心として三方の尾根にいくつかの郭を配置した中世山城の特徴がみられる。
その一方で、高い石垣や発達した虎口(こぐち・城の出入り口)など近世城郭の要素もみられ、中世城郭から近世城郭への過渡期の様相が認められるという。
石垣の構築は当時の最先端技法であった「野面積(のづらづみ)み」という自然石をそのまま積み上げる技法でおこなわれた。




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また、順天倭城は朝鮮出兵の際に日本軍が朝鮮半島南岸に築いた「倭城(わじょう)」の一つで、倭城が築かれた範囲の最西端の小さな半島状の地形に位置する。
1597年(慶長2年)11月に藤堂高虎・宇喜多秀家らが築城を始め、わずか1か月後の12月には完成したという。
三方が海に囲まれており、地続きとなっている西側丘陵の稜線ラインに直線の石垣を築き、本丸には3重の天守を建て、敵の侵入を防ぐ工夫を随所に施した。
明・朝鮮連合軍の総力をあげての攻撃にも順天倭城は落城することなく、藤堂高虎は築城の名手として評価を高めた城となった。

藤堂高虎の居城・拠点の城

猿岡山城・宇和島城・大洲城・甘崎城・今治城・津城は、藤堂高虎が自らの居城あるいは拠点として築城や改修をおこなった城であり、その概要は以下のとおりである。

【猿岡山城】
猿岡山城は、1585年(天正13年)の紀州攻めの後、紀伊国粉河(和歌山県紀の川市)に1万石を与えられた藤堂高虎が初めて自分のために築いた城である。
元は1573年(天正1年)に紀ノ川流域で勢力を誇っていた粉河寺(こかわでら)が、防衛のために境内南側の猿岡山に築城しており、その城を大改修した。

【宇和島城】
宇和島城はリアス海岸地帯の最深部に位置する標高約73mの丘陵上に位置し、1596年(慶長1年)に藤堂高虎が築城に着手したときは、大半が海に面する地形であった。
藤堂高虎はこの地形を巧みに活かして、外郭ラインが不等辺五角形となる縄張りとし、防御・攻撃面で独特な工夫がみられる。
1601年(慶長6年)には3重3階の望楼(ぼうろう)型天守が完成するが、その後、藤堂高虎に替わってこの地を治めた宇和島伊達家の2代藩主・伊達宗利(むねとし)が天守をはじめ、城全体の大改修をおこなった。

【大洲城】
大洲城は交通の要衝である肱川(ひじかわ)に臨む地にあり、鎌倉時代末期に伊予国(愛媛県)守護・宇都宮氏によって築城されたと伝わる。
その後、1597年(慶長2年)から藤堂高虎が大改修をおこない、脇坂安治(わきさか やすはる)のときに近世城郭として整備された。

【甘崎城】
甘崎城は大三島(おおみしま・愛媛県今治市)の沖合にある周囲約600mの古城島(こじょうとう)全体を城郭にした海城で、本州と四国を結ぶ主要航路の要衝に位置する。
663年(天智2年)の白村江(はくすきのえ)の戦いでの大敗後、唐軍の侵攻に備えて甘崎城が築かれたと伝わる。
その後、村上水軍の拠点となり、関ヶ原の戦い(1600年)の後、藤堂高虎が今治城に入城すると甘崎城はその支城となり、総石垣の城へと大改修をおこない近世城郭へと整備した。
甘崎城は、陸から近い海中にあり、潮が引くと城への陸路や石垣が現れるが、満潮時には没する。
この珍しい光景について、1691年(元禄4年)にこの沖を航行したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルは『日本誌』に「水中よりそびゆる保塁(ほるい)あり」と記述している。
甘崎城は1608年(慶長13年)に藤堂高虎が伊勢国津(三重県津市)へ転封となると廃城となった。

【今治城】
今治城は、藤堂高虎が関ヶ原の戦い(1600年)での戦功により伊予半国20万石を与えられて築いた大規模な平城である。
築城工事は1602年(慶長7年)から始められ、天守などの建物を含めて完成したのは1613年(慶長18年)頃と考えられている。
1609年(慶長14年)、藤堂高虎が伊勢国津に転封となった際、天守は丹波亀山城に移築されたと伝わる。
この今治城の築城が徳川家康の目に留まり、以後、徳川家や江戸幕府関連の城の縄張りを手掛ける契機となった。
なお、今治城には藤堂高虎の築城思想や技術が凝縮されており、その詳細については別稿で解説する。

【津城】
津城の起源は永禄年間(1558年~1569年)に、長野氏一族の細野藤光(ほその ふじみつ)が安濃(あど)川と岩田川の間に形成された三角州に小規模な城を構えたことに始まる。
1569年(永禄12年)に織田信長の弟・織田信包(のぶかね)が入城し、石垣を構築して堀を巡らせ、本丸・二の丸・三の丸の整備をおこなった。
その後、富田氏の時代を経て、藤堂高虎が今治から入城すると、1611年(慶長16年)に北側の石垣を高く積み直し、その東北と西北の両隅に三重の櫓(やぐら)を設けるなどの大改修をおこなった。それにより、津城は中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属する東丸・西丸を取り囲んで二の丸を配置する輪郭(りんかく)式の平城に変貌し城下町も整備され、明治維新まで藤堂家32万石の居城となった。

藤堂高虎が関わった天下普請の城

徳川家康が1603年(慶長8年)、征夷大将軍に任じられて政権を担うことになったが、大坂城には豊臣秀頼が健在で、西国には豊臣恩顧の外様大名が存在した。
このことに危機感を持った徳川家康は、防衛のために京への入り口や街道の要衝、大坂城を包囲する要地に14城を築城する。
この築城は諸大名に工事を割り当てる「天下普請(ぶしん)」によっておこなわれ、藤堂高虎も縄張りを担当するなど、重要な役割を担った。

藤堂高虎が徳川家康によって縄張りや手伝いを命じられた城には、膳所城・徳川期伏見城・江戸城・伊賀上野城・篠山城・丹波亀山城・二条城・徳川期大坂城がある。
これら8城の概要については、以下の拙稿をを参照いただきたい。

【徳川家康と城】「天下普請」による築城を探究する~膳所城築城から徳川期の大坂城築城まで~

以上の8城に加えて、藤堂高虎は徳川家康没後の1623年(元和9年)、2代将軍・徳川秀忠から淀城築城の手伝いを命じられている(『藤堂家記録』)。
淀城は宇治川と木津(きづ)川の合流地点の中島に位置し、1623年(元和9年)から築城工事が始まり、伏見城の資材と二条城の天守を移築して3年ほどで完成した。

これらの城の中で、膳所城は徳川家康にとって初めての天下普請による築城であり、京を押さえるために重要な城である。
その膳所城の縄張りを外様大名である藤堂高虎が命じられた背景には、徳川家康が藤堂高虎の築城技術を重くみていたからであろう。
藤堂高虎の築城技術は、徳川家の居城・江戸城、京への街道の要衝を押さえる篠山城、山陰道への京への入口にあたる丹波亀山城の天下普請による築城にも遺憾なく発揮された。
藤堂高虎の築城技術の特徴としては、高石垣と広大な水堀、多聞(たもん)櫓などが知られているが、その詳細については別稿で探究したい。




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<主な参考文献>
加藤 埋文 2021年『家康と家臣団の城』KADOKAWA
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第10巻 三重・奈良・和歌山』新人物往来社
平井 聖、他 1980年『日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社
平井 聖、他 1980年『日本城郭大系 第16巻 大分・宮崎・愛媛』新人物往来社

(寄稿)勝武@相模

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