鎌倉幕府3代執権・北条泰時~新生「鎌倉殿の13人」こと評定衆を創設した名執権

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 1224年(元仁元年6月13日)に、鎌倉幕府2代執権にして、京都朝廷軍との決戦「承久の乱(1221年/承久3年)」の大勝を経て、名実ともに永きに渡る『武士の世の礎』を築き上げた北条義時(享年62歳)が死去しました。
 承久の乱で後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を流罪に処し奉り、「大いなる反逆者」の汚名を着た北条義時の逝き方があまりにも性急であっために、一説には、義時の政争によって敗れ非業の死を遂げた亡霊たちによる「怨恨死」があり、更に他説では、義時継室・伊賀氏あるいは義時近臣による「暗殺説」もあります。
 伊賀氏が自分の夫である北条義時を暗殺した理由として挙げられるのは、彼女が産んだ「北条政村(伊賀氏にとっては長子であり、義時にとっては四男)」を、3代執権にするために、義時を葬ったというのが通説となっています。
 (北条義時暗殺説が真実だとすると)数年前に社会的大問題になった「後妻業」を彷彿させる政治的大事件ですが、この義時暗殺および四郎政村執権擁立する政変劇が、「伊賀氏の変」と呼ばれるのは周知の通りです。
 北条義時が急逝した直後から、義時暗殺説が京都朝廷の藤原定家たち公家の間で囁かれたことは事実なので、「火のない所に煙は立たぬ」という言い方があるように、義時暗殺というある意味ドラマ性に富んだ説を完全に否定することは、筆者ごときにはできません。しかし、伊賀氏が只々我が子可愛さのために、夫・義時を暗殺したということを妄信することは眉唾物であり、故・義時の長子(即ち伊賀氏にとっては目の上のコブ的存在)にして、当時、京都六波羅探題(北方)の職にあった北条泰時でさえ、伊賀氏の陰謀説について否定的であったと言われています。
 北条義時暗殺説および伊賀氏の変の真偽はともかく、1224年に鎌倉幕府2代執権・北条義時は急死、その後妻であり北条政村を執権職に就かせる陰謀を企図したとされる伊賀氏それに加担した伊賀一族は、北条政子によって流罪に処され、結局3代執権職には、故・義時の長子であった今記事の主人公・北条泰時が就任することになりました。




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 北条泰時が3代執権に就任できたのは、亡父・北条義時の実姉であり、二位殿/尼将軍(初代鎌倉殿・源頼朝の正室)と御家人たちに尊崇されていた北条政子の強い後押しがあったことも大きな要因であるとされています。
 叔母でありカリスマ性豊かな北条政子の後押し効果もあったのですが、何よりも北条泰時には、鎌倉御家人たちから信頼される有能な人物であったことが、最終的に執権職に就任できた理由だと思います。泰時は温厚篤実なイメージが強いですが、合戦では大活躍しているなかなかの戦上手なのです。
 北条泰時は、鎌倉政権の軍事警察権の長官・侍所別当であるだけでなく、彼の戦歴も輝かしいもので、比企能員の変・畠山重忠の乱・和田合戦といった鎌倉内部抗争で勝利し、北条氏勢力拡大に貢献。更に承久の乱のでは、鎌倉政権全軍の大将軍として京都朝廷軍を完全屈服させるほどの活躍を見せています。
 戦に勝つことを生業としている武士/鎌倉御家人たちにとって、北条泰時の戦歴は、十分に信頼できるものであり、泰時は自分たちのリーダー(執権)として相応しい人物であると思ったことでしょう。
 戦功ある北条泰時に比して、生前に栄えある戦歴があまり無い父・北条義時とは明らかに違う点です。ただ義時の場合は、彼の少年期~壮年期の頃、北条氏は未だ領地が少ない伊豆の小豪族であり、軍事力が強力ではなかったから合戦で大きな働きができなかったと思われます。
 その弱小身分から祖父・北条時政、父・北条義時が、政治的謀略を駆使し、大勢力・北条氏を築き上げ、父祖が培った軍事力を利用した北条泰時が合戦で活躍できた、ということが言えます。即ち、父祖のお陰で、北条泰時は軍事的優位性を発揮でき、最終的には、庶子扱いながらも、執権に就任できたのであります。
 
 「現代社会=れっきとした法律社会」に生きる我々からすると、亡き義時の長男である北条泰時が、長子相続権を利用して亡父の衣鉢を継ぐのは当然ではないか、と思いますが、当時長子相続は絶対的なものではなく、「力ある子息(特に母方の実家の強弱や格の高さを持つ者、即ち『正室』と言われる産んだ子息)」が、惣領となるのが一般的でした。
 その好例の1つが、北条泰時の曾孫に当たる北条時宗(鎌倉幕府8代執権)であり、彼には、庶兄・北条時輔(旧名:時利。母は側室・讃岐局)がいましたが、父・北条時頼(鎌倉幕府5代執権)と正室・葛西殿(泰時の異母弟・極楽寺重時の娘)の間に誕生した時宗が、嫡子扱いとなりました。正に、北条時宗は生まれながらにして、執権職を約束されたサラブレッド御曹司でした。
 その子孫である北条時宗に比べ、北条泰時というのは、生い立ちは不幸なほど恵まれておらず、彼の実母は「阿波局」と呼ばれたことしか判明しておらず、彼女の生没年および実家でさえも不明なので、出自も卑賤であったと言われています。極端に言えば、泰時生母・阿波局と言われる女性は、北条義時(当時は江間義時)の正室扱いとはされていない、不遇ぶりです。
 生まれながらにして、母方実家(即ちバックボーン)の脆弱さ、「血の不幸」を持つという北条泰時は、生涯、母方が有力御家人・比企一族であった異母弟・北条朝時(名越朝時)は泰時(北条得宗家)には、常に反抗的な存在であり、泰時自身も朝時との緊張関係に悩まされます。
 前掲の泰時・朝時の異母弟に当たる北条政村の実母・伊賀氏も、京都下りの下級官僚から有力御家人となった伊賀氏出身の女性であり、有力者の家柄を持つ愛息・政村が、長兄ながらも母方の実家が定かならぬ泰時の家臣筋になることを不快に思ったことが一因となり、(泰時自身は否定していますが)彼女が夫・北条義時急死直後に、政変(伊賀氏の乱)を企図したことの風聞があったのは事実であります。
 上記のことも長子でありながら、母方実家の後押しが皆無であった立場の「脆さ」を3代目執権となった北条泰時は背負っていたことを暗示している、と言えます。
 更に生前に北条義時が、自身の後継者について明言していなかったことも、継母・伊賀氏の政変画策、泰時が後々まで、異母弟・名越朝時の増長・不満に悩まされることに拍車を掛けたことも否めません。
 三谷幸喜さん脚本のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、北条義時が生前より「自分の跡継ぎは、太郎(北条泰時)」と、継室である伊賀氏(ドラマ内での役名は「のえ」)を含める周囲に明言していた描写がありましたが、これは飽くまでも創作世界の話であり、史実では残念ながら、生前の義時が、長子・泰時とするという公言はしていないようなのです。吾妻鏡などにも明記されていません。
 北条義時からしてみれば、生母不明の庶長子・北条泰時を大々的に自身の後継者として指名するには、1番目の継室「姫乃前(名越朝時・極楽寺重時の生母。実家は、有力御家人・比企朝宗の息女)」、2番目の継室「伊賀氏(北条政村・金沢実泰の生母。京都下りの御家人・伊賀朝光の息女)」たち、厳密に言えば、彼女たちの実家(有力御家人)に遠慮があったのかもしれません。以上の不安定な経緯で、3代執権となった北条泰時は、北条一族の結束を固めるためることから着手します。




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 先ず、亡父・北条義時の遺産は、次弟の名越朝時をはじめとする弟や妹たちに分与することで協調関係を築き、伊賀氏の変の渦中的人物であった北条政村も罰することをせず、寧ろ政村を後々まで政権中枢で登用します。
 また北条泰時は北条宗家、即ち、執権得宗家の家政強化のために、1224年(元仁元年)に「家令」と呼ばれる得宗直属の家臣を設けています。北条得宗の家人にして、泰時の後見役としても活躍していたとされる尾藤景綱や平盛綱がその双璧であり、北条家法「家務条々」の制定に携っています。
 この得宗家の家政を司った家令、特に平盛綱を始祖とされる平氏(後の長崎氏)が、得宗家政も留まらず執権側近として幕政にも関与し、鎌倉政権内でも強大な権力を誇るようになり、遂には、北条得宗家(執権)を壟断するほどになります。8代執権・北条時宗の側近であった「平頼綱(平禅門)、盛綱の孫」、時宗の孫で14代執権・北条高時の代における実力者「長崎円喜」「長崎高資」父子は、家令/内管領として、鎌倉政権内で強大な権力を誇った連中であります。
 平頼綱・長崎父子にしても、強権を誇示して独裁者の如く鎌倉幕府の政治を切り盛りしたことにより、周囲の鎌倉御家人から反感を買い、それが要因となって没落するという、家令/内管領に対する悪イメージを後世に植え付けてしまいましたが、北条泰時が創設した時の家令は、執権職として幕政に忙殺されている泰時に代わり、北条得宗内部を整えてくれる必要な役職であったのです。
 名越朝時など他の一門にはバラ撒きの融和策を採り、執権得宗は家令を設けて内部強化を図ることにより「私」における北条一族の基盤固めに着手した北条泰時は、「公」における鎌倉政権内でも、協調性を主軸にした、『合議制』の政体創りに取り組んでいきます。それが『連署(執権複数制)』『評定衆』の設立であります。
 北条泰時が評定衆を設置したのは、3代執権就任、亡父・北条義時の遺領配分および得宗家令の創設した翌年の1225年(嘉禄元年)の晩夏頃だと言われています。折しも同年夏季には、鎌倉政権草創の大功臣・大江広元、泰時執権就任に力添えした尼将軍こと北条政子が相次いで亡くなります。
 北条義時・大江広元、そして北条政子ら武家政権の開祖・源頼朝と源氏将軍家以来の偉人たちが相次いで没したことにより、全国武家政権となっていた鎌倉幕府は新たな政局を迎えることになり、北条泰時は政治体制の変革を行ったのです。
 
 源頼朝が鎌倉に武家の府を創設した以来、鎌倉殿(将軍家)と大江広元など一部側近衆による独裁的政権運営が鎌倉政権の政治母体であり、北条執権制を主導した北条時政の政治運営も至って専横的でありました。坂東地方に拠る東国武士団/鎌倉御家人のために樹立されたはずの鎌倉武家政権でしたが、全ての御家人たちの意思尊重が反映される政権では無かったのです。
 一橋大学名誉教授であられた故・永原慶二先生は、独裁的および側近政治を主としていた初代鎌倉殿・源頼朝が急逝した直後に、宿老たちが2代鎌倉殿となった源頼家から親裁権を取り上げ、有力御家人(宿老)による13人の合議制、即ち「鎌倉殿の13人」が誕生したのは、『御家人たちによる独裁者・源頼朝(源氏将軍家)に対する反抗の顕れ』というように記述されていますが、この13人の合議制も早々に破綻し、比企能員を滅ぼした北条時政の独裁的政治が開始されます。
 北条執権職の初代と位置付けられる北条時政の専横による政治的失敗を鑑みた2代執権・北条義時は、御家人の世論を尊重し、北条時政以降の独裁的な執権政治体制を改め、承久の乱以後は『合議制を興すことを試みた(学習院大学名誉教授 故・安田元久先生の学説)』のですが、それには間に合わず義時は承久の乱の2年後に急死。その義時の遺志は、結果的に次代の北条泰時が継ぐことになりました。
 敢えて北条時政・北条義時父子を、北条執権政治を興した「創業者型リーダー」に譬えるなら、その執権制安定化を義務付けられた北条泰時は、明らかに「守成型リーダー」であり、その安定化を図るために泰時が採った方法が、前掲の『連署』『評定衆』の創設であります。
 『連署』とは、執権職と並ぶ鎌倉政権内の要職であります。以前の連署は執権の補佐役、副執権という位置付けとされていましたが、現在では執権職と同等の権力を持った要職であったことが判ってきました。即ち『連署=もう1人の執権』であります。
 古代中国王朝では、政治全般を統括する「丞相(宰相)」や軍を統率する上級将軍である
「車騎将軍」を2人制(左丞相・右丞相というように)に敷いた例があります。その職制を踏襲したと思われる日本の朝廷でも、左大臣・右大臣・左近衛大将・(源頼朝が叙任された)右近衛大将などの2人制官職としています。
 この2人制役職の理由として、1人に権力が集中すること(独裁)を抑止するのが主な目的であり、日本中世・鎌倉武家政権の執権・北条泰時も、自分自身に権力が集中しすぎないように、連署を設けたのです。
 この初代連署に就いたのが、北条泰時の叔父に当たる『北条時房(北条時政の子。北条政子・北条義時の異母弟)』であります。時房も、畠山重忠の乱・和田合戦などの御家人抗争で活躍し、承久の乱でも鎌倉軍の大将軍・北条泰時共に出陣し、武功を挙げた人物であります。また京都制圧後も、北条泰時・北条時房は、鎌倉政権の出先機関である六波羅探題として在京し、乱後の戦後処理や京都朝廷との折衝に従事しています。
 即ち北条泰時にとって、叔父・北条時房は、以前より政治・軍事両面での良き相棒であったことは間違いないのですが、また同時に若輩かつ庶子扱いである泰時にとっては、年長であり、古くから父・北条義時を補佐してきた実績がある時房は、気を遣わなければいけない「難しい存在」でもあったことでしょう。
 「頼れるパートナーであるが、また同時に要注意人物」、極論を言えば『トップに取って代わるほどの実力者』というのは、現在の国家や会社でもよく見られる存在であり、特に北朝鮮ではその人物が失脚させられたニュースになったりします。しかし、執権・北条泰時は、正しく自分にとって上記のような存在である有能にして実績がある北条時房を、執権と同等の連署に任命。時房に敬意を顕し、頼れるパートナーとして遇したのであります。合議制を政治主題とする北条泰時にとっては、一門にして有能である北条時房を自身の閣僚に取り込むことは必要不可欠であったのです。
 因みに、連署という役職名の由来は、鎌倉政権が発行する「下文(下知状)」など公文書に執権(北条泰時)と「『連』なって『署』名」するから、連署と呼ばれたのは周知の通りであります。また執権職と連署という鎌倉政権における双璧は、その後も代々北条一門によって独占されたことも有名であります。

 執権職の相棒として連署を設けた北条泰時は、次いで11人が構成員である『評定衆』を創設。「執権1人」「連署1人「評定衆11人」を合わせた『13人の合議制』が新設(或いは再構成)されます。
 鎌倉幕府3代執権・北条泰時の主導の下、『新たな鎌倉殿の13人』が組閣されたのです。周知の通り、源頼朝死後に有力御家人(厳密に言えば「武装農場主」)たちで構成された「13人の合議制(第1次鎌倉殿の13人)」が誕生しているので、泰時がつくったのは『第2次鎌倉殿の13人』と言ってもいいかもしれません。兎に角にも新生・鎌倉殿の13人の顔ぶれを列挙させて頂くと、以下の通りです。

★評定衆創設時の組閣員

⓵中原師員
⓶三善倫重
⓷三善康連(太田康連とも)
⓸三善康俊(町野康俊とも)
⓹二階堂行村
⓺二階堂行盛
⓻藤原業時(佐藤業時とも)
⓼藤原長定(斉藤長定とも)

 以上、⓵から⓼までは、京都下向の「文官御家人(元京都朝廷の実務に携わる官人層)」と言うべき存在であり、幕府で取り扱われる訴訟や公文書作成などの行政庶務に長じたグループです。鎌倉幕府初代・問注所執事である三善康信(善信)に連なる三善一族出身者が11人の評定衆の内、3人も占めているというのは、名官僚・三善康信の遺業が幕府内で絶大であった証拠です。
 政所別当職(行政長官的役目)を担った中原・二階堂・藤原といった各一族も文官御家人グループの閣僚です。中でも4代鎌倉殿・九条頼経(幼名:三寅)の学問の師匠(侍読)であった⓵中原師員は有能な官僚であったようで、執権・連署(北条一族)を除けば、師員の評定衆席次は筆頭であり、後に頼経が失脚する政変劇(「宮騒動」)後でも、師員の地位は不動なものでした。

⓽後藤基綱

 後藤基綱は京都出身の武者であり、承久の乱の際は、幕府軍の軍奉行を務めました。父も京都武士の後藤基清であり、承久の乱では後鳥羽上皇方に加担。戦後、基清は息子・基綱によって殺されています。
後藤基綱は、先進地・京都の出身であるため、歌人としても活躍している上、行政庶務能力にも長けた武士でした。極端に言えば文武両道の武士であり、武芸一辺倒の農業武士出身である東国武士団とは一線を画しています。

⓾中条家長
三浦義村

⒓初代連署・北条時房
⒔3代執権・北条泰時

 北条泰時・北条時房の双璧を含め、武蔵七党の横山党支族出身である中条家長、そしてNHK大河ドラマで、俳優・山本耕史さんの怪演により一躍著名になった曲者・三浦義村は、坂東地方出身の「生粋の東国武士団」であります。
 三浦義村の三浦氏は、ご存知の通り、相模三浦半島を本貫地とする有力武士団であり、義村の父・三浦義澄(第1次鎌倉殿の13人の1人)は、源頼朝挙兵時から頼朝に従った大重鎮であります。
 三浦義澄死後、名実ともに三浦一族の総帥となった三浦義村は、源頼朝・源頼家在世時には鎌倉政権中枢の要職に就き、政権運営に携わることは無かったですが、持ち前の「権謀力(徹底的なリアリズム)」を用いて、執権・北条氏に次ぐ鎌倉御家人ナンバー2の地位を築いていきます。
 特に三浦義村の権謀ぶりで有名なのが、北条義時と鎌倉政権の軍事長官(侍所別当)である豪勇・和田義盛(第1次鎌倉殿の13人の1人。三浦一族、義村の従兄)との対決・和田合戦(1213年/建暦3年)で、三浦義村は、同族である義盛を容赦なく裏切り、北条氏に加担。
 結果、和田義盛と和田一族は滅び、三浦義村は、北条方勝利、即ち北条執権体制の確立に一役買っています。この5年後の1218年(建保6年)、三浦義村は鎌倉政権の軍事警察を統括する侍所の所司(副長官)の1人に就任しています。同別当(長官)が北条泰時であったのは先述の通りです。

 当時、血族に同心するのが最重要であった武士の世の中で、同族・和田一族を見捨て、宿敵・北条氏に加担するという予想外の政略展開を見せ、三浦宗家の拡大に尽力した三浦義村。そのような義村を当時の人々は、以下のように評したのは有名であります。

『三浦の犬(即ち義村)は、友を喰らう』(有力御家人・千葉胤綱の評)

『三浦義村、八難六奇の謀略、不可解な人物である』(藤原定家「明月記」)

以上のように、血族関係を軽視し、リアリズムを徹底する策略家・三浦義村の底知れぬ器量を揶揄あるいは畏怖しています。

 因みに、百人一首でも有名な公家・藤原定家が明月記に書いた『三浦義村は八難六奇の謀略』というのは、中国古代王朝・前漢初代皇帝・劉邦を補佐した名参謀・「張良(字:子房)。八難」と「陳平(字:不明。六奇)を評した褒め言葉であり、稀代の名参謀2人に比して義村を評しているのであります。尤も、当時の教養人である藤原定家の三浦義村評よりも、義村と同根の東国武士で顔なじみであった千葉胤綱の『三浦の犬は友を喰らう』という明らかな悪評の方が、生々しくも親しみを感じられるので、筆者は好きですが。

 その友を喰らう有力鎌倉御家人である三浦義村が、初めて本格的に鎌倉政権運営に携わったのが、評定衆の閣僚なってからであります。先述のように、評定衆が設置されたのは、1225年(嘉禄元年)であり、この時、三浦義村は50代後半の古参宿老であります。
 前掲のように、苛烈なリアリズム(権謀力)を持ち、北条氏と共に激しい内部抗争を生き残り、北条氏に次ぐ実力と地位を獲得した鎌倉御家人・三浦義村は、文官色が強い評定衆構成員の中では、極めて異色の存在として映ります。
執権として評定衆をリードする北条泰時・北条時房両人にとって三浦義村を評定衆の一員に加えたのは、他の御家人・武士たちの意見を総代する代表者として、また政治的パワーバランスの均衡化を目的としたものであると思いますが、泰時・時房は勿論、他の評定衆メンバーも、この異色の大物御家人には相当な気遣いが要ったことでしょう。
 先述のように、NHK大河ドラマの影響もあって三浦義村は、かなり曲者のイメージが強いですが、裏切りを行うなど実際そういう人物であったのですが、それは年配なって評定衆の一員となった時でも、相当な曲者ぶりを発揮しています。
 公平な裁定を下すことが仕事である評定衆であるのに、三浦義村の家人と他の御家人の家人が対立した際、自分の家人に有利なる裁定を下すように北条泰時に要求する、罪人が領有していた領地が没収された(闕所となった)際、それを義村の家人に与えるように意見するなど、なかなかの傍若無人ぶりを発揮している義村であります。そんな義村でも、泰時は、彼を罷免することなく、引き続き評定衆の一員としています。

 後にも三浦義村のような有力御家人(生粋の東国武士)が評定衆に選抜されることは多々ありますが、義村が未だ評定衆在任時の1235年(嘉禎元年)、新たに北坂東の有力御家人・結城朝光(小山朝光とも)が評定衆の一員となります。しかし、朝光は在任わずか1ヶ月ほどで評定衆を辞任してしまいます。
 結城朝光の辞任理由は、自身の高齢、そして、子孫の名誉になると思って安易な気持ちで評定衆に加わったが、評定衆の激務過ぎた、と言われています。この結城朝光よりも評定衆をスピード就任・辞任をしたのが、他ならぬ北条泰時の異母弟・名越朝時であります。
 北条宗家の不満分子的存在である名越朝時を閣僚に迎えることで、執権・北条泰時は名越氏の懐柔を模索したと思われますが、当の朝時は、異母兄の泰時に従い、他の文官や御家人と肩を並べて評議することを嫌ったようで、就任即日に辞任しています。
 更に余談を続けさせていただくと、北条泰時にとって三浦義村は元舅であり、(現代人の筆者からすると)、それだけでも泰時は義村に対して、余計に気を遣ったのではないか?と勘繰りしたくなっていまいます。
 三浦義村が死去した後、息子の三浦泰村、その弟・三浦光村の代になると、三浦氏は1247年(宝治元年)に勃発した鎌倉市街戦・宝治合戦にて、北条得宗家・安達氏に滅ぼされてしまいます。しかし、滅んだ三浦氏宗家(三浦義村)の血脈は、北条泰時  
 最初の「正室(即ち三浦義村の娘。後の矢部禅尼)」によって、後々の北条得宗家の当主に受け継がれることになります。
北条泰時と矢部禅尼の間には、4代執権・「北条時氏」が生まれ、時氏の次男・「時頼(5代執権)」、時頼の次男・「時宗(8代執権)」、時宗の嫡男・「貞時(9代執権)」、貞時の三男・「高時(14代執権)」、というように、脈々と三浦の血は、北条得宗家に流れていっています。

(閑話休題)

 三浦義村とその一族をはじめ評定衆に参入した鎌倉御家人たちの余談が長くなってしまいましたが、北条泰時が創設した執権・連署・評定衆が、新生・鎌倉政体となり、幕府の行政・司法の全般を司ることになったのであります。
 承久の乱後、全国各地に守護や地頭(新補地頭)が急増したことに伴って、公領(京都朝廷・国衙が領有)・荘園領主(公家や寺社)との対立・訴訟問題も激増したことにより、新旧(武士と伝統権力)の勢力の裁定機関である鎌倉幕府、その内閣府的存在である評定衆の行政と司法の処理能力が、最も必要とされるようになりました。
 上記の条件を満たすため、評定衆を主導する執権・北条泰時(連署・北条時房も含む)は、評定衆11人中、8人にも及ぶ文官御家人(旧京都朝廷の実務家)を採用したのは明らかであります。

 行政・司法に通じた文官たちを多数採用する一方、三浦義村など御家人代表格をも取り込んだ上、彼らに山積する全国各地の訴訟問題などを吟味させ、最終的には議長格あるいは裁判長的役目である執権・北条泰時が『公平仁慈』『道理』を旨として、不満が出ないよう訴訟裁定を下す目的として組閣された評定衆(「第2次 鎌倉殿の13人」)。これこそが、北条泰時が目指した鎌倉新体制であったと思えます。
 「公平さを以って、問題を解決してゆく」。この責務は、初代鎌倉殿・源頼朝以来、鎌倉殿の最重要職務でしたが、北条泰時は合議制でその職務を代行したのです。事実、荘園領主(寺社)と地頭(御家人)との対立が生じ、非が地頭側の方にあった場合は、泰時や評定衆は自分たちの仲間である地頭の方を容赦なく裁いています。
 北条泰時が目指した評定衆こと新生・13人の合議制は、実務能力に長じた文官御家人を多数採用したこと、公平さを以って問題を処理するという政治目的をするという点で、泰時が未だ青年期であった頃、即ち源頼朝死後に誕生した比企能員や北条時政ら有力御家人が大幅を占め、大江広元や三善康信といった実務家らを少数で構成された元祖・13人の合議制とは、明らかに違います。
 元祖・13人の合議制は、飽くまでも御家人同士の権益や勢力を均衡化する、ひいてはパワーゲームの集会所のような存在に過ぎず、行政などは等閑であり、訴訟なども不公平そのものでした。
所詮は俄仕立ての合議制であったので、早々に合議制は瓦解し、NHK大河ドラマで周知の通り、御家人同士の権力闘争、源氏将軍家の滅亡の主因となったにすぎませんでした。その最終勝利者が、北条義時であったことも有名です。
 その合議制の脆さを学んだ北条泰時は、領地や実績がある有力御家人は三浦義村や中条家長ら数人のみとする反面、領地は有力御家人よりも少ないが実務能力に長じる中原氏や三善氏といった文官を用いたのが、泰時の政治力の高さでしょう。そして、政治家或いは、リーダーとして北条泰時が更に優れていたのは、「先見性」であったのではないか、と筆者は思います。
 
 源頼朝や源頼家、北条泰時の祖父である初代執権・北条時政、これらの人物の共通点は独裁色が強い人物です。源頼朝の場合は、頼朝自身が政治や裁定能力に非凡な才能を発揮し、大江広元など一部の側近たちの親政政治を行っていれば、御家人たちも頼朝に従って、当初は大きな問題は発生しなかったですが、次代の源頼家、それを放逐した北条時政になると、御家人たちは以前と違って、数も勢力も大きくなっているで、独裁色の強い政権に反感を抱くようになっていました。頼家と時政は、その周囲の機微を察することができず、頼朝以来の独裁色を踏襲しようとして失敗、没落したようなものです。
 『もはや、一部の者が政権を独裁していた時代は終わったのだ。これからは合議制が、武家政権のカギとなる』と、源頼家たちの失敗を見てきた北条泰時は実感したのではないでしょうか。だからこそ泰時は、自身の叔父であり、合戦や政治でも実績があり、もしかしたらライバル関係にもなりかねない北条時房を相棒(連署)として遇し、泰時の元舅であり、先述のように平然と自己保身や身贔屓をする曲者・三浦義村、明らかに泰時の内包的敵対者であった名越朝時でさえも、泰時は自分の内閣(評定衆)に迎え入れたのです。
 現代政治でも、与野党の駆け引きを見越した上で内閣が成立し、行政・外交など政治全般が運営されていますが、約800年前の首相格の北条泰時も、野党色が強い三浦義村を政権内で用いているであります。
 もう1つ北条泰時の優れた先見性を有していたことがわかるのが、有名な『御成敗式目(貞永式目)』の制定です。
 以前の武士は、反抗者は容赦なく粛清するというのが自然の理であったのに、北条泰時は、鎌倉御家人たちを法制で教生するという方法を見出したのです。この御成敗式目が、室町幕府の法典「建武式目」、戦国期の大名たちの「分国法」のドグマ(教典)になっていくのは、周知の通りです。
 また北条泰時が行った政策として、極めて画期的であったのが、後世における仁政思想の礎となる『撫民=なでるように民を慈しむ』というものであります。それまでの京都朝廷・公家、その隷下にあった武士というのは「薄情なる収奪者」そのものでした。民百姓から容赦なく利益(最悪の場合は生命も)を吸い上げる、極論で言う「弱い者イジメ」をする連中でした。




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 『それではダメだ!主要財源である米穀を生産してくれる百姓を、これから武士はもっと大事にしよう』という撫民思想を、3代執権・北条泰時は持っていたのです。撫民思想となると、泰時の孫に当たる5代執権・北条時頼の方が有名でありますが、その礎を築いたのが泰時であります。
 次回は、優れた政治家・北条泰時と撫民について、追ってゆきたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

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