源頼朝に対して大逆襲する後白河法皇を筆頭とする伝統権力者(朝廷・寺社)たち

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*はじめに。
 この記事を執筆させて頂くに当たって、故・永原慶二先生(一橋大学名誉教授)の名著源頼朝(岩波新書)を、大いに参考させて頂いております。拙者が言うのも僭越でございますが、初版は1958年(最新再版は2021年)と古いながらも、この永原先生の『源頼朝』は、源頼朝という日本中世史上に輝く偉人を通じて、日本中世初期の構造を奥深く知ることができる大作だと確信しています。源頼朝について知りたい方は勿論ですが、荘園制研究についての第一人者であられた永原先生がお書きになられている当時の社会構造に興味がある方々の知識欲を満たす内容となっていると思います。オススメの1冊です。

 1185年(文治元年)11月。当時、日本最大の軍事派閥(鎌倉武家政権)の棟梁となった源頼朝が、後白河法皇が牛耳る京都朝廷に対して、宮廷人事の介入や各国および各公領・荘園に、頼朝配下の御家人たちを「守護」「地頭」として配置、「別段兵糧米5升徴収」を了承させた『文治の勅許』を勝ち取ったことは、前回の記事で紹介させて頂きました。
 源頼朝と鎌倉武家政権は、京都朝廷に守護地頭の設置を認めさせたことで、(名目上は、朝廷直轄の公領を支配する県知事クラス「国司」の存在、公卿や大社寺など荘園領有者として立てつつも)、内実は頼朝が派遣した地頭職が、各公領・荘園の軍事・警察・租税徴収の三権を含める「下地領掌権」が掌握することになったのです。


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 この守護地頭の設置が京都朝廷に公認される以前でも、公家・社寺など「伝統権力側(本家職・領家職、即ち『上司職』)」が、保有する地方在地の荘園を代行管理あるいは寄進する勢力として地頭の旧名と言うべき『下司職』(或いは「公文」)という職が存在しており、その現場職を担当したのが武装農場主たち、即ち東国武士団、後の鎌倉御家人たちでした。
 武士団が担当した下司と地頭、公家などの伝統権力に代わって、農地農村の勧農や租税徴収など管理を担当するという役割は同様なのですが、(前掲のように)地頭の方は、各公領・荘園内の下地領掌権を有し、単なる荘園などの代理管理人的な立場に過ぎなかった下司よりも、強い権限が付与されたのです。
 しかも地頭の人事権(任免権)については、京都朝廷ら伝統権力側は有しておらず、武家の棟梁である鎌倉殿・源頼朝が掌握していたのです。旧態の下司職、即ち荘園の管理人の人事権は、伝統権力側が有しており、公家や寺院の気持ち一つで、自分たちの気に入らない武士や租税未献納など反抗的な武士らを容赦なく下司職から罷免(武士らからすれば領地没収)することが出来ました。
 だから源頼朝が挙兵し、坂東に武家政権を樹立する以前(1180年)、未だ下司職の地位に甘んじていた東国や各地の武士団は、伝統権力ら上司に高い租税を納めた上に、定期的に上洛し、京都朝廷や公家を警固する大番役という無料奉仕を務め、上司層の機嫌を損ねぬように腐心したのであります。

『一所懸命』(己の領地を護るためなら命も懸ける)。

 このあまりにも有名な四字熟語は、一般的に「敵と戦っても自分の所領を護る」という意味合いで理解されていますが、武士たちは弓馬や薙刀を遣う実戦のみで領地を保有していたのではなく、主に伝統権力の上司職との遣り取りで、己らの命を懸けていたのであります。

 荘園の下司職として、伝統権力に酷使され続けてきた社会的弱者であった武士団の地位や力が著しく向上したのは、1185年下旬(文治元年)、源頼朝と鎌倉武家政権が、守護地頭設置の許可を京都朝廷から得た「文治の勅許」以後からであります。源頼朝配下の武士団が地頭として、荘園や公領における事実上の支配権(下地領掌権)が付与されていたことは先述の通りです。

『荘園・公領における事実上の支配権の獲得』
『任免権は武家の棟梁である鎌倉殿が掌握』

 この2つの特権を有する地頭=武士=御家人たちは、今まで自分たちから散々、租税や労力を巻き上げてきた京都朝廷や大社寺の伝統権力に対して意趣返しするかのように、地頭の特権を利用して、荘園・公領から伝統権力に納められるはずの租税を『横取り・着服=濫暴/らんぼう』するようになります。
 源頼朝・源頼家父子の有力側近として文武に活躍し、京都朝廷とも交流があった梶原景時(侍所所司・厩別当、鎌倉殿の13人の一員)、頼朝挙兵以来の有力御家人・土肥実平は、平氏追討の恩賞として、それぞれ播磨国・備前国・美作国といった山陽道諸国の守護・地頭に任命され経営を行っていますが、梶原・土肥らの配下武士たちは、荘園・公領での濫暴が横行し、山陽諸国から租税納入が無くなった朝廷や公家は憤激しています。
 上記の梶原景時・土肥実平といった鎌倉御家人とその眷属者による例があるように、荘園などにおける事実上の統治権・財源の首根っこを、格下の武士(地頭)たちに奪われてしまった京都朝廷など伝統権力者たちは、只々、武士から納められてくる米穀を受け取る存在のみになっているのです。現場監督のごとく、農村経営・租税徴収を一手に握っている地頭の裁量一つで簡単に、京都や奈良に対して経済制裁を加えることが可能になったのです。既得権益を独占していた伝統権力側からすれば、1185年以降の源頼朝と鎌倉御家人らは、全く目障りな存在となったのであります。


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 上記のような伝統権力側(京都)と武士勢力側(鎌倉)のパワーバランスの変遷について、前掲の永原慶二先生は、著作『源頼朝』の中で、『京都と鎌倉との力関係をほとんど逆転させるほどの意義をもっていた。』と書かれておられます。
 伝統権力から見れば、最強の暴力を背景にした鎌倉殿・源頼朝が率いる傍若無人な武士(守護地頭)たちの振舞いに対して、武士ほどの軍事力を有していない後白河法皇ら京都朝廷、比叡山延暦寺など大社寺らは只々泣き寝入りし、流されるがごとく鎌倉武家政権の世に遷っていったのか?その答えは、断じて『NO』であります。
 先述のように、源頼朝が守護地頭設置の許可「文治の勅許」を勝ち取ったのは1185年下旬(文治元年)でしたが、その翌年1186年初旬には、伝統権力側が頼朝、その配下である地頭職に対して一斉反撃に転じます。それほど京都朝廷や大社寺の怒りは大きかったのです。
 当時の京都朝廷政権の首相格にして、親源頼朝派で公卿・九条兼実でさえ、地頭設置について批判的であり、自著『玉葉』にて、『凡そ言語の及ぶ所にあらず』と記しているくらいです。
 それまで、源氏や平氏を巻き込み、何かにつけ互いに反目や内部抗争を繰り返していた後白河院・朝廷(国衙)・大社寺らは、自分たちの経済基盤や既得権益を、源頼朝や武士団に侵害されたことが主因となり、却って結束することになったのであります。
 先ず鎌倉武家政権に対して反攻行動(訴訟行動)を採ったのが、弘法大師によって創建されて以降の名門寺院である高野山です。1185年末から翌年1月にかけて高野山が所有する荘園の地頭職および別段兵糧米5升徴収の停止を訴えたのです。1185年末とは、文治の勅許を下された直後(僅か1ヶ月未満)であり、頼朝の名代として京都朝廷(後白河法皇)と守護地頭について交渉している北条時政が、未だ滞京中の出来事でした。
 また高野山が地頭職・兵糧米徴収の反対運動を活発化させていた同時期、即ち1186年(文治2年)上旬ごろは、高野山と同じように伊勢神宮も、源頼朝に対して地頭職の排斥運動などを活発化、更に後白河法皇ら京都朝廷も大社寺の動きに同調するように、頼朝に対して、兵糧米5升徴収の停止を強請しています。
 上記のように、京都朝廷・大社寺ら伝統権力が結託して、立て続けに地頭職・兵糧米5升徴収の停止を強訴したことに対して、武家政権の棟梁・源頼朝は、どのような対応と採ったのか?
 何と源頼朝は、伝統権力側の主張を認め、高野山の荘園における地頭職停止の措置を行っています。特に、後白河院・大社寺の荘園、京都朝廷の公領(国衙)からの別段兵糧米5升徴収を停止することを頼朝は余儀なくされている有様であります。
 因みに1187年の出来事ですが、「武士の鑑」として有名だった鎌倉有力御家人の畠山重忠(大河ドラマでは中川大志さんが好演されていました)は、伊勢神宮の荘園の1つである伊勢の沼田御厨の地頭職に任命されていましたが、重忠が派遣した代官が荘園で濫暴を働いたことにより、重忠は伊勢神宮側から訴えられてしまいます。結果、畠山重忠は敗訴、一時的ながらも彼は罪人扱いとなり、下総の有力御家人・千葉胤正に身柄を預けられる憂き目に遭っています。
 この畠山重忠敗訴も、伝統権力側(伊勢神宮)が傲然と、地頭職廃止運動を行っていた結果の1つであり、重忠は不運にも、その余波を受けてしまったのです。
 畠山重忠の棟梁である源頼朝は、信頼していた重忠を罪人扱いまでしても、伝統権力側からの地頭職停止の要求を受け入れる態度を示し、彼らに対して「政治的譲歩」を行っているのです。
 
 『これは地頭設置勅許から1月ほどのうちにおこなわねばならなかった重大な譲歩である。しかもこの種の譲歩は、高野山のみならず、伊勢神宮その他の大社寺についてもみられるのであって、兵糧米徴収の停止や地頭の廃止も、事情に応じてかなりひろくおこなったらしい』

 『このような王朝側の反撃にたいして、源頼朝は原則的に、守護地頭の権限を守り抜いているが、具体的な個々の場合については、つぎつぎに後退し、公家側に立ちなおりの機会を与えたことも否定できない。』

 というように、永原慶二先生は『源頼朝』(「5.二つの政権」文中)で書いておられます。源頼朝が、世間に向けて高々と宣言した『天下草創』という武家政権の始まりは、決して順風満帆なるものではなく、それまで国家の支配者層であった院・京都朝廷・大社寺など猛反攻の暴風雨にさらされる出航だったのです。
 
 源頼朝が文治の勅許を獲得した1185年下旬当時は、既に木曾義仲は近江で討死し、平氏も壇ノ浦で滅び、後白河法皇側に寝返った源義経の決起失敗と失脚により、頼朝の鎌倉軍事政権以外の対抗勢力としては、北方の奥州藤原氏が存在していましたが、既に坂東・甲信越・東海、更に畿内をはじめ西国へと勢力を伸張させ、最大の軍事力を把握している頼朝にとって坂東の背後に控える奥州藤原氏は警戒する者ではあるが、鎌倉を滅ぼすほどの勢力ではなかったでしょう。
 即ち、後白河法皇や京都朝廷を圧倒するほどの強大な軍事力を有しながらも、源頼朝は院・朝廷、大社寺の地頭職廃止要求に対して、大きく譲歩する姿勢を採ったのか?という疑問点が浮上してきますが、永原慶二先生は、この頼朝の政治的低姿勢について、『その理由の解明は、頼朝の人物を理解するうえからいっても、きわめて重要な論点の一つである』と記述されたうえで、頼朝が置かれた当時の政治情勢や立場について詳しく解説されているのですが、僭越ながら筆者なりに、以下のごとく箇条書きでまとめさせて頂きました。

1:源頼朝が置かれた政治情勢的の理由
 源頼朝が、守護地頭の勅許を得たにしても、これはあくまでも形式的なものであり、実際の諸国の公領・荘園へ対して、未だ幕府権力が具体的に浸透していないことにより、伝統権力側からの反撃に遭えば、地頭のある程度の後退は止むを得ないという政治的理由。

2:源頼朝が抱えた『鎌倉殿』という微妙な社会的立場

 永原慶二先生は、この理由こそ、源頼朝が伝統権力に対して譲歩した『根本的な理由』とされています。
 東国武士団(武装農場主連合)の協力を得て、反平氏(京都朝廷の中核勢力)の挙兵した伊豆の流人・源頼朝は当初、否応なしに朝廷の反逆者(勅勘)の立場となっていましたが、富士川の戦いで平氏を退け、東国沙汰権を獲得(1183年)した以降、彼とその武士勢力は、朝廷公認の地方政権となり、更に平氏を討滅、守護地頭設置の文治の勅許を得た頼朝は、自身の配下武士団と朝廷・大社寺の伝統権力との政治的衝突(荘園の利権を巡っての利害衝突)を避けるための政治的手腕と妥協姿勢が求められるようになったのです。
 東国沙汰権、次いで文治の勅許を獲得、京都朝廷から公的勢力として認められた源頼朝からすれば、北条・比企・梶原・千葉などの鎌倉御家人たち一辺倒に肩入れし、武士団の利権のみを保証すれば、畿内西国の京都朝廷・大社寺ら伝統権力の既得権益を完全否定することに繋がり、その結果、伝統権力との関係が破綻してしまうことになります。しかし毎度鎌倉御家人の利益的要求を退け、京都朝廷らの既得権のみを立てる態度のみを示せば、御家人の棟梁として君臨している源頼朝は、彼らの信用を失い、忽ち頼朝は、棟梁という地位を放逐されることになるのです。
 源頼朝は、鎌倉武家政権の棟梁でありながら、平氏討滅を果たしたことによって、その遺領/荘園(約500ヵ所)の平氏没官領を受け継いだ「荘園領主」であり、更に京都朝廷から坂東や西海を含む9ヵ国(即ち「関東御分国」)の統治権(知行)を与えられた「国主」でもあったのです。
 各地の公領・荘園を事実上支配し、横領を活発化させる地頭職(武士団)を統括する立場である総地頭職を職掌としている源頼朝は一方で、彼の経済基盤は、京都朝廷や大社寺らと同様、「荘園(関東御分国)」を有することで成り立っていたのであります。
 荘園で濫暴を活発化させる暴力的な新興勢力である「地頭職(御家人たち)の大親分」と公家や大社寺と同じ「国司と荘園領主」という伝統権力側の地位も有するという二律背反(微妙な立場)を抱えていたのが、文治の勅許を得た当時の鎌倉殿こと源頼朝でした。
 先述のように、地頭職に任命された源頼朝配下の御家人や武士たちの公領・荘園内での非行や濫暴(横領)を黙認すれば、京都朝廷など伝統権力側との関係の完全破綻を迎えるだけではなく、公領と荘園の存在を前提として、東国に武家政権を立ち上げ強化してきた源頼朝(鎌倉武家政権)からしてみても、地頭たちの横領で荘園制度が乱されることは、頼朝自身の政権基盤も乱れることに繋がることにもなるので、頼朝は武家政権の棟梁の身の上でありながら、自身の配下である地頭/武士たちの利益優先(即ち、荘園での濫暴)のみを容認することは許されなかったのです。だから当時、源頼朝は、最大の軍事力を有しながらも無力な京都朝廷などからの地頭設置の縮小強請を容認したのは、頼朝と鎌倉武家政権が抱えていた政治体制の二律背反があったからです。
 飽くまでも、源頼朝に課せられた立場は、「武士団と伝統権力側の間に立つ公平な裁定者」というものであり、それが永原慶二先生の言われる『鎌倉殿』という微妙な立場だったのです。
 後白河法皇をはじめとする伝統権力側の守護地頭設置に対する反撃も、源頼朝が抱える微妙な政治的立場を見越した上で行われたようであり、その敵の弱点を衝くという政略駆け引きの妙味を心得ているという点は、約1000年にも渡って伝統政権として君臨し、その政権内での内訌で鍛え上げられた院・朝廷・大社寺の見事さであります。いくら政治的天才と称せられる軍事貴族の源頼朝でも、長年、数々の政略劇を演じている海千山千の伝統権力側からの反撃には苦戦したのであります。
 後年、後鳥羽上皇の懐刀として登場し、最晩年の源頼朝と九条兼実との離間策を成功させる源通親(土御門通親)などは、権謀に長けた伝統権力側が産んだ鬼っ子の1人ではないでしょうか。

 因みに、この公領・荘園存在を容認した上、それらの管理代行業を司る名目で、武家が政権を確立したのは、源頼朝の鎌倉幕府に続き、同じく源氏一門(門葉)の北関東の有力御家人・足利尊氏が京都に創設した室町幕府も同様なのですが、その初代将軍である尊氏、彼の盟友・佐々木道誉(近江源氏)、尊氏の筆頭側近(執事)である高師直たちは、鎌倉の頼朝よりも、朝廷や大社寺に対して伝統権力に対してドライの態度が強く、尊氏は自分の政権保持のためなら、自身が奉戴した北朝方(持明院統)は勿論、宿敵である南朝方(大覚寺統・後醍醐天皇)をも、政治的に利用しています。
 足利尊氏の側近である高師直に至っては、『上皇・天皇は木や金で造って御所に安置し、生きた上皇たちは島流しにしてしまえ』(「太平記」)という伝統権力の筆頭である上皇や天皇を完全無視する発言をしたことは有名です。
 バサラ大名として有名な佐々木道誉も、天皇家に連なる妙心寺門跡・亮性法親王の御所を、些細な揉め事で焼き打ちにするという大事件を起こすという伝統権力を軽視する行動を採ったことも、また有名であります。
 
 東国武士団出身である足利尊氏が活躍した14世紀中盤の時代は、武士政権が承久の乱や元寇での蒙古軍の撃退といった大きな戦績を挙げ、武士の社会的地位が向上していたので、尊氏や高師直はその分、自分たちの力に対して強い自信があり、伝統権力よりも武士団ファーストという態度を採ったと思われるのですが、武士の草創期である13世紀末の源頼朝は、後年の尊氏たちのように武士団の利益を優先させるほどの強気には出られませんでした。
 13世紀末は、東国を中心とする武士団がようやく勃興した初期段階であり、未だ後白河法皇が主導する政治力(院政)、京都朝廷や大社寺の伝統権力が強大であり、源頼朝を棟梁とする新興勢力の武士勢力(それまで武装農場主たち)が、守護地頭設置の許可により飛躍的に社会的地位が向上したとは言え、一足飛びに伝統権力を完全凌駕することは容認されないものだったです。また鎌倉殿として武家の棟梁である源頼朝も終生、朝廷・宗教といった古代権威に畏敬の念を抱き、それらを完全に敵に廻して、朝廷たちを上回る武家政権を樹立するということは、考えもしなかったこともありましたが。
 
 『本来一介の流人から叛逆者となった頼朝が、東国の行政・裁判権を獲得すること自体すでに革命的な事件であり、(中略)、地頭制についても、全面的な後退を行ったわけではないから、ここで頼朝の弱腰を問題とするのは当たらず、かえってそこまでおしすすめた彼の積極的側面をこそ評価すべきといえるかもしれない』

 永原慶二先生は、『源頼朝』(「政治的分野の限定」文中)で以上のように、頼朝の政治展開の積極さを評価されています。
先述のように、京都朝廷など伝統権力の断然なる社会的優位性、御家人たちの公領荘園での横領が横行する不安定な状況の中、源頼朝は、後白河法皇の政治外交の失策(源義経の擁護、頼朝追討の院宣)に付け入るような形で、頼朝麾下の武士団を守護地頭として、各地の公領荘園に配置することにより、鎌倉幕府を嚆矢とする後々までの武士政権の礎を築いた歴史的役割の大きさは、間違いありません。
 鎌倉殿・源頼朝は、自身の拠って立つ勢力である東国武士団(鎌倉御家人)の地位向上の便宜を図りつつ、公領荘園で武士(地頭)の横領濫暴が横溢すると、それを抑圧および廃止することを敢行し、京都朝廷ら伝統権力との正面衝突を回避したのであります。
 この伝統権力と武士の2つの間の「公平なる利害調整役」は、鎌倉殿の重要な役目の1つであり、政治調整能力に長じていた源頼朝と彼が京都朝廷の下級官吏出身者であった中原親能や大江広元・三善康信が文官側近として鎌倉武家政権に存在したからこそ、上手く機能したのでありますが、昔日、流人に過ぎなかった頼朝を推戴した東国武士団にとっては、頼朝の朝廷への気遣いや大江広元などの京都下りの文官側近を中心とする武家体制には、賞賛できるものではなかったのです。
 既述のように、長年にわたり京都朝廷(平氏一族)や大社寺の公領荘園を管理する下司職として、伝統権力に経済・労力で圧迫を受けてきた武士団は、源頼朝を旗頭として仰ぐことによって自分たちにとって都合の良い勢力を築いたことを足掛かりにして、のちに守護地頭の設置許可が朝廷から下り、多くの公領荘園における事実上の統治権を獲得したことにより、朝廷ら伝統権力(荘園領主たち)への租税を横取りする経済制裁を加え、遂には荘園や公領を、排他的に支配も武士団は目論むようになります。
 この武士たちの動きが『一円領主化』と呼ばれ、後の室町中期から戦国期にかけての武士団(国人衆)が活発化させることは周知の通りですが、未だ武士の黎明期で、未だ強い影響力がある京都朝廷ら伝統権力との調整役をも担う武家の棟梁・源頼朝にとっては、守護地頭として各地に配した御家人ら武士たちが、伝統権力を蔑ろにし、荘園や公領を横領して一円領主化を推進することは看過できず、伝統権力からその反発を受けると武士たちを抑圧したこともあったのです。その一例が、前掲の畠山重忠の敗訴であります。
 源頼朝からしてみれば、伝統権力と無用な衝突を避けるために、地頭(武士)側に非道理なことがあれば、それを公平に裁いたというものであったに違いありませんが、抑圧された武士側からしてみれば、以下のように思ったことでしょう。

「武士の利権を確保するために、我々が推し立てた鎌倉殿であるのに、源頼朝様は、朝廷や寺社に肩入れされ、武士たちの利権を阻害するのか?」

 東京大学史料編纂所教授・本郷和人先生の言を拝借して述べさせて頂くと、源頼朝とその武家政権は『御家人に御家人のための御家人による政治(御家人の財産確保や利益保証)』であるはずなのに、御家人の総元締めであるはずの源頼朝は、伝統権力側の一部地頭廃止を受け入れるように、完全に御家人の味方をしてくれない。これでは何のために源頼朝を推し立て、東国に武士の独立勢力を築いたかわからなくなるではないか。
 「一所懸命」を旨に、己が本領の安堵、新地の獲得、そして一族の繁栄のみに執着を示す武士団(御家人たち)にとっては、上掲のような源頼朝が腐心している伝統権力と武士団との政治バランスを完全に理解することは能わず、鎌倉殿こと源頼朝、彼の文官側近には、少なからず不満を抱き続けたのであります。
 そして、永原慶二先生はこの武士団の不満が、源頼朝急逝後に源頼家が2代目鎌倉殿に就任した直後、それまで頼朝とその文官側近が独占していた土地訴訟の裁断権を取り上げ、比企能員・北条時政を双璧に、三浦義澄など有力鎌倉御家人による13人の合議制、即ち『鎌倉殿の13人』が誕生することになったと結論づけられています。
 御家人による御家人のための政治。当初は、武士団にとっては崇高な政治方針によって結成されたかもしれませんが、結局は自分自身の利権のみに執着する暴力的な武士たちが寄せ集まった内閣に過ぎないので、忽ち内部抗争が勃発。それに加え13人の御家人たちに独裁権を没収され憤激していた2代目鎌倉殿・源頼家が加わり、鎌倉殿(源氏将軍家)や頼朝挙兵以来の御家人たちが粛清されていく抗争が展開していくのは周知の通りであります。
 カリスマ棟梁・源頼朝が急逝したことにより、微妙に保たれていた御家人同士の勢力バランスが、わずか数年にして一挙に崩落したのは事実であり、この乱れが最終的に鎌倉武家政権と伝統権力の首魁である京都朝廷との決裂まで至ることになるのであります。
 現在(2020年10月下旬)、筆者がこの記事を執筆させて頂いていますが、ここ最近のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の展開は、小栗旬さん演じる主人公・北条義時が権謀の才を開花させ、自分の父である北条時政(演:坂東彌十郎さん)を含め、自分に仇をなす政敵(坂東武士の仲間たち)を容赦なく葬り去るというダーク義時の存在感が、SNS上(世間)を騒がせていますが、これも全ては、初代鎌倉殿・源頼朝が抱えていた武士団と京都朝廷との微妙なバランス、朝廷・大社寺ら伝統権力からの守護地頭への猛反撃に対して大きく譲歩し、武士団の利権を抑圧したことが発端となっています。
 守護地頭の一部廃止という政治的勝利によって勢いを盛り返した京都朝廷が、後白河法皇の孫に当たる後鳥羽上皇主導による鎌倉武家政権潰し、即ち1221年(承久3年)の承久の乱を引き起こさせる契機をつくることになります。
 しかしながら鎌倉御家人たちが、源頼朝に対して不満を抱きながらも、また同時に強い恩義を感じていたことは、御家人たちが結束して、日本史上初となる最強叛乱軍となり、承久の乱で後鳥羽上皇の官軍を鎧袖一触によって撃破した戦績を以ってしてもわかります。
 そして史上初、京都朝廷(官軍)を圧倒した鎌倉武家政権(北条義時率いる御家人政権)は、後鳥羽上皇が領有していた豊穣な西国地方を中心とする約3000ヵ所にも及ぶ膨大な荘園をはじめ、朝廷方に参戦した公家や西国武士たちの領地も没収し、それらを承久の乱で戦功があった御家人や武士たちに恩賞として与えたのであります(名目上は、御家人たちを新補地頭職として任命)。
 これにより、京都朝廷をはじめとする伝統権力の断然優位という情勢は、完全に逆転し、名実ともに鎌倉武家政権は、守護地頭を全国規模に設置を行う全国武士政権に成長したのであります。武士の利権が伝統権力の既得権を上回る「武士ファーストの時代」が到来したのであります。
 この当時の鎌倉武家政権の事実上の総帥であったのは、ご存知のように御家人同士の内部抗争の勝利者である晩年期の北条義時であります。俗に源頼朝が武士政権の礎を築き、北条義時がそれを完成させた人物。というように、時折称えられることがありますが、その理由は、最終的に義時が、頼朝一代で果たしえなかった京都朝廷を超越する武士政権の世を完成させたからであります。


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 筆者の学生時代の授業では、源頼朝と鎌倉御家人は、強固な主従制(御恩と奉公、封建制)によって、一糸乱れぬ絆で結ばれていた上、守護地頭の設置(1185年)、源頼朝の征夷大将軍就任(1192年)を経て、完全に京都朝廷(公家)の政権は終焉し、この後は武士政権の世が到来したように、教えられたものですが、事実はそう簡単なものではなく、頼朝と鎌倉御家人の間は決して一枚岩ではなく、その結果、頼朝死後の源氏将軍家の血脈は絶え、御家人同士の激しい内部抗争が興ったのです。また対外的問題では、それまで日本国の統治者として君臨してきた伝統権力・京都朝廷や大社寺らが、頼朝主宰の新興勢力・武士団の前に大きく立ちはだかり、守護地頭の設置を妨害したのであります。
 永原慶二先生が言われるように、流人から身を興し、一大武家政権を築き上げるという革命的行動を起こした日本中世の偉人・源頼朝ではありますが、彼一代で築き上げた武士政権が、古代から残る伝統権力の権威を降すことは困難であり、この課題を解決したのは、先述のごとく東国武士出身の北条義時であり、更に言えば、頼朝・義時の世代で創始した武士政権の統治を、内部から法典(有名な御成敗式目)や本格的合議制(「連署」や「評定衆」の設置)によって洗練および強化したのが、義時の庶長子である北条泰時、その異母弟である北条重時(極楽寺重時とも。義時三男)たちではないでしょうか。
 これは飽くまでも筆者の愚見ではありますが、戦国期は織田信長豊臣秀吉・徳川家康の三英傑によって終止符が打たれたように、彼らが躍動した武士の世は、中世初期の源頼朝・北条義時・北条泰時の三世代によって確立されたように思えるのであります。

(寄稿)鶏肋太郎

源頼朝と源義経との確執の発端『立場』に対する認識のズレ
源頼朝と東国武士団の政治スローガン天下草創と文治の勅許
源頼朝と東国武士団たちの挙兵の目的は「平氏討滅」と「西国政権」からの独立戦争であった

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