【鎌倉殿の13人】三浦氏の興亡と2つの城~「衣笠城」と「新井城」を探究する

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概要

2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で北条義時の生涯の盟友である三浦義村を山本耕史が熱演している。
三浦義村は相模国(神奈川県)の名族・三浦氏の嫡流・三浦義澄の子として生まれ「平六」と称した。
源頼朝没後、鎌倉幕府の有力御家人として北条義時と協力しながら、幕府権力の拡大に努めた。
三浦義村が生まれ出た三浦氏は、平安時代後期から相模国の三浦半島を拠点に勢力を振るった。
1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵した時、三浦義明はそれに応じるが、石橋山合戦に間に合わず平家方の畠山重忠らと戦い敗れた。
三浦義明は衣笠城(横須賀市)に籠城し、一族を安房国(千葉県)に逃したあと、一人城に残って89歳で討死する。


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鎌倉時代になると、三浦氏は鎌倉幕府の有力御家人として、北条氏と並ぶ権勢を誇ったが、1247年(宝治元年)の宝治合戦で三浦泰村らが敗れ、三浦氏の嫡流は滅亡した。
その後、一族の佐原盛時が三浦氏を再興し、南北朝時代、室町時代と勢力を拡大して戦国時代を迎える。
しかし、1516年(永正13年)7月、伊勢宗瑞(いせそうずい・北条早雲)により本拠の新井城が落城し相模国の名族・三浦氏は滅亡した。

本稿では、平安時代後期から滅亡までの三浦氏の動向を整理しながら、三浦氏にとって重要な城である衣笠城と新井城について、その歴史や特徴、歴史的価値などについて探究する。

三浦氏の登場から滅亡まで

三浦氏は桓武平氏の系統で、平良文(よしぶみ)の孫である平忠通(ただみつ)の子・為通(ためみつ)の代に初めて三浦を名乗ったとされている。
その三浦為通は前九年合戦(1051年-1062年)で武功を挙げ、源頼義から相模国三浦に領地を与えられた。
ただし、数種類現存する三浦氏の家系図の中に三浦為通の名が記載されていないものもあり、その他信頼性が低い史料にしか見られないことから実在を疑う説も強い。

三浦氏が史料的にも歴史の表舞台に登場するのは、平安時代後期の後三年合戦(1083年-1087年)の時からである。
この合戦に三浦為継(ためつぐ)が従軍して功を立て三浦氏発展の基礎をつくった。
その後、三浦氏は三浦義継(よしつぐ)、三浦義明(よしあき)、三浦義澄(よしずみ)を経て三浦義村(よしむら)、三浦泰村(やすむら)と続いた。

三浦義継は相模国三浦郡を支配し、三浦荘司または三浦介と号し、相模国東半分と安房国で勢力を振るった。
また、その子や孫は相模国の各地に所領を得て、その地名から津久井氏、蘆名(あしな)氏、岡崎氏、佐奈田氏、土屋氏を称した。

三浦介と号した三浦義明は、保元の乱(1156年)・平治の乱(1160年)では源義朝に従い、平治の乱の敗戦後も源氏との繋がりを保った。
1180年(治承4年)8月、源頼朝に応じて三浦義明も挙兵するが、石橋山合戦の敗戦により平家方の畠山重忠らと戦い敗れた。
三浦義明は衣笠城(神奈川県横須賀市)に籠城し、一族を安房国(千葉県)に逃したあと、一人衣笠城に残り89歳で討死した。

三浦義澄は源頼朝からの信頼が厚く、千葉常胤(つねたね)・上総広常(ひろつね)・土肥実平(さねひら)らとともに源頼朝の宿老となり、平氏追討や奥州合戦に参戦し武功を挙げた。
源頼朝の死後は2代将軍・源頼家を補佐する13人の合議制のメンバーとなった。
それには一族で侍所別当の和田義盛も入り、三浦一族は鎌倉幕府内で大きな権力を持つこととなった。


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三浦義村は源頼朝没後の鎌倉幕府において、北条義時と協力してライバルを排斥しながら有力御家人として権勢を高めた。
1213年(建保1年)、従兄弟に当たる和田義盛が北条義時に対して挙兵した際、三浦義村は和田義盛に味方するという起請文を書きながらも北条方に味方し、和田一族を滅亡させた。
1219年(承久1年)、3代将軍源実朝公暁(くぎょう)によって暗殺された時にも、三浦義村は公暁に味方すると偽り公暁を討伐している。
1221年(承久3年)の承久の乱では、後鳥羽上皇方についた弟・三浦胤義(たねよし)の誘いを受けるが応じず、鎌倉幕府軍の大将軍として三浦胤義らを討ち、戦後処理でも活躍した。
1224年(元仁1年)、北条義時の没後、後家の伊賀氏が娘婿の一条実雅(さねまさ)を将軍にしようとした伊賀氏の変にも三浦義村は関わるが、北条義時の嫡子・北条泰時を支持した。
1225年(嘉禄1年)12月、3代執権・北条泰時の下、評定衆が設置されると、三浦義村もその一員となり合議制を担い、1239年(延応1年)12月に没する。
三浦義村は北条義時の盟友でありながら、時々で北条氏に敵対する勢力に頼られるが、結局はそれを裏切り続けたのである。

三浦義村の跡を継いだ三浦泰村は1247年(宝治元年)、弟の三浦光村とともに5代執権・北条時頼や安達景盛(かげもり)に対して鎌倉で挙兵するが、三浦軍は大敗した。
追いつめられた三浦泰村は妻子や一族郎党と共に鎌倉の法華堂で自害し、三浦氏の嫡流は滅亡した。

宝治合戦の後、三浦氏は三浦義明の十男である佐原義連(よしつら)の流れをくむ三浦盛時(もりとき)により再興された。
その佐原系三浦氏は北条氏の被官的立場にあってその勢力は後退したが、南北朝の動乱を機に勢力を回復し、一時的ではあるが、相模国守護職に任じられている。
その後、足利氏と対立して衰えたりしたが、15世紀半ば以降の関東の争乱に乗じて、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の重臣となった。
三浦時高(ときたか)の代には主君である上杉持朝(もちとも)の次男・高救(たかひら)を養子に迎え、三浦半島から相模国中部へと勢力を拡大していった。

しかし、三浦高救の子の三浦義同(よしあつ)、法名・道寸(どうすん)の代になると、伊勢宗瑞(いせそうずい・北条早雲)による相模国への侵攻が本格化する。
三浦義同と子の三浦義意(よしおき)は1512年(永正9年)以降、岡崎城(平塚市・伊勢原市)で伊勢宗瑞を迎え撃つが敗れ、三浦半島の新井城(三浦市)に籠城した。
1516年(永正13年)7月、新井城は兵糧が尽きて落城し、三浦義同・三浦義意の父子は城から討って出て討死か自刃し、相模国の名族・三浦氏は戦国時代を迎えることなく滅亡した。
ただし、佐原義連の孫で奥州会津(福島県会津若松市)に移住した三浦光盛(みつもり)の系統は、蘆名(あしな)氏を称して戦国大名へと成長していく。

三浦氏初期の城・衣笠城

横須賀市衣笠の大善寺(曹洞宗)の裏山に位置する衣笠城は、前九年合戦(1051年-1062年)での戦功により源頼義から相模国三浦に領地を与えられた三浦為通が康平年間(1058年-1065年)に築いたとされている。
その後、衣笠城は三浦氏の本拠地となり、三浦氏の勢力拡大とともにする増築されていった。
1180年(治承4年)8月、源頼朝が挙兵すると、三浦義明らの三浦一族は源頼朝の下に馳せ参じようとした。
しかし、大雨による増水のために石橋山の戦いに間に合わず、衣笠城に戻る途中で平家方の畠山重忠軍と小坪(逗子市)で戦った。
畠山勢は一度敗退するが、河越重頼(しげより)・江戸重長(しげなが)らの加勢を得て盛り返し、三浦一族は衣笠城に籠城した。
大手の東木戸口に三浦義澄・佐原義連、西木戸口には和田義盛らが布陣したが、畠山勢に攻め込まれて衣笠城は落城、89歳の三浦義明は一人城に残って討ち死にし、三浦一族は房総半島に逃れた。
三浦氏が鎌倉幕府の有力御家人としての地位を得ると、衣笠城は再び三浦氏の本拠となるが、1247年(宝治元年)の宝治合戦で三浦泰村らの三浦氏の嫡流が滅亡すると廃城となった。

衣笠城は大谷戸川と左手の深山川に挟まれ東に突き出た半島状の丘陵一帯に所在した。
『新編相模国風土記稿』には「頂上に金峯蔵王神社あり、此所本城の蹟と云、南へ下ること若干歩にして平地あり、こゝを二丸の蹟と云、則 執不動の堂地なり、東面を大手口と云り」とある。
丘陵状の一番裾が大手口で、ゆるやかな坂を登ると滝不動に至り、水の便の良いこの附近の平場に居館があったかと推定され、一段上に不動堂と別当大善寺がある。
その裏山の頂上がこの城の主郭であったと伝えられ、現在、「衣笠城址」の碑が建っている。
その西方の最も高い場所には、「物見岩」と呼ばれる大岩があり、その西は急峻な谷になっている。
その大岩の下から大正時代に、銅製経筒(きょうづつ)・白磁水滴(はくじすいてき)・白磁合子(ごうし)・銅製草花蝶鳥鏡・火打鎌・刀子(とうす)残欠などが発見された。
平安時代末期の経塚(きょうづか)で、三浦一族に関するものと推測されている。
なお、白磁水滴・白磁合子は景徳鎮窯(けいとくちんよう)のもので、東京国立博物館に保管されているという。

現在、衣笠城の遺構としてはわずかに井戸、堀跡が残るのみで土塁や堀切などは確認できない。
『源平盛衰記』には、籠城する直前に三浦義明が「堀切」の造成や「木戸」、「逆茂木(さかもぎ)」、「掻盾(かいだて)」、「矢倉」の構築を指示したことが記されている。
これらのことから、衣笠城は、要害の地形を利用して立て籠り、敵の進撃路に防備を施したものと考えられている。

衣笠城は前述したように、1180年(治承4年)8月に一度落城したが、鎌倉時代に三浦義村らが有力御家人として勢力を拡大すると、再び三浦氏の本拠地として機能した。
三浦半島の各所に一族が分立し、鐙摺(あぶずり)城(葉山町)、芦名(あしな)城・大矢部城・佐原城・怒田(ぬた)城・小矢部城(いずれも横須賀市)などの城が衣笠城を取り囲むように分布している。
しかし、これらの城と衣笠城の関係については史料的な裏付けが乏しく、今後の調査が必要である。

また、衣笠城の周辺には、以下のような三浦氏ゆかりの史跡や文化財が集中している。
【満昌寺(臨済宗)・御霊神社】三浦義明の坐像(国重要文化財)・廟所
【薬王寺跡】三浦義澄の墓
【清雲寺(臨済宗)】三浦為通・三浦為継・三浦義継の廟所
【浄楽寺(浄土宗)】和田義盛の創建、運慶作の阿弥陀三尊像(国重要文化財)
【満願寺(臨済宗)】佐原義連の墓と伝わる五輪塔
衣笠城やその周辺部が相模国の名族・三浦氏の本拠地であったことを知ることができる。

三浦氏終焉の城・新井城

新井城は三浦半島の西岸、小網代(こあじろ)湾と油壺湾の間に突出する標高約26メートルの岬状の高台に位置する。
城主の三浦氏は鎌倉時代中期の宝治合戦(1247年)で嫡流は没落し、三浦氏の系統は一族の佐原盛時が継承したがその勢力は弱まった。
その後、南北朝期の動乱を経て勢力を盛り返し、15世紀半ば以降は扇谷(おうぎがや)上杉氏の重臣として三浦半島から相模国中部へと勢力を拡大していった。

16世紀になると伊勢宗瑞(北条早雲)による相模国への侵攻が本格化した。
三浦義同(道寸)・三浦義意の父子は、1512年(永正9年)以降、岡崎城で伊勢宗瑞を迎え撃つが敗れ、新井城に籠城した。
籠城の前は新井城の東方約3kmの引橋を中心に尾根を掘りきり、防衛線を構築したがそれを破られ、新井城に籠ったという。
1516年(永正13年)7月、新井城は兵糧が尽きて落城し、三浦父子は討ち死にか自刃したという。
なお、「油壺」の地名は、城の入江が城兵の血で油を流したようになったことによるという伝承がある。

新井城について『新編相模国風土記稿』には、「東を首とし西を尾とす、北は網代湊南は油壺の入江にして海中に突出せること三十町許、(中略)東の一方のみ陸に接す、則大手の跡にして其地を引橋と号す、(中略)籠城の時橋を引、疏鑿(そさく)して海水を ふれば柵域一箇の島 となれり」と記されている。
三浦城は小網代湾と油壺湾に挟まれた小さな半島の先端部に築かれ、北・西・南側は崖面が切り立ち、東側は現在、「内の引橋」と呼ばれている所を掘り切って、そこに引橋が架けられていた。

現在、新井城は観光施設などによって破壊されているが、東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所(以下、「東大臨海実験所」という)の敷地となっている当時の主郭一帯には堀切や土塁が良好な状態で残されている。
その主郭の中心部で1992年(平成4年)に東大臨海実験所の新研究棟建設に伴い、発掘調査が行われた。
この発掘調査では、大型掘立柱建物跡1基、底面に浜砂を敷き詰めた大型竪穴状遺構1基、溝状遺構2基、土坑3基、円形土坑1基、掘立柱穴列3基などの遺構が発見された。
出土遺物には、かわらけのほか、瀬戸窯の小皿・摺鉢(すりばち)・天目茶碗、常滑窯の大甕の破片、中国明代の青磁・青花磁器などの貿易陶磁、多数の管状土錘などがある。
また、長辺約2m、短辺約1m、深さ約5.9mを測る土坑の底からは、大量の人骨が出土しており、大型竪穴状遺構の焼土層からは多量の鉄釘(くぎ)も出土している。

発掘調査の成果として、①土塁で囲まれた郭内で複雑に配置された空堀の存在を確認したこと、②郭内で大型掘立柱穴建物跡や、底面に浜砂を敷き詰めた他に例をみない大型竪穴状遺構などの建築遺構群を確認したこと、③土坑に投棄された大量の人骨や大型竪穴状遺構の焼土は、出土遺物の年代から『北条五代記』などの文献史料に記された1494年(明応3年)と1512年(永正9年)~1516年(永正13年)の合戦記事を裏付けていること、の3点があげられている。
新井城の主郭は良好な状態で保存されており、発掘調査によって多くの建物遺構が発見され、文献史料に記された合戦記事が考古資料によって裏付けられた点でも貴重な城である。


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なお、新井城の周辺には三浦義同(道寸)・義意父子の墓をはじめ、三浦義同(道寸)ゆかりの海蔵寺(曹洞宗)・永昌寺(臨済宗)・真光院(浄土宗)、そして白髭神社がある。
また、三浦氏の本拠地を「三崎要害」と記している同時代の史料もあり、新井城と三崎城(神奈三浦市)との関係について検討する必要がある。

三浦氏の歴史を知る2つの城

衣笠城は相模国の名族・三浦氏の初期の本拠地であり、源頼朝の挙兵し石橋山合戦(1192年)で敗れた際、三浦一族が籠城した。
三浦一族は畠山軍らの前に持ちこたえられず、89歳の三浦義明は一族を逃して一人討ち死にした。
いったん安房国に逃れ再起した源頼朝は、この三浦義明の行動に恩義を感じ、三浦氏を重く用いるようになったと考えられ、衣笠城は三浦氏が勢力を拡大していくきっかけとなった城と言える。
衣笠城は、縄張りや遺構の特徴や、衣笠城を取り囲んで所在する鐙摺城、芦名城などとの関係について不明な点が多く、今後、発掘調査などの総合的な調査・研究が必要である。

新井城は戦国時代初期、伊勢宗瑞(北条早雲)による相模国への侵攻によって落城した、三浦氏終焉の城である。
現在、新井城の跡は観光施設や東京大学の施設などが建っている。
東大臨海実験所の敷地となっている主郭部分は、堀切や土塁などの遺構が良好な状態で保存されており、発掘調査によって貴重な成果が得られている。
その主郭部分は立ち入り禁止となっており、毎年5月末に開催される「道寸祭り」の際に一般開放される。

衣笠城は相模国の名族・三浦氏発展のきかっけとなった城、新井城は三浦氏終焉の城として、2つの城の歴史的価値は高いものと考える。
今後、三浦氏の研究を深めていくには、衣笠城・新井城など三浦氏ゆかりの城館や史跡についてより一層の調査・研究が必要であると考える。


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<主な参考文献>
蘆田伊人 編集校訂 1980年『新編相模国風土記稿 第二巻』雄山閣 
関 幸彦、他 2017年『相模武士団』吉川弘文館
平井 清、他 1980年『日本城郭大系 第6巻』新人物往来社
武藤康弘 1993年「6.三浦市新井城趾」『第17回 神奈川県遺跡調査・研究発表会 発表要旨』pp.19-22 神奈川県考古学会・秦野市教育委員会・神奈川県教育委員会編

(寄稿)勝武@相模
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