真田父子も攻めた「忍の浮き城・忍城」~その歴史と現状~

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概要

豊臣秀吉小田原攻めにおいて、北国勢に属した真田昌幸と信幸・信繁父子は「鉢形城」(埼玉県大里郡寄居町)攻めに参加した後、浅野長吉(長政)とともに「忍城」(埼玉県行田市)攻めに参加した。

「忍城」は室町時代中期に成田氏によって築城されたと伝えられており、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防に守られた要害堅固な城で、「関東七名城」の一つである。
2012(平成24)年11月公開の映画『のぼうの城』(和田竜原作)で描かれたように、石田三成を総大将とする豊臣方が水攻めをおこなったことで「忍の浮き城」の名で知られている。





「忍城」へのアクセスは、秩父鉄道「行田市駅」から徒歩約12分、JR高崎線「行田駅」からバスで「忍城祉・郷土博物館前」停留所下車、などである。

築城から小田原攻めまで

「忍城」は、その地の豪族であった成田氏によって築城されたが、その時期については、明確ではなく文明年間(1469~86年)の初め頃と考えられている。
その後の歴史は、上杉謙信の関東進出に大きく関わり、1559(永禄2)年、上杉謙信が関東に遠征してくると成田氏は恭順し、1561(永禄4)年の謙信による小田原城攻めの際には、当時の城主であった成田長泰が参加している。
しかし、謙信が鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を挙げた直後に離反し、1574(天正2)年、「忍城」は上杉勢により包囲され、城下を放火されるが持ちこたえている。

1590年(天正18)年、豊臣秀吉による小田原攻めの際、城主の成田氏長は小田原城に籠城していており、「忍城」には、成田泰季(氏長の叔父)を城代とし、約500人の侍や足軽に加えて雑兵、農民、町人など約3,000人が立てこもったという(『忍城戦記』など)。
攻める豊臣方は、石田三成を総大将に大谷吉継長束正家ら、それに真田昌幸と信幸・信繁(幸村)父子も加わった。
丸墓山古墳(埼玉古墳群)に本陣を置いた三成は、羽柴(豊臣)秀吉による「備中高松城」(岡山県総社市)の水攻めに倣い、近くを流れる利根川を利用して総延長28kmに及ぶ石田堤を建設し「忍城」を水攻めにした。

その様子は1810(文化7)年に小沼十五郎が著した『成田記』に次のように記されている。
1590(天正18年)6月6日に豊臣方の2万3千の大軍が「忍城」を完全包囲し、11日に総攻撃をおこなうが落とすことができなかった。
総大将の三成は水攻めを策し、7日間で白川戸の最明寺から丸墓山、堤根、吹上、久下へかけて、一大堤防を築き水攻めを進めた。
一方の城方は、16日に夜陰に乗じて下忍口から水泳の達人10数人を出し、堤防を切り崩したので、豊臣方の陣地に濁流が流れ込んだ。
豊臣方は7月1日、真田昌幸・信繁(幸村)父子が援軍に来て持田口を攻撃、木の柵の出張(でばり)をよじ登り攻め入ったが、守兵もよく戦い持田口を守り抜いた。
4日、信繁(幸村)は馬に乗り、赤白の陣羽織を着て陣頭に立ち攻めたてるが、夕闇を迎えて敵は引きあげた。
そのとき、城方は本丸から甲斐姫が駈けつけ、「敵大軍たりとも臆するな」と全軍を叱咤して応戦したという。

以上のうに、「忍城」の攻略は、城方の城兵や農民、町人らは耐え抜き、三成が策した水攻めは失敗し、「忍城」は北条氏政・氏直父子が降伏したことを受けて開城したのである。

小田原攻め後の「忍城」

後北条氏が滅び、徳川家康が関東に入部すると、「忍城」には家康の四男・松平忠吉が入城した。
1639(寛永16)年に老中・阿部忠秋が城主となると、城郭の拡張整備が進められ、往事の縄張りは1702(元禄15)年ごろに完成したと考えられている。
その後、1823(文政6)年に阿部氏が白河に移り、桑名から松平氏が入り明治維新を迎えた。





明治維新後の「忍城」は、1871(明治4)年の廃藩置県で忍県が設置されると、二の丸に県庁が置かれたが、その後、城内の構造物の大半が撤去され、城跡は成田公園(後に忍公園)として整備された。
1949(昭和24)年10月に本丸跡に「行田市本丸球場」が造られたが後に移転し、その跡地に1988(昭和63)年2月、「行田市郷土博物館」が開館し、「忍城」に関する城絵図や出土品などが展示されている。
その際、「御三階櫓」が博物館の一部として「忍城鳥瞰図」や文献などをもとに鉄筋コンクリート構造で復興されたが、位置や規模は史実とは異なるという。

「忍城」の現状

現在の「忍城」は、その一部が公園化されているが、大半が市街地として開発され、現存する遺構は「諏訪郭」のみである。
「諏訪郭」は、高さ約3mの土塁が西から北・東へと延びており、西側に東照宮、東側には諏訪神社が祀られている。
土塁は北東部の残存が良好で約10mの幅があり、中央部は木戸があったためか切れており、そこから郭を出ると左右に幅3mほどの水堀が巡る。
「忍城」の現存建造物は国道125号線と接する土塁上に、1952(昭和27)年に移築された「時の鐘」が残るのみである。





「忍城」に関係する発掘調査は、1988(昭和63)年に開館した「行田市郷土博物館」の建設に伴い、本丸と「諏訪郭」で実施された。
その結果、絵図に見られる堀や橋、本丸内の暗渠排水遺構が確認され、15世紀末から17世紀初頭の土器、陶磁器、板石塔婆、漆器、曲物、下駄のほか近世の瓦などが出土している。
それらのうち、橋は発見された木杭から、15世紀末から16世紀の掛け橋で、堀を埋めて堀幅を狭くして架橋してることが確認されている。
また、平成30年6月から9月にかけて実施された「中通南遺跡」(行田市大字堤根字中通)の調査では、石田三成による「忍城」攻めの際に築かれた石田堤の一部と考えられる盛土の跡が確認されている。

(寄稿)勝武@相模

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