武田・北条が争奪戦を展開した深沢城~真田信伊も攻めた城~

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深沢城とは

深沢城(静岡県御殿場市)は馬伏(まぶせ)川と抜(ぬけ)川とが合流する地点、若干の起伏をともなう平地部に位置する。
周囲の地形は城を築く場所としては相応しくなさそうだが、足柄地方や甲州から駿東方面へ入る交通の要衝であった。

深沢城は1568年(永禄11年)に武田・北条・今川氏による甲相駿三国同盟が破れた後、北条氏と武田氏との間で激しい争奪戦がおこなわれた。
この争奪戦において、真田幸綱(幸隆)の第4子で真田昌幸の弟にあたる真田信伊(のぶただ)が武田信玄下の部将として華々しい戦功をあげている。
深沢城は最終的には武田氏の持ち城となって改修されたため、「丸馬出し」など武田氏の築城技術が随所にみられる。




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深沢城への交通アクセスは、JR線の御殿場駅より、バス15分の「宮沢橋」で下車、徒歩2~3分で城跡碑につく。

深沢城の歴史

深沢城の築城については、16世紀初頭に今川氏によって築かれたという説と、それ以前から葛山(かつらや)氏の一族である深沢氏の城館があったとする説もあり、定かではない。
深沢城が確かな史料にみられるのは『上杉年譜』の1569年(永禄12年)6月の記事である。
それは「去る(六月)十六日、駿州ノ内深沢ノ地ニ、信玄甲信ノ軍士ヲ引率シ来レリ、然レドモ此ノ新塁(新城)ニ、北条左衛門大夫(綱成)、松田尾張守以下楯籠ル間、縦ヒ幾ク勢ニテ攻寄ルトモ、容易ニ屈スルヘキニ非ズ云々」というものである。
この史料から1569年(永禄12年)6月16日時点で、深沢城は北条氏の持ち城であったことがわかる。

深沢城が所在する駿東地方は、甲斐(山梨県)の武田氏、相模(神奈川県)の北条氏、駿河の今川氏の勢力圏が重なるところであった。
今川・武田・北条氏は甲相駿三国同盟を結んでいたが、1568年(永禄11年)に武田信玄が駿河府中に侵入し、今川氏真掛川城(静岡県掛川市)に追い落とすと三国同盟は解消され、武田氏と北条氏も交戦状態に入った。
武田信玄は1568年(永禄11年)から1571年(元亀2年)にかけて駿河・伊豆(静岡県)・相模のほか関東地方に7回も侵攻したが、この間、深沢城をめぐり激しい争奪戦が展開されているが、その経過は以下のようである。

1570年(元亀元年)2月15日、北条氏が深沢城への城米の輸送を指示する文書を出す。
1570年(元亀元年)4月、北条氏の重臣・松田憲秀、続いて北条氏政が深沢城を攻めるが奪回できず立ち去る。
1571年(元亀2年)1月3日、武田信玄が30日間に及ぶ攻防戦の末、深沢城の守将・北条綱成に開城を促す矢文(やぶみ)を送る。
1571年(元亀2年)1月16日、深沢城の守将・北条綱成は救援を待たずに開城し、武田勢は奪った城を修築した。
1571年(元亀2年)2月23日、深沢城を奪還すべく対陣を続けていた北条氏政は、小田原へ引き返した。




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争奪戦では、真田信伊が戦功をあげ、武田勢は昼夜にわたって攻め続け、金山の抗夫を投入して城を掘り崩しでいる。
深沢城は北条氏と武田氏による激しい奪戦の結果、1571年(元亀2年)2月23日以降は10年余り武田氏の駿河支配の一拠点となった。
その後、1582年(天正10年)、武田勝頼が天目山で没して武田氏が滅亡すると、守将・駒井右京進昌直は深沢城を自焼して退去し、深沢城は徳川家康の持ち城となった。

真田信伊と深沢城

真田信伊は真田幸綱(幸隆)の4男として生まれ、兄の真田昌幸と同じく幼年期から武田信玄の人質として過ごしている。
長じて武田信玄の命により甲斐(山梨県)の名門である加津野氏の名跡を継ぎ、加津野市右衛門尉信昌と称した。
1582年(天正10年)3月に武田家が滅亡した後は、真田姓に復して真田隠岐守信尹と称して、上杉・北条・徳川・蒲生家と仕官先を変えた。
蒲生氏郷の死後に蒲生騒動が起こると、再び徳川家康のもとに帰参して甲斐で4000石を与えられた。
その後、真田信伊は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い、1614年(慶長19年)の大坂の陣で御使番(おつかいばん)・軍使として功績を挙げ、1200石を加増された。
真田信伊は1632年(寛永9年)5月に病死するが、子の真田幸政以降、子孫は代々旗本として幕府に仕えた。




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真田信伊は、武田信玄・勝頼のもとで騎馬15騎、足軽10人を率いる槍奉行としての地位にあり(『甲陽軍鑑』)、武勇に優れていた。
1571年(元亀2年)1月、武田信玄が駿河(静岡県)の深沢城を陥落させた際、加津野信昌(真田信尹)は守将・北条綱成(つなしげ)の「黄八幡」の旗指物(はたさしもの)を奪い取るほどの戦功をあげたのである。

深沢城の構造(縄張り)

深沢城の構造(縄張)は馬伏川と抜川の合流地点の崖を背後に「裏門曲輪」、そこから南へ「本城曲輪」、「二の曲輪」と続くものである。
本丸に相当する「本城曲輪」は、南北が約110m、東西は約65mの広さで、周囲には土塁がまわり、特に南半分側の土塁は、高さが約4m、頂部の幅は約6mと大規模なものである。
曲輪の出入り口は南北両側に設けられているが、北の「裏門曲輪」側には「丸馬出し」が設けられている。
「二の曲輪」は東西80m、南北90mのほぼ方形であり、東・南・西側には「本城曲輪」に準じる規模の土塁が回っていたと考えられている。
また、曲輪の東と西側には「丸馬出し」が付随しており、特に西側の「丸馬出し」の外側には「三日月堀」と称せられる弧状の堀がめぐっている。

深沢城の構造(縄張り)の特徴の一つは、武田氏の築城技術である「丸馬出し」とそれを囲む「三日月堀」、そして馬出しと曲輪をつなぐ土橋にある。
また、「本城曲輪」は段丘を利用した山城仕立て、「二の曲輪」の半分は平城仕立てになっており、地形に応じて柔軟に築かれた様子が見て取れる。




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深沢城では2002年度(平成14年度)から2004年度(平成16年度)までの3年間と、2006年度(平成14年度)に発掘調査がおこなわれている。
その成果として、深沢城の中心は「裏門曲輪」ではなく「本城曲輪」であること、北条氏と武田氏が争った、16世紀中期よりも古い年代の貿易陶磁器や中世陶器などが出土していることなどが挙げられている。
ただし、いずれの調査もトレンチ調査であるため、深沢城の構造(縄張り)や築城時期、性格などを明確にするものではない。
今後の本格的な発掘調査と、それに基づく整備が期待されるところである。

(寄稿)勝武@相模

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