山中城の魅力を探る~土だけからなる希少な山城~

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山中城の概要

山中城は1568年(永禄11年)頃に、後北条氏により相模(現神奈川県)と駿府・伊豆(現静岡県)国境をめぐる緊張の中で、東海道の抑えとして、あるいは駿河方面へ出陣する際の基地として築城された。
その後、防衛力強化のために増築を重ね、1590年(天正18年)3月29日、豊臣秀吉の率いる大軍の攻撃を受け、わずか半日で落城したが、後北条氏の築城技術を駆使して築かれた中世城郭の集大成とも言える山城である。
山中城は1934年(昭和9年)に国の指定史跡になり、1973年(昭和48年)からは三島市による発掘調査とその成果に基づく復元整備が継続的に行われている。
1981年(昭和56年)には三島市制40周年に合わせて史跡公園として一般開放され、430年ほど前の中世城郭の姿を観ることができる。

構造(縄張)上の特徴

山中城の構造(縄張)を観察すると、後北条氏をめぐる情勢の変化に応じて発展していった様子が分かる。
山中城築城の背景として東海道を抑えることがあり、東海道を囲い込んでいる三ノ丸がその役割を果たしたと考えれる。
その三ノ丸は南端の南櫓(芝切地蔵)から中段のシモンドウ、上段の宗閑寺へと高さの異なる三つの曲が土塁を境として連なり、半独立状の城域を形成している。
また、シモンドウと宗閑寺の再開の西側には、鍵折れ状の虎口(こぐち)が開かれるなど、三連の曲輪は、築城初期に東海道を抑えるための機能を有していたのであろう。




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その後、戦国の争乱の中で防衛力を強化するために、三ノ丸の北西側の裏山に本丸、二ノ丸(北条丸)、北ノ丸が詰の城の一群として築造された。
戦国末期、豊臣秀吉による小田原攻めが予想されると、西南側の防衛力強化のために西ノ丸と西櫓(やぐら)が築造され、そして小田原攻め直前には、豊臣秀吉軍の来攻に備えて、南方面の最前線基地として急遽、岱崎出丸が築造されたのである。

1973年(昭和48年)からの発掘調査により、各曲輪の建造物等の状況が明らかとなった。主なものを挙げると次のとおりである。
<本丸・櫓台跡>
本丸の東北隅、標高586.4mと城内で最も高いところにあり、山中城全域の他、駿東の地方の各地を望むことができ、調査の結果、東西11.9m、南北11.1mの方形の上に、東西8m、南北6.7m、高さ50cmの方形の基壇を造っていることが判明した。
<兵糧庫>
本丸下の駒形・諏訪神社のある曲輪であり、食器の洗い場、下水留、溝、建物跡とみられる34個の穴などが検出されている。
<二ノ丸(北条丸)>
本丸と元西櫓の間にある東西91m、南北最大60m(中央部は46m)と本丸より広大な曲輪で、本丸と土橋によって繋がれ、曲輪の北東隅で南北約10m、東西約12mの櫓台が確認されている。
<元西櫓>
二ノ丸(北条丸)と西ノ丸に挟まれるように位置し、南北約42m、東西約26mの三角状の曲輪で、建物の礎石や根石と考えられる約30×40cmの平石や小石が数十個検出されている。
<西ノ丸>
元西櫓と西櫓の間に位置し、3,400㎡ほどの面積を有する本丸に次ぐ広大な曲輪で、西側正面には東西6m、南北11mほどの小曲輪が付設し、東南隅には虎口も設けられ「物見台」と考えられている。
西ノ丸の北半の東寄りには、溝が曲輪の東縁部下に向かって続いており、底からは径約20cm、深さ30~40cmの円形の穴が1個ずつ2.2m離れて対になる状態で検出されており、搦手(からめて)門が存在したことが推定されている。
<岱崎出丸>
20,400㎡の面積を有する広大な曲輪には、最先端の擂鉢(すりばち)曲輪、中央部の御馬場曲輪、武者溜り、馬場、櫓台、虎口などにより、三島方面からの豊臣秀吉勢を迎える最前線の基地として築造されたが未完成のまま落城を迎えた。
以上、主な曲輪の特徴についてまとめたが、山中城で最も特徴的な遺構と言えば、各曲輪を取りまく堀で、それは後北条氏の城で多くみられる「障子堀」・「畝(うね)堀」と呼ばれるものである。




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「障子堀」・「畝堀」

「障子堀」・「畝堀」は堀の中に一定の間隔で土手状の畝を掘り残して区画したもので、軍学書では「障子をたつる」と表現している。
その役割については、出水時に傾斜地の堀の崩壊を防ぐためである、と説明する軍学書もあるが、山中城では他の機能も考えられている。
例えば、堀に土手を残し障壁とすることで、敵の軍勢が堀底を往来することを阻止することである。
堀の上部では約5~10mの間隔があるが、堀底ではもっと狭まるので行動が制限され、また関東ローム層の赤土は滑りやすく、登り難い造りになっている。
城を攻める側は、一度堀底に滑り落ちると、這い上がることは不可能となり、城内から狙い撃ちされることになる。

後北条氏はこうした「障子堀」・「畝堀」を、豊臣秀吉の小田原攻めに備えて、山中城の最終的な防備を強化する際に全面的に採用した。
山中城では往時、総延長約1,480mに及ぶ堀の大半が「障子堀」・「畝堀」であり、現在、西ノ丸や西櫓、岱崎出丸などに復元されている。
ただし、現状では霜や流水から遺構を保護するために、数十㎝の土を被せて芝が張ってあるため、関東ローム層による堀底や畝の鋭さは失われている。

山中城を歩く

山中城は現在、復元整備済みの遺構を中心に、ほぼ全域を見学することができるようコースが設定され、各曲輪には分かりやすい案内板や解説版も設置されている。
初心者でも尾根を区切る曲輪の造成法や、曲輪を取り巻く堀や土塁、架橋や土橋の配置など箱根山の自然の地形を巧みにとり入れた、全国でも希少な土の山城を堪能することができる。




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見学ルートは、先に岱崎出丸を観て、三ノ丸西堀にそって城内に入り、箱井戸・田尻の池・北条丸下段・厩(うまや)跡などを経て、西側の西櫓・西ノ丸・元西櫓をめぐり、続いて北ノ丸・本丸・まわって国道に出て、最後に宗閑寺を訪ねるのが一般的である。
ちなみに、宗閑寺には城主松田康長、副将間宮康俊、豊臣方の武将一柳直末の墓がひっそりと佇んでいる。

(寄稿)勝武@相模

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