滝川一積(たきがわ-かずあつ)は、織田信長の家臣・滝川一益の長男である滝川一忠の子として1576年に生まれた。幼名は三九郎。
※1583年生まれとも?滝川一績とも。

1584年、小牧・長久手の戦いで、滝川一益と子の滝川一忠は、豊臣秀吉に従い参戦したが、蟹江城の戦いで徳川家康・織田信雄の連合軍に敗れた。
その為、滝川家は追放処分となり、浪人となっている。

このような経緯もあり、滝川一積は幼少の頃に上田城主・真田昌幸を頼ったともされている。

1600年の第2次上田城の戦いの際に、真田昌幸から娘・於菊を託されて上田城を離れた。
於菊は石田三成の妻の従兄弟である宇多頼次と離縁したようで、滝川一積がのちに正室に迎えた。

なお、於菊が宇多頼次との間に設けた娘は、小山田茂誠の嫡子・小山田之知に嫁いでいる。



1602年、織田有楽斎(織田長益)の推挙によって、伯耆米子藩主・中村一忠(中村一氏の子)に仕官する。
この時、米子に来た柳生五郎右衛門宗章からは剣も学んでいる。しかし、柳生宗章が不慮の討死を遂げる横田騒動がおこり中村家から去っている。

1604年、徳川家旗本になっていた滝川一時の子・滝川一乗がまだ幼少であったため、その名代となって、大坂の陣では徳川家康の使番として活躍した。

大阪冬の陣が停戦となったあと、真田幸村とも再会を果たしたとされる。
また、大阪夏の陣にて真田幸村が、徳川家康の本陣に突撃した際には、一歩も退かず槍を合わせたとされる。

その後、真田幸村の妻・竹林院を引き取って、あぐり(あくり)を養女に迎える手厚く保護。
一説には、本陣に踏み留まって真田幸村に相対したことから、徳川家康より許されたともある。

そして、あぐり(あくり)を伊予松山藩の家老・蒲生郷喜に嫁がせたが、これが真田嫌いの徳川秀忠の知る事となり、1632年7月16日に1000石の所領没収となる。

しかし、のちに松代藩主・真田信之に迎えられて1660年に死去した。享年84。

なお、子の滝川豊之助は三九郎一明と名乗り、1663年に300石にて再び幕臣となっている。

※上記の事柄には創作上のフィクションも含まれている可能性があります。

滝川一益に関してはこちら







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