平原幡繁と清光院【真田昌幸の6娘】

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 平原幡繁(平原和泉守幡繁)は1520年生まれとされる。
 平原城主(有利小屋城主)で、1549年に上田原の戦いで敗れた武田晴信に反旗を翻して、村上義清から500の援軍を受けて籠城している。
 そして、9月2日に武田信玄に攻められたが耐えて、翌日、武田勢は和議を申し込んだ。

 しかし、これは武田の罠で、うっかり和議に応じると、平原城は隙を突かれて夜襲により落城する。
 そのため、平原幡繁は西へと逃れたが、のちに武田信玄に臣従を誓い、武田家臣に復帰し、川中島の戦いにも参戦している。

 武田勝頼の自刃後は、一時、北条家に属したが、その後、徳川家康に臣従した。
 しかし、謀反の疑いを掛けられて、1582年に処刑される。

 なお、一族と考えられる、平原彦次郎の娘が、真田昌幸に嫁いでおり、真田昌幸の六女・清光院を産んだとされる。

 平原幡繁の子孫は関ヶ原の戦いにて戦功をあげて、徳川家旗本になった。




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真田昌幸の6娘・清光院

 清光院は、のちに徳川幕府の旗本・妻木重直の正室となった。

 この妻木重直は、妻木城(土岐市)を本拠とする1604年生まれの下郷妻木家(800石)2代目で、徳川家康の旗本として1660年には長崎奉行を務め、1662年からは勘定奉行を8年間担当した人物である。
 相模国内に1000石など加増され、合計3000石の旗本となったが、1670年7月に正室・清光院が死去。

 妻木重直(つまき-なおしげ)は、1683年3月27日に没した。享年80。