はじめに
真田信繁(真田幸村)の遺児である阿梅や真田大八(片倉守信)が過ごした白石城は、明治維新を機に廃城となった。
現在は1992年(平成4年)からの復元工事により、天守の代わりをつとめた三階櫓などが復元されている。
築城から廃城まで主なものだけでも30回ほどの修築の記録が残るが、築城時期や築城主がはっきりしていないこと、今は三階建ての大櫓(やぐら)の改築時期などである。
白石城では1990年(平成2年)から発掘調査や復元工事が行われ、不明な点は明らかになっているが、未だ判明していないことも多い。
本稿では白石城の縄張り(構造)や復元工事の歩みをまとめながら、白石城の謎について整理する。
明治維新後の白石城
明治維新後、白石城は1870(明治3)年に廃止された後、旧陸軍省や大蔵省の管轄を経て、1874年(明治7年)に民間へ売却された。
城は取り壊され、しばらく経った1900(明治33)年、城跡は益岡公園となった。
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白石城の縄張り(構造)については、江戸時代の間、描かれた時期が異なる絵図の比較から、白石城の城域は拡張傾向にあったと考えられている。最終的には丘陵の頂きに本丸、二の丸、中の丸、西曲輪、中段に沼の丸、南の丸、巽曲輪、帯曲輪、厩曲輪、平地部分に三の丸、外曲輪を配した曲輪構成になった。
それらのうち本丸には大櫓(三階櫓)があリ、正保年間の絵図では二階櫓が描かれ、寛文年間の絵図では三階櫓が描かれているが、この理由については諸説がある。
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現存する白石城の遺構は土塁を除き、市内外の各所に移築されている。
厩口門が市内の延命寺山門に、東口門が市内の当信寺山門に、上屋敷のものと伝わる門が名取市の耕龍寺山門に、奥方御門と伝わるものと煙硝蔵が市内の個人宅に、それぞれ移築されている。
復元工事
白石城の復元工事は1992年(平成4年)に始まり、1995年(平成7年)3月に三階櫓、大手の一ノ門と二ノ門、土塀の復元が完了した。
白石城の復元に向けて転機となったのは、1987年(昭和62年)に放送されたNHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』である。
このドラマで西郷輝彦が演じた、伊達政宗の重臣・片倉景綱も注目され、景綱が城主をつとめた白石城の復元の機運が高まった。
放送翌年の1988年(昭和63年)には、白石城三階櫓の復元が白石市の政策として挙げられた。
可能な限り原型に忠実に復元するために、文献調査や発掘調査などが進められ、復元基金が設立され、個人や法人から最終的に1億円を超す寄付が集まったという。
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2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災では、壁の崩落など1億円超の被害が出た。
文化財指定がされていなかったために補助金が出ず市の財政と寄付金などを財源として、2012年(平成24年)5月から9月まで行われている。2019年(令和元年)9月24日には「城泊ツアー」が行われ、外国人観光客が城内での食事や宿泊を体験したが、これは平戸城に次ぐ国内2例目の試みであった。
白石城の謎
白石城は歴史上よく知られているにもかかわらず、何時、誰が築城し改築を加えたのか、大櫓を二階建てから三階建てに改築できた理由とその時期は何時か、など多くの謎に包まれている。
こうした謎は、白石城復元に先立って行われた発掘調査によって明らかになったこともあるが、更なる謎も生じている。
まず築城については次の2点の伝承が有力である。
一つは、1591年(天正19年)の奥州仕置に伴う蒲生家による「増岡城」築城の伝承である。
豊臣秀吉が行った奥州仕置により白石地方は伊達政宗領から蒲生氏郷(がもううじさと)領となり、「白石城」が位置する刈田33の村は蒲生源左衛門が支配することになった。
源左衛門は古い白石城を鉄砲による戦いに備えて石垣を持つ近世の城に改築、城下町も整備して「増岡城」と名付けたという。
源左衛門は4年後の1595年(文禄4年)年に須賀川に移り、この時に「増岡城」を廃城にしたと伝わる(『福島県史』)。
二つ目は、上杉家が「白石城」を築城したとする説である。
「増岡城」廃城から3年後の1598年(慶長3年)、 白石・刈田地方は上杉景勝領となり、この地の領主となった甘糟備後清長が「白石城」を築城したとする説である。
この上杉家の「白石城」は1600年(慶長5年)年の関ヶ原の戦いの時に、伊達政宗によって攻め落とされ、1602年(慶長7年)以降は伊達家の重臣・片倉家の居城となった。
つまり、蒲生源左衛門が4年の間に「増岡城」と城下町をつくり、須賀川に移るにあたって廃城とした。
甘糟清長はこの廃城をわずか2年で白石城に改築したことになるが、可能なのだろうか。
次に、大櫓の二階建てから三階建てへの改築が何時、誰によって行われたかについて整理する。
上杉時代の白石城に関する絵図類は未確認で、この時期の城の構造は不明である。
1644年(正保元年)に江戸幕府が全国の大名に「城絵図」の作成と提出を命じているが、伊達家でも「奥州仙台領白石城絵図」(内閣文庫蔵)を作成し提出した。
この絵図で初めて白石城の姿が明らかになり、二階建ての大櫓が描かれている。
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1646年(正保3年)4月には仙台・白石地方に大地震が発生し、仙台城と白石城の櫓や石垣が崩壊したため、伊達家は翌1647年(正保4年)に城絵図を添えて修復の願いを出した。
願いは聞き届けられ、幕府老中から「如元普請有るべく候 此のクト櫓、塀之儀 先規の如く尤もに候」とする許可書を得ている(『片倉代々記』)。
櫓は二階櫓が再建されたと考えるのが妥当であるが、1663年(寛文3年)に城の修復のために幕府に提出したと考えられている「刈田白石城絵図」(宮城県立図書館蔵)には、大櫓は二階ではなく三階建てで描かれている。
このことを素直に解釈すると、白石城の大櫓は1644年から1663年までの20年間のうちに、江戸幕府に無届けで 二階建てから三階建てに改築が行われたことになる。
江戸幕府は開幕以来、武家諸法度や一国一城令等により城郭の新規築城や修築などを制限している。
福島正則のように、これらの法令に違反して改易された大名も少なくない中、白石城は一国一城令にもそぐわない城であることも重ねると大きな謎である。
おわりに
本稿では白石城の縄張り(構造)や復元工事について整理したが、白石城は築城主や築城時期が不明で、大櫓の二階建てから三階建てへの改築など謎が多い城であることが分かった。
これらの謎の解明については次稿で探究する。
(寄稿)勝武@相模
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