はじめに
1600(慶長5)年10月、関ヶ原の戦いで敗北した西軍に与した真田昌幸・信繁(幸村)父子は九度山(くどやま)に配流となった。
高野山・「蓮華定院」に身を寄せて間もなく、その年の冬に庵を九度山に移した。
九度山での配流生活は、家臣16名を引き連れて、ある程度の自由は認められていたが、窮乏していたことが史料からわかる。
このことについては、「紀州九度山での真田昌幸・信繁(幸村)父子~史料から見る生活」としてまとめている。
本稿では高野山や九度山に残る真田一族に関連する史跡について紹介する。
高野山・「蓮華定院」
高野山(和歌山県伊都郡高野町)は和歌山県北部に位置し、その地形は1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地である。
平安時代初期の816(弘仁7)年に空海(弘法大師)が嵯峨天皇からこの地を下賜され、修禅の道場として開いたことにはじまる。
10世紀後期頃から大師入定(にゅうじょう)信仰が生れ、高野山を弥勒浄土(みろくじょうど)や阿弥陀浄土(あみだじょうど)とする信仰と合いまって、現在に至るまで信仰と尊敬を集める日本仏教における聖地の1つである。
現在、「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心に宗教都市が形成され、山内には高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。
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「蓮華定院(れんげじょういん)」は高野山の山内の中でも特に標高の高い「五の室」地区に位置し、交通アクセスは次のとおりである。
南海高野山ケーブル「高野山駅」=路線バス・約5分⇒「一心口」バス停=徒歩・約1分⇒「蓮華定上院」
その歴史は今から800年ほど前に行勝上人(ぎょうしょうしょうにん)が開基したことに始まり、室町時代になると、長野県佐久・小県地方の豪族と宿坊の契約を結ぶようになった。
1600(慶長5)年10月の関ヶ原の戦い後、高野山に配流となった真田昌幸・信繁(幸村)父子は、当時の高野山が女人禁制であったことから配流当初は「蓮華定院」に滞在した。
その後も「蓮華定院」は真田一族ゆかりの宿として「真田坊」と呼ばれるようになった。院内には至る所に真田家家紋の六文銭が見られ、江戸時代の障壁画、豪華な襖絵や調度品など、江戸時代の格式を今に伝えている。
九度山の真田父子関連史跡・施設
「蓮華定院」に落ち着いた真田昌幸・信繁父子と家臣は、信繁の妻・らの家族と生活するために、高野山の麓・九度山に居を移した。
九度山(和歌山県伊都郡九度山町)は和歌山県・大阪府・奈良県の県境付近に位置し、古来より聖地高野山への玄関口として栄え、現在も真田一族所縁の史跡がのこる。
<善名称院(真田庵)>
「善名称院」(ぜんみょうしょういん)は高野山真言宗の寺院で、真田昌幸・信繁父子とその家族・家臣が住んだ屋敷跡と伝えられていることから「真田庵」とも呼ばれている。
境内には、六文銭があしらわれている瓦や門、城郭風の八棟造をもつ本堂、「雷封じの井」など往時を偲ばせる建造部がある。
また、敷地内の「真田宝物資料館」は真田昌幸・信繁の九度山での生活をテーマに、信繁が愛用したと伝えられる槍先や鎧兜などの武具や書状、肖像画、真田家の生活を支えた真田紐や高野紙製造用具などが展示されている。
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<真田古墳>
「真田古墳」は「善名称院」から東へ170mほどの所にある横穴で、「大坂城」に続いており、真田信繁がこの抜け穴を使って戦場へ出向いた、という伝説が残っている。
1953(昭和28)年の発掘調査により、4世紀の横穴式石室をもつ円墳であることが判明し、真田の伝説が残る古墳として「真田古墳」と名付けらた。
<九度山・真田ミュージアム>
「九度山・真田ミュージアム」は2016(平成28)年放送のNHK大河ドラマ「真田丸」を記念して同年3月にオープンした。
真田昌幸・信繁・大助の真田三代の軌跡と14年間に及ぶ信繁の九度山での生活を、史実に基づきパネル展示やドラマ仕立ての映像により紹介している。
当時の真田屋敷を模した「からくり部屋」や真田十勇士に関する展示もあり、子どもから大人まで楽しめる施設である。
九度山の真田父子に関する伝承
九度山には「善名称院」や「真田古墳」などの史跡の他にも、真田父子にまつわる伝承やイベントがある。
<真田紐(ひも)の伝承>
九度山で配流生活を送っていた真田父子が発明し、全国に広めたとされている真田紐は縦糸と横糸を使い織機で織った平たく狭い紐である。
主に茶道具の桐箱の紐、刀の下げ緒、鎧兜着用時の紐、帯締め・帯留用の紐、荷物紐などに使用されている。
『安齋随筆』によると、真田父子が正宗・貞宗という脇差の柄を巻くのに使ったことが始まりで、その家族や家臣らも製作して堺の商人を通じて販売し、得た収入を生活費の足しにしていたと伝えられているが真偽は不明である。
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真田氏の故地である長野県上田市の歴史資料館が所有する「昌幸公所用甲冑」にも真田紐が巻かれており、これをもって真田紐の名が付いたという説もある。
上田市付近は上田縞で知られ、九度山も織物の産地であり、地場産業と真田紐とを関連させて宣伝したことから、このような伝承が誕生したと考えられている。
また大阪を中心とした地方の庶民には、親豊臣家・反徳川家の風潮が根強くあり、最後まで徳川家に抵抗した信繁を支持・美化する風潮の象徴として真田紐伝承が広まったとも考えられる。
<紀州九度山真田まつり>
「真田まつり」は真田昌幸・信繁父子を偲んで古くから開催されてるが、その時期は不明である。
1922(大正11)年3月25日に行列を行ったことが新聞に記載されており、また、「九度山小学校沿革史」には1936年(昭和11)年5月5日に「全校児童の武者行列を行う」と記されている。
現在は毎年5月に開催され、メイン行事の「大名行列」は昌幸・信繁・大助、真田十勇士の甲冑を纏った武者達が練り歩き、子ども武者隊や手作り・MY甲冑隊、ブラスバンド隊などが盛り上げる。
真田法要が営まれるほか、真田太鼓などのステージイベントや、九度山町の商店の露店が立ち並ぶ「真田の市」などが催され、大勢の観光客で賑わう。
ただ、2020(令和2)年度は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、中止となった。
おわりに
真田昌幸・信繁父子が配流生活を送った九度山町では、NHK大河ドラマ「真田丸」の放映以前の2006(平成18)年から戦国武将随一の人気を誇る「真田幸村」を新たな観光の柱と位置づけ整備を進めている。
その背景には、世界遺産・高野山に含まれる各史跡は信仰の対象として多くの観光客が訪れているが、その一方で市街地は真田父子の屋敷跡である「善名称院(真田庵)」以外の見どころが無く閑散としていたことがある。
2016(平成18)年放映の「真田丸」をきっかけに「九度山・真田ミュージアム」が新設され、街中の至るところに六文銭の幟が設置されるなどの整備が進み、国内外からの観光客も増えた。
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今後は大河ドラマ効果をいかに持続させるかが課題であり、リピーターや移住者を増やすことを官民一体となって進めることが必要であろう。
その一つとして、2019(平成21)年6月にオープンした「紀州九度山真田砦」は魅力的である。
これは、店主が中古物件を購入し、店として改装する資金をクラウドファンディングにより準備してオープンしたものである。
紀州九度山ブランドのお土産や戦国グッズを販売するとともに、「真田昌幸公」「真田幸村公」「真田大助公」甲冑の着付け体験を行い、休憩処としても利用できる(https://sanadatoride.com/)。
今後も九度山・真田一族に関する情報の発信地として発展していくことを期待したい。
(寄稿)勝武@相模
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