真田氏は東信濃の古くからの豪族海野氏の一族で、室町時代から「真田本城」・「松尾古城」(長野県上田市)周辺を本拠地として、戦国時代に真田幸隆、真田昌幸、真田信幸・信繁(幸村)兄弟の三代にわたって、武田・上杉・北条・豊臣・徳川といった大勢力の中で、時には従い、時には対立しながら勢力を拡大していき、江戸時代には信濃の大名として明治維新まで存続した。
1547(天文16)年頃、上州に逃れていた真田幸隆は、武田信玄による信濃侵攻で功をあげ、「岩尾城」(長野県佐久市)を賜った。
信玄の幕下となった幸隆は1551(天文20)年に「戸石城」(長野県上田市)を攻略し、そこを拠点に小県郡の一部を支配した。
1563(永禄6)年には「岩櫃城」(群馬県東吾妻町)を攻略し、以後、そこを拠点に幸隆は「羽根尾城」・「長野原城」(群馬県長野原町)なども加えて吾妻郡も支配し、幸隆の長男である真田信綱が「戸石城」を拠点に小県郡の一部を支配した。
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1575(天正3)年の長篠の戦いで、長男・信綱と次男・昌輝が討死にすると、三男・昌幸が真田家を継ぎ、昌幸は1580(天正8)年、「沼田城」(群馬県沼田市)を手に入れ上野国に多くの領土を得た。
その「沼田城」は1582(天正10)年、武田勝頼が滅亡したことで、織田信長の重臣滝川一益の手に渡るが、本能寺の変後に昌幸のもとに返された。
1583(天正11)年、昌幸は「上田城」(長野県上田市)の築城を始め、翌年には「岩櫃城」から「上田城」に移った。
そこを拠点に小県郡の南方に位置する「丸子城」(長野県上田市)を奪い、 西側の室賀も領土に組み入れ、小県郡の平定を成し遂げた。
1585(天正13)年8月には、徳川家康が「上田城」を攻撃するが、昌幸と信幸・信繁はこれを撃退している。
その背景には、家康が北条氏に沼田領の割譲を約束したが、昌幸がこれを拒んだことにある。
1587(天正15)年3月、豊臣秀吉の仲介により、真田氏が徳川氏の配下になると、1589(天正17)年7月、秀吉の裁定で沼田領の3分の2が北条氏の領土となり、「沼田城」を引き渡した。
支城の「名胡桃城」(群馬県みなかみ町)は真田氏に残されたが、同年11月、北条氏家臣で沼田城城代となった猪俣那憲が「名胡桃城」を奪取した。
関白としての裁定を覆された秀吉は1590(天正18)年2月に北条氏討伐の軍を挙げ、それに昌幸も加わり、7月に北条氏は滅亡した(小田原合戦)。
北条氏の滅亡により、再び沼田が真田氏の領土になり、真田氏は、昌幸が「上田城」、信幸が「沼田城」、一族の矢沢頼綱が「岩櫃城」をそれぞれ本拠として、小県郡(「上田城」、「戸石城」、「丸子城」など)、吾妻郡(「岩櫃城」、「長野原城」、「羽根尾城」など)、沼田(「沼田城」)を支配することとなり、真田氏は安定するかにみえた。
ところが、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで、昌幸・信繁父子は西軍(石田三成方)に味方し、上田城で東軍(家康方)の徳川秀忠軍に抵抗したため、家康から領土を没収、高野山へ幽閉された。
昌幸の領土は東軍に味方した信幸(信之を改名)に諸城とともに与えられたが、1615(元和元)年の一国一城令により、「上田城」と「沼田城」を除き、「戸石城」・「丸子城」・「岩櫃城」などは破却された。
「上田城」は信之、「沼田城」は信吉(信之の嫡男)の居城となるが、1617(元和3)年、信之は上田から松代への移封を命じられ、「松代城」を居城とし「上田城」は真田氏の手を離れた。
また、1681(天和元)年に家督争いの結果、沼田藩は改易となり、「沼田城」も真田氏の手から離れた。
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真田氏は戦国時代の動乱の中で、数々の城郭を攻略し、新たな城郭を築くなどして、勢力の拡大を図った。
そして、各々の城郭は本城や支城、境目の城などとしての機能を果たしたのである。
(寄稿)勝武@相模
・各地にある真田一族ゆかりの城郭~概要編~
・「真田丸」の実態を探究する 範囲・規模・構造などに関する新しい説
・真田信繁(幸村)と大坂の陣~「日本一の兵」・真田幸村へ~
・真田信繁(真田幸村)と大坂の陣~「大坂城」入城まで~
・松代真田家の本拠「松代城」の歴史~武田・上杉時代から現在・未来~
・真田氏時代の「上田城」~瓦からみえる「織豊系城郭」としての姿~
・真田氏の堅城「上田城」~徳川の大軍を二度撃退した城郭~
・真田氏の名城「上田城」~築城経緯にみる真田昌幸の外交戦略~
・豊臣秀吉による小田原攻めのきっかけの城「名胡桃城」
・真田氏がこだわり続けた「沼田城」の歴史
・真田氏による上州支配の拠点「岩櫃城」
・真田氏飛躍のきっかけとなった城郭「戸石城」
・戦国時代初期の真田氏の本拠地・上田市真田町周辺の城郭 ~「真田本城」を中心に~
・城郭からみた豊臣秀吉の権力 ~秀吉の城と城郭政策~ 著作・武井政弘
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