名軍師と伝わる山本勘助~その謎に満ちた生涯に迫る

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山本勘助

山本勘助(やまもと-かんすけ) 諱・晴幸

まず、山本勘助の存在として、そのものが実在したのか、それとも架空の武将なのか、そのこと自体はっきりとした証明ができない、謎に包まれた伝説の武将である。
【甲陽軍鑑】や他の文献によると、1493年(明応2年)或いは1500年(明応9年)に生まれ、諸国を巡る兵法の修行の後、37歳で大国、駿河を納める大名、今川義元に仕官を願う。
ところがその願いは叶わず9年後、当時の甲斐の若き大名、武田晴信(後の武田信玄)に召し抱えられるまで駿河で牢人(浪人)として過ごす。
武田家の家臣となってからはその才を遺憾なく発揮し、信玄からの信頼も厚い重臣の一人となり、武田二十四将、武田の五名臣として活躍し1561年(永禄4年)9月10日、川中島の戦いにおいて討死。とされている。

だが、この生没をはじめ、記された勘助の経歴についても後世の歴史家からは数多くの矛盾があると指摘され、それらが架空説の根拠となっているようだ。




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しかし、史実として完璧に信頼でき、証明できうる歴史書などというものは存在しないのであって、教科書で教えられた歴史とは、新たな発見、解釈の変更ですぐに書き換えられてしまうものなのである。
何故なら今世に生きる全ての人々は例外なく数百年前の中世に起こった事をその目で見た者などいないのだから。
だとしたら、残されている文献をもとに、その事柄を解析し、推理によって歴史を紐解き答えを導き出すしかない。

名参謀・山本勘助

山本勘助は実在したという観点から論説を展開してゆく。
武田信玄が戦国最強の名将という声が多いのだが、だとしたら、やはり軍師、山本勘助の存在が不可欠であると考察するからだ。
ただし、この時代には「軍師」という呼称はなかったとする論があり、そのことがまた勘助架空説を助長させる傾向があるのだが、確かにこの時代の日本に「軍師」という呼び方はなかったとしても、その役割を担う役職は必ずあったはずだ。
それが証拠にこの時代よりはるか昔の中国を舞台にした「三国志」において諸葛亮、龐統などは主君を支えた「軍師」として描かれているのだ。
そのことからも、ただの呼び方の問題に過ぎないということが推測できるであろう。

では、後世に「名軍師」とまで謳われるようになっていった山本勘助の武田家にもたらした功績をたどってみたい。

破軍建返し

信州戸石城を攻略した、山本勘助を語るうえで有名なエピソード。1546年(天文15年)戸石城攻略戦で武田軍は村上義清の軍勢に挟み撃ちに遭い、武田軍は瓦解し撤退を余儀なくされた。
しかし、猛将と名高い村上義清はこれを追撃。武田軍崩壊という絶体絶命の危機であったが、ここで起死回生を計ったのが山本勘助だった。
勘助は策を晴信に託し、自ら僅か五十騎の手勢で村上軍をかく乱し陽動する。その隙に晴信は反撃の体勢を整え、村上軍を撃破したという。
この戦略、戦術に長けた勘助の功により勘助は武田家においてその才を認められ信望を得ることとなる。

甲州法度次第

1547年(天文16年)武田晴信によって定められた上下二巻(上巻五十七ヶ条、下巻九十九ヶ条)で構成された甲斐の分国法なのだが、これは勘助の献策を晴信が聴き入れて制定されたのだという説がある。
有名なものでは一七条の項目に「喧嘩両成敗」というものがあり、現代でさえも聞き覚えのある用語でもあるように、一国を平定する法として、今世でも参考とされるほど先見を見通せる優れた法とされている。

山本勘助入道道鬼流兵法

勘助は戦略としての要塞の拠点となりうる築城術にも長けていた。築いた城には高遠城小諸城海津城があり、このような戦略家としての要塞構築術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と称されたほどであった。

武田信玄が名を上げる上で、勘助の献策や功績とされるものは数々ある。
そして、歴史上、絶対的な定理が存在するのだが、それは名将には必ず名参謀が影にいるのである。例に挙げるとして、一番有名なものでは、曹操には司馬懿、劉備には諸葛亮、孫権には周瑜や陸遜という具合に、策士としては主君以上の才を備える人物が参謀として仕えているのだ。
この参謀こそが「軍師」なのであり、山本勘助もまさに「軍師」である。三国志の英雄のように武田信玄の快進撃にも「軍師」の存在が絶対に必要不可欠なのだ。

だが日本の歴史においては活躍した軍のトップの名だけがあまりにもクローズアップされ過ぎる傾向にあり、例えば甲斐の武田軍では武田信玄という大名の名だけが極めて神格化され過ぎるのだ。
これは、どの有名な人物でも同じで、実際は優秀な参謀なくして名を上げる将はいない、と言っていいだろう。
 
そして「甲陽軍鑑」では1561年(永禄4年)川中島の戦いで勘助は討死、と記されている。
山本勘助の策だった「啄木鳥戦法」と云われる、軍を二分し一部隊で妻女山に陣を張った上杉軍を夜襲し、山から逃げてきた上杉軍を本隊であるもう一部隊がそこに待ち受け、挟み撃ちするという策を上杉謙信に見破られていたのだ。
自らの策と共に勘助の命運尽き、壮絶なる戦死を遂げる。

これまでの勘助の足跡を辿ってみると、確かに脚色された面があることも否めない。だが、それほどまでに魅力を描き伝えたい人物であったともいえるのではないだろうか。
そのことこそが後世において存在したか否かについて物議を醸す元となっているのも確かであり、謎多き武将として扱われる所以でもある。

日本史上に残る番狂わせ「桶狭間の戦い」の影に山本勘助の存在

桶狭間の戦い、それは1506年(永禄3年)5月19日、尾張の桶狭間で2万5千の大軍率いる今川義元に対し、僅か数千余りの兵で戦いに挑んだ織田信長が今川義元を討ち取るという歴史的な、いや歴史を変えたともいえる一戦である。
この戦いの勝利によって一躍名を轟かせたのが言わずと知れた織田信長なのだが、では何故自軍の数倍もの大軍に信長は勝つことができたのか。
勿論、大軍率いる義元と、今川軍の油断があったのは間違いないと考えられる。
その油断からなのか、戦略上、大軍の利を活かせない、桶狭間という地に陣を張り、休止してしまった今川軍。
さらに視界と音をかき消す豪雨という天候も味方し織田軍は一気に敵の総大将、今川義元を討ち取ることに成功するのだ。
ここで考えてみたい。これほどの事が、いかに信長が優秀で強運だったとしても、当時の織田の勢力と大将信長の経験値で成しえるものだろうか。
後に天下を手中に収めることとなる信長であれば当然だとも思えるだろうが、この時点での信長に、それを一人で遂行することは不可能ではないかと考えるのが自然ではないか。
強力な助力が必要だったのではないか。それも、状況からして自軍からだけの視点ではなく、双方を見渡せる人物である。
当然、間者と呼ばれるスパイも張り巡らせてはいただろう。
しかし、その程度の影響力ではなく、戦略的情報を操作できうる程の人物だ。




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一人、候補が浮かび上がる、山本勘助に他ならない。
勘助は武田に仕える以前、今川に関わりがあった人物だったとされているのだ。何より当時の武田信玄にとって天下を取るのに一番の障害は今川義元だったであろう。
同盟関係にあった武田が上洛を目指した今川に協力する形で勘助を仕向けたとしても特別に不思議ではない。同時に織田にも、今川を討つ名目により水面下で手を結び、結果、戦いにおいて最も重要である情報の操作と提供で織田に今川を討ち取らせたのではないか。
そう推測すると、この歴史的番狂わせが起こったことに少し合点がいく。全ての物事には必ず相応の理由があり、このような常識を大きく覆す出来事というのは、背景にはやはり常識を覆すような理由があるはずなのである。

まさに浪漫の武将ではないか。そして、奇才というものはいつの世も、まずは否定されるもので、人々は認めることを拒むものである。特に自分が優秀だと信じる者に限って。

名将の影に名参謀あり。戦国最強、武田信玄の影に、伝説の軍師、山本勘助あり。

(寄稿)探偵N

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