『鎌倉殿の13人』と武士の館
2022年(令和4年)1月9日(日)からNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放映が始まった。
平安時代末から鎌倉時代前期にかけて、源平の戦いを経て鎌倉幕府が誕生する過程で繰り広げられる人間模様を、北条義時を主人公として描いている。
この作品には多くの鎌倉武士が登場し、衣食住なとの日常生活も描かれるであろう。
この時代の武士たちは領地の中で農業の経営に適し、また外敵から防御しやすい場所に館を構えた。
番組の中でも伊東祐親や北条時政、比企能員の館が映されている。
本稿では、文献史料や絵巻物から鎌倉武士の館の構造やその特色について探る。
『吾妻鑑』にみる鎌倉殿の御所
源頼朝は1180年(治承4年)8月に挙兵し、同年10月に鎌倉に入り、本拠としてふさわしい館を建てることにした。
当初は父・源義朝の屋敷があった亀ヶ谷に建てようとしたが、手狭で源義朝の菩提を弔う寺院もすでに建てられていた。
そこで、外港六浦と鎌倉を結ぶ六浦道沿いの要所である大倉の地が選ばれた。
館は東西約270m、南北約200mの方形で、大倉御所と呼ばれ、1180年(治承4年)から1219年(承久元年)までの39年間、鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の御所であった。
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この館について『吾妻鏡』に以下のように記されている。
ちなみに『吾妻鏡』は1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの幕府の事績を将軍ごとに編年体で記したものである。
鎌倉時代末期の1300年(正安2年)頃に成立し、幕府中枢の複数の者が編纂したものと考えられている。
【1180年(治承4年)12月12日の記事】
治承四年十二月小十二日庚寅。天晴風靜。亥尅。前武衛「將軍」新造御亭有御移徙之儀。爲景義奉行。去十月有事始。令營作于大倉郷也。時尅。自上總權介廣常之宅。入御新亭。御水干。御騎馬〔石禾栗毛〕和田小太郎義盛候最前。(中略)。畠山次郎重忠候最末。入御于寝殿之後。御共輩參侍所。〔十八ケ間〕二行對座。義盛候其中央。着致云々。凢出仕之者三百十一人云々。又御家人等同搆宿舘(中略)。
1180年(治承4年)12月12日、午後10時頃に頼朝様が新しく建てたお屋敷に引越しの儀式があった。
大庭平太景義が奉行となって昨年10月から大倉郷に建設をしていた新しい屋敷に、
源頼朝は上総権介広常の屋敷から移った。
和田太郎義盛が先頭に従い、(中略)、畠山次郎重忠が一番最後に従っている。
源頼朝が「寝殿」に入られた後、お供の人達は「侍所」の十八間に来向かい合って座った。
和田太郎義盛はその中央に座り、着到状の仕事をしたとのことで、出仕した者は約311人ということである。
また、御家人達も同様に新しい屋敷の周辺に宿や館を構えた。
【1181年(治承5年)5月23日の記事】
治承五年五月大廿三日戊戌。御亭之傍。可被建姫君御方并御厩。且土用以前。爲被始作事。不論庄公別納之地。今明日内可召進工匠之旨。被仰遣安房國在廳等之中云々。昌寛奉行之。
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源頼朝の屋敷の敷地内に大姫(源頼朝の長女)のための別棟と「厩」(馬屋)を建てるように命令がでた。
土用前に作事始めをするように、荘園公領・直納を問わずに、今日か明日のうちに大工達を鎌倉へ来させるように、安房の在庁官人達に命令するようにしたという。
一本坊昌寛が担当奉行となった。
【1181年(治承5年)5月24日の記事】
治承五年五月大廿四日己亥。被曳小御所御厩等之地。景能。景時。昌寛等奉行之。御家人等面々召進疋夫。
大姫の「小御所」と「厩」(馬屋)の縄張りを始め、大庭平太景義と梶原景時、一本坊昌寛が采配を振るい、御家人達はそれぞれに人夫を差し出した。
以上の記述から、1180年(治承4)年12月12日に源頼朝が入った大蔵の御所には、「寝殿」・「侍所」の他、源頼朝の娘・大姫の「小御所」と「厩」(馬屋)が主要な建物として存在したことが分かる。
後に、この御所の中には仏が安置された持仏堂が設けられ、その周囲には、西に鶴岡八幡宮、東に二階堂・永福寺、南に南御堂・勝長寿院、そして北には法華堂が建てられた。
絵巻物にみる武士の館
武士の館は『一遍上人絵伝』(一遍聖絵)や『法然上人絵伝』、『男衾(ふぶすま)三郎絵詞』などの絵巻物に描かれている。
『一遍上人絵伝』は時宗の開祖・一遍の生活の様子を、1299年(正安元年)にその高弟の聖戒(しょうかい)が詞を起草し、法眼円伊(ほうけんえんい)が絵を描いた絵伝である。
一遍は1276(建治2)年から全国各地を遊行(ゆぎょう)するが、その旅のなかで立ち寄った筑前国(福岡県)の武士の館の様子が描かれている。
館の中心には主屋があり、主屋は板敷、貴族の住居である寝殿造りを簡略化した造りで縁がまわる。
主屋の前の庭の右手には侍廊(持仏堂とする説もある)という建物があり、板葺きの切妻造りである。
その右手には網代塀(あじろべい)を隔てて馬屋があり、その前にはつながれた猿がうずくまっている。
馬屋の前方は馬場と考えられ、主屋の右手には鷹がみられる。
館の門は櫓(やぐら)門となっており、そこには弓矢や楯などが備えられている。
館の周囲には水堀がめぐり板塀が囲い、その外には竹が植えられ、櫓門のところには橋がかかる。
堀の外に生垣(いけがき)で区切られた畠が描かれている。
浄土宗の開祖・法然の生涯を描いた『法然上人絵伝』にも武士の館が描かれている。
その館は法然の父であり、美作国(岡山県)久米郡の押領使を務めていた漆間(うるしま)時国の館である。
中央の主屋の座敷に寝床があって屏風がめぐり、枕元には鎧・冑・太刀が置かれている。
主屋の手前左側に張りだしている中門廊に3人ほどの従者が宿直している様子もみえる。
主屋の建物の左側に馬が首を出している馬屋があり、主屋の右側には倉と考えられる建物がある。
正門は敷地の左側、主屋と馬屋の間の頑丈な棟門で、屋敷のまわりに細竹や割り竹で作られた網代垣(あじろがき)や建仁寺垣(けんにんじがき)がめぐる。
屋敷の左手と前面には水堀がめぐり、その前は一面に田が広がり、門のすぐ前は主人の手作り地の「門田」である。
屋敷の右手と左手側には小さな垣に囲まれた粗末な家がみえるが、家人・郎党の家と考えられる。
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『一遍上人絵伝』の筑前の武士の館と『法然上人絵伝』の漆間時国の館は、主屋、中門廊あるいは侍廊、馬屋、門、塀や垣、水堀などが共通している。
『一遍上人絵伝』は鎌倉時代後期の13世紀末に、『法然上人絵伝』はそれより10年から20年ほど遅い鎌倉時代末に作成された。
したがって、2つの絵伝に描かれている武士の館は、鎌倉時代末ごろのものであると考えられる。
総合的な研究の必要性
中世初期の武士の館について、『吾妻鑑』の記述や『一遍上人絵伝』・『法然上人絵伝』からは次のような館の姿が想像できる。
館内の主な建物には、主人やその家族が住む寝殿造りを簡略化した主屋、主人に仕える部下(家人・郎党)が昼夜待機する中門廊や侍廊、馬屋などがある。
門は櫓門や頑丈な棟門で、櫓門には弓矢や楯などが備えられている。
館の周囲には、水堀や空堀、網代塀、板塀、網代垣、建仁寺垣がめぐらされ、その外には田や畠、牧などがある。
田や畠の中には、館の主人が直接経営する直営田があり、下人や所領内の農民を使って耕作させていと考えられる。
以上のように、武士の館は櫓門や堀、塀、垣など防御性を備えた軍事施設であると同時に、館周辺の牧場や農場の経営者の居住施設としての性格も備えていたと考えられる。
近年、中世初期の武士の館の発掘調査のよる成果が蓄積されており、新しい知見が得られている。
また、地名や地籍図の調査や建築史からの視点も有効であり、中世武士の館の研究には、絵巻物を含む文献史学や考古学、地理学、建築学などによる総合的な研究が必要であろう。
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<主な参考文献>
五味文彦 1994年『中世の館と都市 ミクロの空間から』朝日百科 日本の歴史別冊 歴史を読み直す7 朝日新聞社
佐原 真、他 1996年『城の語る日本史』朝日新聞社
千田嘉博、他 1993年『城館調査ハンドブック』新人物往来社
黒坂勝美 1980年『国史大系 吾妻鏡 第一』吉川弘文館
(寄稿)勝武@相模
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