【鎌倉殿の13人】北条義時とゆかりの史跡~静岡県伊豆の国市編~

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概要

北条義時が主人公の2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は2022年7月3日(日)の第26回「悲しむ前に」で源頼朝が謎の死を遂げて前半が終わった。
「鎌倉殿の13人」の後半は北条義時と御家人たちの間でパワーゲームが展開され、その間に2代将軍・源頼家、3代将軍・源実朝が非業の死を遂げる。
源氏の正統が途絶えると、北条義時が鎌倉幕府の最高権力者となり、北条義時追討の兵を挙げた後鳥羽上皇方に対して、武家政権の命運を賭けて対抗していく。

「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時は今から約860年前の1163年(長寛元年)に伊豆国(静岡県伊豆の国市)で生まれた。
伊豆の国市は伊豆半島の北部に位置し、東は箱根山系の連山、西は城山、葛城山などの山々に囲まれ、平野部は南北に狩野川が流れて田園地帯が広がるなど、自然環境豊かな里である。
北条義時ゆかりの史跡は韮山駅(伊豆箱根鉄道)から西へ約20分の伊豆の国市韮山地区守山周辺、韮山駅から西へ約25分の同市長岡地区江間周辺に所在する。




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本稿では北条義時の生涯を振り返った上で、彼が幼少期から青年期を過ごした伊豆の国市にあるゆかりの史跡を紹介する

北条義時・波乱の生涯

北条義時は1163年(長寛元年)、伊豆の在地豪族であった北条時政の次男として生まれた。
伊豆で暮らしていた頃の北条義時に関する詳細な記録は確認されていないが、『吾妻鏡』には、元服後は「北条(小)四郎」と称し、江間(伊豆の国市長岡)に移住して後は「江間(小)四郎」と称したことが記されている。

伊豆の小豪族の次男として生まれた北条義時の人生が劇変したのは1180年(治承4年)8月、伊豆で流人生活を送っていた源頼朝が平氏打倒を目指して挙兵してからである。
北条義時の姉・北条政子が源頼朝の妻であったことから、数え18歳の北条義時は父・北条時政、兄・北条宗時とともに源頼朝の挙兵に従った。
石橋山の戦いで兄・北条宗時が戦死した後は、北条義時は実質的な北条家の嫡子として、源平の戦いた奥州合戦に従軍するが、表舞台に立つことはなかった。
1199年(正治元年)の源頼朝の死後、その跡を継いだ2代将軍・源頼家の独裁を押さえるための「十三人の合議制」の一員となり鎌倉幕府の政治の表舞台に立った。

その後、北条義時は有力御家人を排除するなどして次第に勢力を拡大していくが、その経過を整理すると以下のようになる。
 *1203年(建仁3年)、比企能員(よしかず)を謀殺し、次いで源頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺(静岡県伊豆市)へ追放する(比企能員の変)。
 *1204年(元久元年)7月、源頼家が伊豆国修禅寺で死去するが、『愚管抄』や『増鏡』には源頼家は北条義時の送った手勢により暗殺された、と記されている。
 *1205年(元久2年)、北条義時は、畠山重忠を謀反の罪で滅ぼすと父・北条時政と対立、姉・北条政子とともに北条時政を伊豆に追放し、北条義時は第2代執権に就任する。
 *1213年(建保元年)2月、鎌倉幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった和田義盛を滅ぼし(和田合戦)、北条義時が侍所別当に就任する。
 *1219年(承久元年)正月、3代将軍・源実朝が源頼家の子である公暁(くぎょう)によって鶴岡八幡宮で暗殺されるが、北条義時が黒幕であったとする説もある。

源実朝暗殺後、鎌倉幕府は源頼朝の縁戚である摂関家の藤原頼経を4代将軍として迎え入れたが、藤原頼経は当時生後1年余の幼児であったため征夷大将軍に任じられる状況ではなかった。
そこで、源頼朝の未亡人・北条政子が「尼将軍」として「鎌倉殿」の地位を代行し、北条義時がこれを補佐して実権を握り幕府政治を推進した。

こうした鎌倉幕府内の混乱に乗じて鳥羽上皇は1221年(永久3年)、北条義時追討の院宣を発して討幕の兵を挙げた。
対して北条義時と北条政子は大軍を上洛させて後鳥羽上皇方を破ると、仲恭天皇の廃位、後鳥羽上皇ら3上皇の配流に加えて、六波羅探題を設置し、後鳥羽上皇方の所領を没収して新たに東国武士たちを「新補地頭」と呼ばれる地頭職に任じた(承久の乱)。
この承久の乱の勝利により、鎌倉幕府は全国的な政権となり、執権・北条義時は鎌倉幕府の最高権力者に上りつめたのである。

1224年(元仁元年)6月、北条義時は62歳で急死し、波乱に満ちた生涯を閉じた。
北条義時の死因については、後妻の伊賀の方に毒殺されたのではないか(『明月記』)、あるいは近習に刺し殺された(『保暦間記』)、という風聞が流れたという。
そのため鎌倉幕府は再び混乱するが、北条政子が北条義時の嫡男である北条泰時を後継者に指名したことで混乱は収束、以後、執権政治が本格的に展開していく。

伊豆の小豪族・北条家の次男として生まれた北条義時は源頼朝の挙兵に参加したことで、鎌倉幕府の最高権力者となり、後鳥羽上皇とも対立し上皇方に勝利した。
姉の北条政子が源頼朝の妻にならなければ、また源頼朝が挙兵しなければ、北条義時は、平凡な東国武士として豊かな自然に囲まれた伊豆の在地で静かな一生を終えたものと考えられる。
現在、北条義時が少年・青年期を過ごした伊豆の里には館跡などのゆかりの史跡が所在する。

北条義時ゆかりの史跡・守山地区

北条義時が生まれた北条氏の館は、伊豆の国市韮山地区四日町・寺家・中條の狩野川沿いの守山周辺にあり、現在、「北条氏邸跡(円成寺跡)」として整備されている。
また、周辺には北条氏の氏寺である「願成就院跡」や「北条政子産湯(うぶゆ)の井戸」などの史跡が所在する。

【北条氏邸跡(円成寺跡)】
「北条氏邸跡(円成寺跡)」は北条氏の館跡と円成寺跡からなる複合遺跡で、北側に隣接する御所之内遺跡も含め北条氏の本拠地としてふさわしい遺跡である。
北条氏邸跡では発掘調査の結果、平安時代末から鎌倉時代前半の建物跡や、井戸、溝などが多数発見され、かわらけ、中国産陶磁器、国産陶器などの遺物が大量に出土している。
また北側の御所之内遺跡では、鎌倉時代の井戸や溝をはじめ中世全般にわたる多くの遺構、遺物が発見されており、北条氏の館との関連が考えられる。
北条氏邸跡では、発見された遺構や豊富な出土遺物から、北条義時や北条時政、北条政子ら北条一族の暮らしぶりを知ることができる。

円成寺跡は1333年(元弘3年)、鎌倉幕府とともに北条氏が滅亡した際、第14代執権北条高時の母である円成尼(えんじょうに)が生き残った一族の女性たちを率いて伊豆に戻り、一族の菩提を弔うために建立した寺院である。
円成尼の没後は伊豆国の守護をつとめた山内上杉氏の庇護を受け、上杉氏の女性が尼として円成寺を守り続けた。
円成寺は長い間、存在が分からなかったが、発掘調査によって鎌倉時代初期の北条氏の館と重なって建てられていたことが明らかとなった。
発掘調査で礎石建物跡、池跡、井戸などが発見され、仏具や茶道具などが出土しており、室町時代の尼寺の様子を知ることができる。

【願成就院跡】
「願成就院跡」は現在の願成就院境内とその周辺部、守山の東側麓を含む広大な寺院跡で、北条時政・北条義時・北条泰時の3代にわたって建造された北条氏の氏寺である。
発掘調査により堂跡や塔跡、池などが発見され、堂・塔の周辺では大量の瓦が出土している。
その中でも、現在の大御堂の南側で発見された礎石建物は、位置や規模、出土瓦の年代から、『吾妻鏡』に記載されている、北条義時が1215年(健保3年)に父・北条時政のために建立した「南新御堂」の可能性が高いという。

【北条政子産湯の井戸】
「北条政子産湯の井戸」は御所之内遺跡の一角にあり、北条義時の生涯を一変させた姉の北条政子が1157(保元2)年に生まれた時に産湯の水をとった井戸と伝えられている。
この井戸の水は北条政子の伝承から、かつてはこの水を飲むと安産になるという信仰があった。

北条義時ゆかりの史跡・江間地区

守山周辺から狩野川を挟んで西側の伊豆の国市長岡地区南江間には、北条義時が青年期を過ごしたと伝わる「北条義時館跡(江間公園)」や、北条義時が建立した「北條寺」などの史跡が所在する。

【北条義時館跡(江間公園)】
「北条義時館跡(江間公園)」は北条義時が青年期を過ごした館があった場所と伝わっており、『増訂豆州志稿(そうていずしゅうしこう)』には「(北条)義時の館は江間村尋常高等小学校の敷地」と記載されている。
現在は江間公園として整備されており、公園の一角にある石碑には「北条義時(江間小四郎)屋敷跡」と刻まれている。
『吾妻鏡』によれば、北条義時は元服後に「北条(小)四郎」と称し、江間に館を構えた後は「江間(小)四郎」と称して「江間殿」と呼ばれたという。

【北條寺】
「北條寺」は北条義時館跡(江間公園)の南側のほど近い場所にあり、北条義時が11歳で亡くなった長男・安千代の冥福を祈るために建立した寺院で、境内の小高い山の上には「北条義時夫妻の墓」がある。
安千代に関する同時代の史料はなく、実在したのかも定かでないが、伊東祐綱(すけつな)が1727年(享保12年)に著した『伊豆志』に次のような伝説が紹介されている。
安千代は勉学のために「千葉寺」という寺院に通っていたが、11歳のとき帰宅途中の大池で大蛇に襲われ命を奪われた。
あるとき、父の北条義時自らが大蛇の左目を弓で射ると、大蛇は水底に潜り姿を消した。
このときから大池はだんだんと浅くなって田地となり、池田という地名になった、という伝説である。
北条義時は亡き安千代の冥福を祈って七堂伽藍を建立し、仏殿の本尊を仏師・運慶に命じて造らせたと伝わる。

今後の史跡整備に向けて

伊豆の国市ではNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送に合わせて、韮山駅東側に2022年(令和4年)1月15日から翌2023年(令和5年)1月15日まで「大河ドラマ館」が開館している。
大河ドラマ館ではドラマに登場する小道具や衣装の展示をはじめ、メイキング映像の上映、ストーリーやキャストを紹介するパネル展示などにより、大河ドラマの世界観を体験できる。
加えて伊豆の国市観光文化課(大河ドラマ推進室)では、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をきっかけとしてさまざまな地域振興をおこなっている。

これまでも大河ドラマの放送年には、多くの観光客が舞台となった地域を訪れ、観光客の増加による経済波及効果が期待される。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」について、スルガ銀行系のシンクタンクである「企業経営研究所」(静岡県長泉町)がおこなった試算によると、静岡県内への経済波及効果は約158億円に上る。

その一方で、例えば、観光客の増加によって交通渋滞やゴミ、喧嘩などのトラブルが生じ、地域住民の生活に支障が出ることや、大河ドラマの放送終了後の観光客の減少をできるだけ防ぎ、大河ドラマ効果をいかに持続させるか、などの課題もある。
また、行き過ぎた観光振興策により史跡・文化財の保護や整備がおろそかになることも避けなければならない。

今後は文化財の活用と保存のバランスを図りながら、「北条氏邸跡(円成寺跡)」や「願成就院跡」などの史跡について、文献調査や発掘調査などの成果に基づいた継続的な整備を進めていただきたい。
また、「北条義時館跡(江間公園)」の発掘調査がおこなわれ、北条義時の青年期の生活を明らかにできるような資料が蓄積されることを期待したい。




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<主な参考文献>
伊豆の国市文化財課 2021年 パンフレット「北条義時がうまれた『伊豆の国』の中世」
原 茂光・池谷初恵 2002年『史跡北条氏邸跡発掘調査報告 ―御所之内遺跡第13次発掘調査報告― 』 韮山町教育委員会
細川重男 2011年『北条氏と鎌倉幕府』〈講談社選書メチエ〉 講談社
安田元久 1961年『北条義時』〈人物叢書〉 吉川弘文館、

(寄稿)勝武@相模

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