【徳川四天王と城】井伊直政と「箕輪城」を探究する~発掘調査成果をもとに~

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井伊直政の生涯

井伊直政(いい なおまさ)は徳川家康を支え、江戸幕府の創建に尽力した武将で、酒井忠次(さかい ただつぐ)・本多忠勝(ほんだ ただかつ)・榊原康政(さかきばら やすまさ)とともに「徳川四天王」の一人として知られている。
井伊直政は1561年(永禄4年)に戦国大名・今川氏の重臣・井伊直親(なおちか)の嫡子として遠江国井伊谷(いいのや)城(静岡県浜松市)で生まれ、幼少期は万千代(まんちよ)と名乗っていた。
1562年(永禄5年)、父・井伊直親が讒言(ざんげん)で今川氏真(いまがわ うじざね)に殺害されると各地を放浪し、1575年(天正3)、15歳のときに浜松城下(静岡県浜松市)で徳川家康の目に留まり仕えることになった。

徳川家康の家臣となった井伊直政は、三河譜代の本多忠勝、榊原康政と並んで徳川軍の先鋒を務めるなど信頼された。
1582年(天正10年)、徳川家康が武田氏旧領の信濃(しなの・長野県)・甲斐(かい・山梨県)の両国を平定すると、井伊直政は徳川家康の命で武田家旧臣120名を配下に置いた。
武田氏の兵法や山県昌景(やまがた まさかげ)の「赤備(あかぞな)え」も引き継ぎ、小牧・長久手の戦い(1584年)などでは常に最前線で活躍し、「井伊の赤備え」と恐れられた。
1590年(天正18年)、徳川家康が関東に移封されると、上野(こうづけ)国箕輪(みのわ)で徳川家臣団最高の12万石を与えられ、箕輪城(群馬県高崎市)の城主となった。




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1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、本多忠勝とともに監軍として東軍を指揮し、また徳川家康の4男で婿でもある松平忠吉(まつだいら ただよし)の後見役も務めた。
戦いの終盤では、敵中突破を試みた島津義弘(しまづ よしひろ)軍を追撃し、その甥である島津豊久(とよひさ)を討ち取るが、その最中に銃撃を受けた。
戦後の論功行賞で、石田三成(いしだ みつなり)の旧領である近江(おうみ)国佐和山(滋賀県彦根市)18万石に加増されたが、関ヶ原の戦いのときの傷がもとで、1602年(慶長7年)2月に没した。

箕輪城の歴史と縄張り(構造)

井伊直政が1590年(天正18年)に城主となった箕輪城は、榛名(はるな)山東南麓の丘陵上に位置し、JR高崎駅から群馬バスの箕郷(みさと)行に乗り約30分の「箕郷本町」で下車、徒歩約20分である。
今から500年ほど前の戦国時代初期に、長野氏によって築城、武田氏・織田氏・北条氏・井伊氏の時代を経て

箕輪城が所在する上野国は、戦国時代中ごろまで関東管領・山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏の領国で、守護代・長尾(ながお)氏の本拠地でもあった。
その山内上杉氏・長尾氏に仕えた長野(ながの)氏が1500年(明応9年)頃に箕輪城を築いたとされているが、築城年代については定かではない。
長野氏は長野方業(まさなり)・長野業正(なりまさ)・長野氏業(うじなり)と続き、長野業正は1546年(天文15年)、河越の夜戦に関東管領・上杉憲政(のりまさ)軍の一員として参戦した。
上杉軍が敗れて上杉憲政が越後国(新潟県)の長尾景虎(かげとら・のちの上杉謙信)の許へ逃れると、箕輪城は北条氏康(ほうじょう うじやす)・武田信玄(たけだ しんげん)・上杉謙信(うえすぎ けんしん)が所有をめぐり争うようになった。
長野業正は「箕輪衆」と呼ばれる在地の武士たちをまとめ、武田信玄による侵攻をよく防いだが、
長野氏業の代の1566年(永禄9年)、箕輪城は武田信玄の2万の大軍に攻められて落城し、長野氏業は一族・郎党とともに自害した。

武田信玄は1567年(永禄10年)3月、真田幸綱(さなだ ゆきつな・幸隆)に箕輪城の普請と知行割(ちぎょうわ)りを命じ、真田氏以降は浅利信種(あさり のぶたね)、内藤昌豊(ないとう まさとよ)、内藤昌月(まさあき)が城代を務めた。
1582年(天正10年)2月の天目山の戦いで武田氏が滅亡した後、箕輪城には織田信長の重臣・滝川一益(たきがわ かずます)が入城し上野国を統治した。
しかし、同年6月の本能寺の変で織田信長が自害すると、北条氏政(ほうじょう うじまさ)・北条氏直(うじなお)父子が率いる5万以上の大軍が上野国に侵攻する。
北条軍は神流川(かんながわ)の戦いで滝川一益を破り、箕輪城には北条氏政の弟・北条氏邦(うじくに)が入城し、その後は猪俣邦憲(いのまた くにのり)らが城代を務めた。




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1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際、箕輪城には前田利家(まえだ としえいえ)・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)・真田昌幸(さなだ まさゆき)らの連合軍が攻め寄せ、戦うことなく降伏・開城した。
後北条氏滅亡後、その旧領の関東6か国を徳川家康が領すると、井伊直政が12万石を与えられ箕輪城の城主になった。
井伊直政はこれまでの箕輪城の大改修をおこない、また家臣団の居住域や城下町の拡張・整備も実施した。
箕輪城は中世城郭から新しい城郭へと生まれ変わったが、1598年(慶長3年)に井伊直政が高崎城(群馬県高崎市)に居城を移すと廃城となり、その後、1987(昭和62)年に国指定史跡に指定された。

現在の箕輪城は井伊直政時代の縄張りを伝えており、その主要部は本丸とその北側の御前曲輪(ごぜんくるわ)、南側の二の丸からなリ、最大幅約30mの空掘で区切られている。
各曲輪の規模は、本丸が東西約70m✕南北約100m、御前曲輪が東西約70m✕南北約50m、二の丸が東西約80m✕南北約70mである。
この主要部の北東に稲荷(いなり)曲輪、北西に通仲(とおりなか)曲輪、西に蔵屋敷、南西に三の丸、そして東側下に帯(おび)曲輪、といった各曲輪が主要部を取り囲むようにある。
さらに、その外側には、新曲輪、東に搦手馬出(からめてうまだし)、南に郭馬出、西に鍛冶(かじ)曲輪かある。
これらの各曲輪は、空堀や段差で仕切られ、斜面は切岸(きりぎし)となっており、曲輪間は土橋か架橋(かきょう)で結ばれていた。

主要部の南側には、幅約20〜30m、深さ約7〜8mの大堀切が約200mにわたって尾根筋を遮断し、南北を分断している。
大堀切の南方向には郭馬出、凸形に突出した「木俣(きまた)」と呼ばれる曲輪、その周囲には空堀を隔てて各曲輪がある。
木俣の南側には空堀状の腰曲輪が約350mに渡って設けられ、その下段には水の手曲輪などがあり、南側からの敵の侵入を防ぐ縄張りとなっている。
また、城の西側は榛名白川によって形成された河岸段丘で、一方、城の東側は南北方向に空堀を掘ることで、城の守りを強固なものにしている。

本丸の虎口(こぐち・城の出入り口)は北・西・南の3か所にみられるが、南の虎口が正面口であったと考えられている。
そこで、本丸へは、城の南西端にある追(大)手門から大堀切の西端の虎韜(ことう)門・鍛冶曲輪・三の丸を経て二の丸へ入るルート、南側山麓から木俣へ入り、郭馬出を経て二の丸へ入るルート、そして搦手馬出から二の丸へ至るルートの、3本の登城ルートが推定されている。

以上、箕輪城の縄張り(構造)を観察すると、大堀切の北側は南側に比べて大規模な堀や馬出などを持つ精密な縄張りとなっている。
この北側部分が北条氏や井伊直政の時代に大改修されたと考えられていたが、発掘調査によりその詳細が明らかになりつつある。

箕輪城の発掘調査

箕輪城では1998年度(平成10年度)から2006年度(平成18年度)にかけて、本丸・二の丸・三の丸・郭馬出などの主要部の約7000㎡の範囲で発掘調査がおこなわれた。
この発掘調査では、堀、石垣、門跡(もんあと)、石組の排水溝、土塁、掘立柱建物などが検出されているが、ここでは箕輪城の特徴を示している堀、石垣、門跡について整理する。

まず、堀については、長野氏・武田氏時代から後北条氏時代を経て井伊直政時代までの変遷が確認されている。
長野氏・武田氏時代は本丸の南東側と北西側で2条の堀(1号堀・2号堀)があり、北条氏時代になると、本丸の南東側から西側を巡る堀(本丸堀)が掘られ、また北西側の1号堀が一度埋められ、新しい3号堀が掘られた。
そして、井伊直政時代には北西側の3号堀が再び埋められ、また、本丸と御前曲輪の間にも堀が掘られた。

次に、石垣は追(大)手門から本丸へのルートにあたる虎韜門・鍛冶曲輪・三の丸・二の丸のほか、郭馬出、御前曲輪西側の堀などにみられるが、発掘調査の結果、箕輪城の主要部の多くの場所から石垣が検出されている。
これらの石垣は、城の西側を流れる榛名白川の河原石を加工せず用いた野面積みで、井伊直政時代を中心とするもので、一部はその前の時期まで遡るという。
ここでは、三の丸西面と大堀切内で検出された石垣について、その特徴などを整理する。

三の丸西面では、石材の長辺側を横位置に積み上げ、箕輪城内で最も高い約4.1mの石垣が確認されている。
また、石垣の下層からは、大堀切と並行して最高約1.3mの高さを測る石垣が確認されているが、の石の大きさや積み上げ方などから、後北条時代のものと推定されている。
江戸時代以前の関東地方のいて、こうした高石垣は豊臣秀吉が小田原攻め(1590年)の本営として築いた石垣山城(神奈川県小田原市)など限られた城でしかみられない。

大堀切内では、堀底付近で堀に直交して、25㎝から70㎝ほどの石を、平らな面を表面に、長辺側を横にして積み上げた石垣が検出されている。
この石垣は、この形状から堀底を侵入してくる敵に備えるための防御壁か、堀底内の土砂の流失を抑える機能があったと考えられている。
また、大堀切で唯一の土橋の基底部で、高さ約1.5m、幅約1.6以上の土留(つちどめ)のための石垣が検出されている。

門跡は本丸西虎口、郭馬出西虎口、御前曲輪西虎口で確認されており、本丸西虎口の門は復元計画が進められており、郭馬出西虎口の門は2016年(平成28年)に復元された。
本丸西虎口では、蔵屋敷から本丸へ架かっていたと推定される木橋(きばし)の本丸側で、幅2.94m、奥行1.54mを測る門跡が確認されている。
門の形態は4つの礎石の配置などから1階建ての高麗(こうらい)門であると考えられており、本丸に3つある虎口の中では最大の間口(まぐち)を有している。
この門は現在、全国に現存する城門や城絵図を基に復元図が作成されており、今後、復元を進めていくという。

郭馬出西虎口では、2012年度(平成24年度)の発掘調査において、南側の木俣から続く土橋を渡った場所で幅5.73m、奥行3.48mを測る門跡が確認され、屋根から落ちる雨水を受けるための石敷きの排水溝も良好に残っていた。
残存していた8つの礎石の配置などから2階建ての櫓(やぐら)門が推定され、関ヶ原の戦い(1600年)以前では今のところ、関東地方最大規模の門跡である。
この門は2014年(平成26年)から伝統的工法による復元工事が進められ、2年後の2016年(平成28年)2月に完成している。

御前曲輪西虎口では、西側の通仲曲輪から御前曲輪へ入る場所で、幅3.1m、奥行3.1mを測る門跡が確認されている。
残存していた6つの礎石の配置から、主柱(しゅばしら)2本をその前後4本の控柱(ひかえばしら)で支える四脚(しきゃく)門と推定されている。
また、屋根から落ちる雨水を受けるための溝には156個の石塔(せきとう)の部材が整然と並べられていることも確認されている。

箕輪城の発掘調査で出土した遺物の大半は土器で、特に、宴会や儀式の場で使い捨てにされた素焼きの皿である「かわらけ」が大量に出土している。
出土した「かわらけ」の中には、後北条氏の本拠・小田原で作られた「手づくねかわらけ」が6点あり、箕輪城と後北条氏時代の小田原とのつながりがあったことが知られる。
染付(そめつけ)など中国産の貿易陶磁器、瀬戸・美濃(愛知県・岐阜県)産の陶磁器なども出土しており、その数量は群馬県内の城館の中では最大である。
また、関ヶ原の戦い(1600年)以前の関東地方の城館では初となる京都で焼かれた楽茶碗(らくちゃわん)も出土している。
楽茶碗は、千利休(せんの りきゅう)の侘茶(わびちゃ)の美意識を取り入れた軟質施釉(なんしつせゆ)陶器で、箕輪城内で茶会が開催されていたことが推定される。

その他、鉄鏃(てつぞく)や鉄砲玉、刀の鍔(つば)、鉄砲製品、刀子(とうす)、笄(こうがい)、銭、武士の絵が描かれた硯(すずり)など、戦乱時代の武士の生活や文化を知ることができる豊富な遺物が出土している。

井伊直政時代の箕輪城

箕輪城は山内上杉氏・長尾氏に仕えた長野(ながの)氏が1500年(明応9年)頃に築いたとされている。
その後、関東地方を巡る戦乱の中で、箕輪城は武田信玄の持ち城となり、真田幸綱、内藤昌月らが城代を務めた。
武田氏の滅亡(1582年2月)後は織田信長の重臣・滝川一益が、本能寺の変(1582年6月)後は北条氏邦が城主となった。
1590年(天正18年)、後北条氏の滅亡に伴って徳川家康が関東に入ると、その重臣・井伊直政が12万石で箕輪城の城主になった。

井伊直政は箕輪城の大改修に着手し、堀の拡幅や石垣の構築、馬出の築造など、当時最新の築城術を取り入れながら新しい城に変貌させた。
その大改修の状況は、1998年度(平成10年度)から2006年度(平成18年度)にかけておこなわれた発掘調査で明らかとなった。
例えば、堀の拡幅については前述したように、長野氏・武田氏時代は本丸南東側と北西側に2条の堀(1号堀・2号堀)があり、北条氏時代には本丸の南東側から西側を巡る本丸堀が新たに掘られ、2号堀が埋められ、新たに3号堀が掘られた。
井伊直政時代には北西側の堀が再び埋められ、本丸と御前曲輪の間にも新たな堀が掘られたことが確認されている。

石垣については、追(大)手門から本丸へのルートにあたる虎韜門・鍛冶曲輪・三の丸・二の丸のほか、郭馬出、御前曲輪西側の堀など、箕輪城の主要部で石垣が多く使われている。
特に、三の丸西面では、高さ約4.1mに及ぶ石垣が積まれており、その中には巨石もみられ、見せることを意識したものと考えられる。
江戸時代以前の関東地方では石垣を用いた城は珍しく、井伊直政は箕輪城を北関東支配のための重要拠点として大改修したことを物語るものであろう。

その他、幅約20m~40mに及ぶ堀や大堀切による防御ラインが構築され、本丸の周囲には南に郭馬出、南東に搦手馬出、北東に馬出の機能を有する稲荷曲輪が、また主要部外には出丸状の曲輪が配置された。
こうした防御ラインの構築や主要部前面の馬出、主要部外の出丸状の曲輪などは、関東移封前の5ヶ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)を領していた時期の徳川氏関連の城にみられる特徴である。
それに加えて、井伊直政は城の主要部に石垣を取り入れ、虎口に巨大な城門を設けるなどして、箕輪城を徳川家臣団の城の中では最先端の城に大改修したのである。
この背景には、井伊直政が徳川家臣団の中で最大石高を有する地位を誇示したかったこと、武田氏の旧臣を多く家臣にしたことで、この箕輪城の重要性を誰よりも深く認識していたことがあったのであろう。




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<主な参考文献>
加藤 埋文 2021年『家康と家臣団の城』KADOKAWA
平井 聖、他 1979年『日本城郭大系 第4巻 茨城・栃木・群馬』新人物往来社
真田幸綱(幸隆)ゆかりの「箕輪城」~歴史・特色・史跡整備~
日本百名城・箕輪城WEB散歩

(寄稿)勝武@相模

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