北条氏邸跡の概要
静岡県伊豆の国市の守山にある「史跡北条氏邸跡(円成寺跡)」(以下、「北条氏邸跡」という)は北条氏の館と、鎌倉幕府滅亡後に北条氏の菩提(ぼだい)を弔うために建立された円成寺(えんじょうじ)からなる複合遺跡である。
2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公である北条義時は、父・北条時政、姉・北条政子らとともに、鎌倉に移るまでこの館で暮らした。
北条氏邸跡は鎌倉幕府執権・北条氏の興亡を物語る遺跡として国指定史跡に指定されており、現在、整備、活用に向けた取組が進められている。
この一つとして、1992年(平成4年)と1993年(平成5年)に静岡県韮山町(現・伊豆の国市)によって発掘調査が行われた。
発掘調査では平安時代末・鎌倉時代・室町時代の建物跡や井戸、溝などが多数発見され、かわらけ、中国産陶器、国産陶器などの遺物が大量に出土した。
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本稿では発見された中世の遺構の状況や豊富な出土遺物の特徴などから、北条義時や北条時政、北条政子らの伊豆での生活の様子について探究する。
発見された遺構
1992年度(平成4年度)・1993年度(平成5年度)に行われた北条氏邸跡の発掘調査では、館に関する多くの遺構が発見された。
掘立柱建物跡(SH)が12棟、塀跡と考えられる柱穴列(SH)が9基、低い土塁状の遺構が1基、井戸(SE)が4基、溝状遺構(SD)が39基、土坑墓(ST)が5基、土坑(SX)が62基、集石遺構(GS)が19基などである。
掘立柱建物は礎石(そせき)を使わず、地面に掘った穴に直接、柱を立てて組み立てた建物である。発掘調査で確認された柱の穴の跡(以下、「柱穴(ちゅうけつ)」という)を、柱穴の間隔などを考慮して結ぶことで、当時の建物の姿を推定することができる。
北条氏邸跡で発見された掘立柱建物跡12棟のうち、第1号~第5号掘立柱建物跡、第11号・第12号掘立柱建物跡の7棟が最後まで調査されているが、残り5棟は柱穴の確認だけで終わっている。
掘立柱建物跡には、柱穴列が付随するものもあり、掘立柱建物跡の規模や柱穴列も含めた位置関係、重複関係などは以下のとおりである。
【第1号掘立柱建物跡(SH01)】
柱の間隔(以下、「柱間」という)2.1m、面積約51㎡の4×2間の総柱建物で、南側に1.6mの庇(ひさし)が設けられている。
【第2号掘立柱建物跡(SH02)】
柱間2.1m、面積約56㎡の4×3間の総柱建物で、第1掘立柱建物跡の南側に位置し、第3号掘立柱建物跡と重複するが、新旧関係は不明である。
また、第2号掘立柱建物跡と第3号掘立柱建物跡を囲むように、東側と南側に第2号柱穴列が、東側に近接して第3号柱穴列が同じ方向で確認されている。
【第3号掘立柱建物跡(SH03)】
柱間2.1m、面積約28.3㎡の3×2間の側柱(がわばしら)建物で、第2号掘立柱建物跡と北西部で重復しているが、新旧関係は不明である。
【第4号掘立柱建物跡(SH04)】
西側が調査区外にあるため詳細は不明であるが、柱間2.1mの南北4間、東西2間以上の建物である。
第1・第2・第3号掘立柱建物跡とは、方向がやや異なっており、北側・東側に第4号柱穴列が同じ方向で確認されている。
【第5号掘立柱建物跡(SH05)】
柱間2.1m、面積約9.5㎡の2×1間の建物で、第4号掘立柱建物跡の南に位置する。
【第6号掘立柱建物跡(SH06)】
柱間2.1m、面積約8.0㎡と推定される2×1間の建物で、第5号掘立柱建物跡の南に位置する。
【第7号掘立柱建物跡(SH07)】
柱間2.Omの2×2間の建物で、第6号掘立柱建物跡の南側に位置する。
【第8号掘立柱建物跡(SH08)】
柱間2.Omの2×2間の建物で、第7号掘立柱建物跡と並列して位置する。
【第9号掘立柱建物跡(SH09)】
柱間2.Omの2×3間の総柱建物で、第10号掘立柱建物跡と重複するが、新旧関係は不明である。
【第10号掘立柱建物跡(SH10)】
柱間2.1mの2×1間の建物で、第9号掘立柱建物跡と重複して位置する。
【第11号掘立柱建物跡(SH11)】
柱間2.Om、面積約13.2㎡の3×1間の建物で、第12号掘立柱建物跡と南北方向に並列し、東側に第10号柱穴列、 西側に第8号柱穴列が同じ方向で位置する。
【第12号掘立柱建物跡(SH12)】
柱間2.Om、面積約12.5㎡の3×1間の建物で、第11号掘立柱建物跡と南北方向に並列し、東側に塀跡と考えられる第10号柱穴列、 南西側に第9号柱穴列が同じ方向で位置する。
以上のように、掘立柱建物跡の規模は、柱間は2.0m~2.1mとほぼ同じであるが、規模は最大のものが4×3間、最少は2×1間で、2×1間のものが最も多い。
規模が大きな建物は、主人とその家族の住居(主屋)や持仏堂、従者の家などで、小さな建物は倉庫や厩(馬屋)と考えられる。
また、いくつかの建物跡や柱穴列が重複しており、同じ場所で建て替えが行われたことが分かる。
遺物はかわらけ、白磁・青磁(せいじ)などの中国産陶器、国産陶器の常滑(とこなめ)甕の小破片のほかに瓦、鉄釘が出土している。
井戸は4基確認されているが、調査が行われたのは2基である。
第1号井戸(SE01)は、上部が2.O×l.9m、底部が0.75×0.69mの隅丸方形で、第2号・第3号掘立柱建物跡と重複するが、井戸の方が古いという。
遺物はかわらけ、中国産陶器の白磁・青磁、東遠江系山茶碗などが出土している。
第2号井戸(SE02)は1辺1.5mの方形の木枠を持つが、調査途中で崩落したため、規模などの詳細は不明である。
遺物はかわらけ、中国産陶器の白磁・青磁、常滑甕、東遠江系山茶碗、木製箸、種子、獣骨などが出土しているが、かわらけはロクロ成形のものと、手づくね成形のものとが大量に出土している。
溝状遺構は39基のうち19基(第1号~第19号溝状遺構)が中世のものであり、かわらけ、中国産陶器、国産陶器では瀬戸美濃・常滑、山茶碗、砥石、銭貨、瓦質製品などが出土している。
これらの遺物の中で、かわらけについては、第1号溝状遺構では4か所で集中して出土、第4号溝状遺構では6,000点以上、第16号清状遺構でも1,700点近くが出土している。
その他の遺構としては、土坑墓、土坑、集石、ピット群が確認されている。
遺物はかわらけ、中国産陶器、瀬戸美濃・常滑・瓦などが出土しているが、一部の集石を除いて出土数は少ない。
出土した遺物
中世の出土遺物は総計で62,972点、そのうち最も多くを占めるのが土器類の57,681点(91.6%)、
次いで陶磁器が3,597点(5.7%)、瓦が661点(1%)、金属製品・瓦質製品・石製品はいずれも1%に満たない。
中世の土器・陶磁器類の内訳は、かわらけが57,577点(94%)、国産陶器が2.495点(4.1%)、 中国産陶磁が1,102点(1.8%)、山茶碗が92点(0.2%)、 鍋類が12点(0.02%)である。
山茶碗や鍋類が非常に少ないのは、静岡県内でも伊豆地域・駿河東部で顕著である。
国産陶器の産地は、常滑が1,434点(39.1%)、瀬戸焼・美濃焼が796点(21.9%)、渥美焼・湖西焼が236点(6.6%)である。
一方、静岡県内に産地のある東遠江(とうとうみ)系山茶碗は65点(1,8%)、 志戸呂・初山は23点(0.6%)で著しく少ない。
中国産陶磁の出土総数は1102点で、種別でみると青磁が712点(64.6%)、白磁が261点(23.7%)、 青白磁が53点(4.8%)、陶器が72点(約6.5%)、染付が4点(0.4%)である。
以上のような中世の土器・陶磁器類のなかでも、かわらけが最も多く出土している。
かわらけは素焼きの土器のことで、手づくねで作られたかわらけ(以下、「手づくねかわらけ」という)とロクロで作られたかわらけ(以下、「ロクロ成型かわらけ」という)がある。
かわらけは公家や武士などの館において宴会や儀式の際に食器や灯明皿として大量に使用され、使い終わると一括して廃棄される使い捨ての器である。
北条氏邸跡の発掘調査では57,577点のかわらけが出土しており、かわらけと一緒に出土(以下、「共伴」という)する陶磁器類とともに変遷を追うことでき、それを基に中世の遺構が第1期から第5期までの5つの時期に区分され、各期の実年代は以下のように想定されている。
【第1期】
手づくねかわらけが出現以前の段階で、共伴する中国産陶磁や山茶碗の年代から12世紀中頃から後半と考えられている。
【第2期】
手づくねかわらけを伴う段階で、中でも第2号井戸出土の手づくねかわらけは、平泉や鎌倉で出土する手づくねかわらけと比較して13世紀初めに位置づけられる可能性が高いという。
それに加えて共伴する白磁や青磁などから12世紀末から13世紀初頭と考えられている。
【第3期】
共伴する陶磁器類はないが、かわらけは前の段階より小型化・粗雑化していることなどから13世紀前半から中頃と考えられている。
【第4期】
手づくねかわけはなく、ロクロ成形かわらけのみの段階であり、コースター型のかわらけも出土していることから、13世紀後半以降と考えられている。
ただし、かわらけ、陶磁器類ともに出土量が少なく、また、年代に幅があることから、今後検討が必要であるという。
【第5期】
第4号・第16号溝状遺構から出土した瀬戸美濃産の陶磁器などから、14世紀後半から15世紀前半、あるいは15世紀中頃と考えられている。
多様なかわらけが出上しており、陶磁器類の年代幅も広いことから、さらに細かな時期区分が可能 であるという。
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以上、北条氏邸跡の発掘調査(1992・1993年)で発見された遺構の規模や重複関係、出土遺物の年代観などについて整理した。
次項では、遺構の位置や向き、重複関係、遺物の年代観などを基にして、掘立柱建物跡などの遺構の変遷を追いながら、往時の北条氏の館の様子について探究する。
伊豆・北条氏の館の様子
発掘調査(1992・1993年)によって中世の北条氏邸が第1期から第5期までの変遷と、各期の年代が明らかとなっており、それを整理すると以下のようになる。
【第1期】
12世紀中頃から後半の時期で、遺構は第1号掘立柱建物跡、第1号柱穴列、第1号井戸がある。
【第2期】
13世紀初め頃の時期、遺構は第1号・第2号・第3号・第4号・第 7号・第8号・第9号・第10号掘立柱建物跡、第6号・第7号柱穴列、第2号井戸がある。
第9号・第10号掘立柱建物跡は大型掘立柱建物跡(第1号・第2号)と関連する施設、また、直交する第6号・第7号柱穴列はL字の区画施設の可能性が高いという。
各遺構や周辺からは、かわらけ、中国産陶器、常滑などが大量に出土している。
【第3期】
13世紀前半から中頃の時期で、遺構は第3号溝状遺構、土坑8基があり、第4号掘立柱建物跡が残存していた可能性もあるという。
【第4期】
13世紀後半以降と考えられているが、今後検討が必要であるという。
遺構は第1号・第2号溝状遺構、第1号~第5号土坑墓、第11号溝状遺構などがある。
調査区北側に土坑墓が集中していることから、当遺跡の北側が居住地から墓域に変わり、第11号溝状遺構が区画溝の役割を果たしていた可能性が考えられている。
【第5期】
14世紀後半から15世紀前半、あるいは15世紀中頃の時期と考えられている。
遺構は調査区南側に多く展開し、第11号・第12号掘立柱建物跡やそれに付随する第8号・第9号柱穴列、築地塀の基礎と考えられる土塁状の遺構などがある。
その西側には、向きが異なる6基の溝状遺構があるが、それは区画施設で西側に門が開いていたと考えられている。
以上のような建物跡などの変遷をみると、北条氏邸跡は12世紀末から13世紀初め(第1期・第2基)にかけて最盛期を迎えており、まさに北条時政・北条義時・北条政子らが暮らしていた時期に相当する。
遺物はかわらけ、中国産陶器、常滑焼・渥美焼などの国産陶器などが出土している。
それらのうち、かわらけと中国産陶器は12世紀末から13世紀前半にかけて出土量が多くなる。
かわらけは、手づくねかわらけが多くなり、中国産陶器にいたっては最多である。
この時期は日宋貿易によって陶磁器など多くの商品が日本に輸入され、国内でも壺や甕を大量生産する窯が操業をはじめた。
北条氏はこれらを入手できる財力を有し、狩野川の水運や下田街道を通じて運ばれる流通を把握していたと考えられ、北条氏の館では中国産の天目茶碗や香炉などの高級品が使われていたであろう。また、手づくねかわらけが一括して大量に廃棄されていることは、京や鎌倉との関係や、宴会や儀式が頻繁(ひんぱん)に行われていたことを示している。
北条氏邸跡では、13世紀後半から掘立柱建物跡や柱穴列、出土遺物が急激に減少するが、それは北条氏の生活の中心が鎌倉に移ったためと考えられる。
14世紀後半から15世紀前半にかけては、遺跡の南側で区画された遺構の配置がみられ、かわらけや国産陶器の瀬戸焼・美濃焼の出土量は最多となる。
かわらけは、ススが付着しており灯明皿(とうみょうざら)に使用したと考えられ、国産陶器は天目茶碗や香炉などの仏具が多く出土している。
これは円成寺に関する遺構・遺物であり、その後の発掘調査でも礎石建物や池、区画施設、井戸などが発見され、宝珠(ほうじゅ)形水晶製品や、仏花瓶(ぶっかびょう)、香炉、燭台(しょくだい)などの仏具が出土している。
現在、北条氏邸跡は調査・整備中とのことで原則、非公開となっているが、本格的な整備は数年先となるため、暫定的な園路と解説板を整備し一部公開されている。
透明な解説板も設置されており、板越しに発掘調査跡を見通すと当時の建物が建っているように見え、建物群の位置関係や規模が理解できように工夫されている。
今後も発掘調査の成果に基づく整備が進められ、歴史教育の場として活用されることを期待したい。
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<主な参考文献>
・伊豆の国市文化財課 2021年 パンフレット「北条義時がうまれた『伊豆の国』の中世」
・原 茂光・池谷初恵 2002年『史跡北条氏邸跡発掘調査報告 ―御所之内遺跡第13次発掘調査報告― 』 韮山町教育委員会
・「伊豆の国市/史跡北条氏邸跡(円成寺跡)一部公開について」
(寄稿)勝武@相模
・【鎌倉殿の13人】北条義時とゆかりの史跡~静岡県伊豆の国市編~
・波多野氏の館の探究~「波多野城址」と「東田原中丸遺跡」
・土肥実平の館を探究する~土肥館と土肥城~
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