真田信繁(幸村)が人質・家臣として過ごした「春日山城」~人質の経緯と「春日山城」の概要~
武田氏滅亡後の真田氏の動向と信繁真田信繁の父・真田昌幸は1582(天正10)年3月に武田家が滅亡すると織田信長に服属した。昌幸は信濃佐久・小県2郡と上野国を管轄した滝川一益の与力となり、「厩橋城」に母・恭雲院と次男で当時11歳の弁丸(信繁)...
武田氏滅亡後の真田氏の動向と信繁真田信繁の父・真田昌幸は1582(天正10)年3月に武田家が滅亡すると織田信長に服属した。昌幸は信濃佐久・小県2郡と上野国を管轄した滝川一益の与力となり、「厩橋城」に母・恭雲院と次男で当時11歳の弁丸(信繁)...
「龍口寺」の大書院江ノ島からみて北東の高台にある寂光山「龍口寺」は、1337年(延元2年)に日蓮宗の開祖である日蓮の弟子日法が、「龍ノ口法難の霊跡」として一堂を建立したのが始まりとされている。「龍ノ口法難」とは、1271年(文永8年)に日蓮...
「新府城」の構造「新府城」は 1581(天正9)年、真田昌幸らを普請奉行として築城された。築城経緯等については、真田昌幸が築城に関わった「新府城」~築城背景を探る~を参照いだきたい。城の構造は、山頂の本丸を中心に、西に二の丸、南に西三の丸と...
「新府城」の概要「新府城」は韮崎市の北方、「七里岩」の台地南端の小山に築かれた戦国時代末期の山城である。「七里岩」は八ヶ岳の火砕流によって形づくられ、長野県境から韮崎までの釜無川左岸に約30㎞にわたり高さ70m前後の急な崖が続く。その台地上...
上野・白井城「白井城」は群馬県渋川市白井に位置する室町時代から江戸時代初期の城郭である。利根川と吾妻川の合流地点、吾妻川側の断崖上に築かれ、越後(新潟県)から関東平野への出入り口を抑える要衝であった。「白井城」へのアクセスは、関越自動車道の...
はじめに真田幸綱(幸隆)は、1541(天文10)年5月の海野平の戦いで敗北すると、海野一族ともに上野(こうずけ)国に逃れ、「箕輪(みのわ)城」の城主・長野業正(なりまさ・業政とも)のもとで3年間ほど亡命生活を送ったとされている。「箕輪城」は...
はじめに真田一族の主な城郭には、室町時代からの「真田本城」・「松尾古城」(長野県上田市)、武田信玄の幕下となった真田幸隆が1551(天文20)年に攻略し本拠とした「戸石城」(長野県上田市)、1563(永禄6)年に攻略した新たな本拠とした「岩...
従来の真田丸真田丸は1615年の大坂冬の陣において、大坂城に入城した真田信繁(幸村)が造営した出丸である。信繁は作戦方針を巡り、後藤又兵衛らの浪人衆とともに、城から打って出る積極策を提案するが、大野治長らの豊臣家直臣に阻まれ籠城策に決まった...
真田丸の戦い大坂城へ入城した真田信繁は、明石全登、後藤基次、長宗我部盛親、毛利勝永とともに、浪人衆を率いる一軍の将に任命された。10月中旬の軍議で信繁は、豊臣秀頼自ら天王寺まで出撃し、信繁・勝永・基次らが宇治・瀬田に陣を構え、徳川方の大軍を...
出羽・大館城の城下町になる秋田県大館市には、真田幸村の墓(真田信繁の墓)と伝わる墓石があります。ずっと宿題(課題)として残っておりましたが、ようやく秋田・大舘にある伝・真田幸村の墓をお参りさせて頂きました。秋田にある真田幸村の墓は、大館の「...