五稜郭の築城
日本の城は弥生時代の環濠集落から古代の山城・水城(みずき)、城柵(じょうさく)などを経て、中世になる堀と土塁からなる館・山城などが全国各地に築かれた。
現在、全国に3万~4万の城があったとされているが、その大半は中世の城である。
安土・桃山時代には、石垣と天守、瓦を特徴とする織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城に代表される近世城郭が江戸時代初頭にかけて築かれたが少数である。
江戸時代後期になると、日本と通商関係が無かかったロシアやイギリス、フランス、アメリカの軍艦・商船が日本近海に来航するようになった。
江戸幕府は海防のため1840年(嘉永2年)、諸藩に大砲を据えた台場の築城を命じたことで、日本各地に西洋式築城術を取り入れた五稜郭(北海道函館市)や台場が築かれた。
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五稜郭は1854年(安政元年)の日米和親条約によって箱館が開港した際、函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造されたものである。
1857年(安政4年)から五稜郭の築城が始まり、1866年(慶応2年)に完成するが、わずか2年後に大政奉還が行われ江戸幕府は崩壊した。
その後、明治維新政府の箱館府として使用されるが、1868年(明治元年)10月、榎本武揚(えのもとたけあき)らの旧幕府軍に占領されてその本拠となった。
翌1869年(明治2年)5月、明治新政府軍と旧幕府軍とで元新選組の土方歳三(ひじかたとしぞう)が戦死するなどの激しい戦闘を経て、榎本武揚らは降伏し五稜郭は開城し(五稜郭の戦い)、1年半近くにわたった戊辰戦争は終了した。
明治期の五稜郭は建物が解体され、陸軍の練兵場として使用された後、1914年(大正3年)からは五稜郭公園として一般開放されて市民の憩いの場となっている。
また、五稜郭は幕末から明治維新にかけての日本の歴史を理解する上で重要な遺構として、1922年(大正11年)に国指定史跡となり、1952年(昭和27年)には北海道では唯一の特別史跡に指定され、また「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産にも選定されている。
五稜郭への交通アクセスは、函館駅(JR函館本線)から市電かバスである。市電は「函館駅前」から約16分の「五稜郭公園前」で下車して徒歩約15分、函館バスでは「函館駅前」から約16分の約16分の「五稜郭公園入口」で下車して徒歩約7分である。
五稜郭の設計者・武田斐三郎
五稜郭はヨ-ロッパの城塞都市を参考にした西洋式の城郭であるが、その設計・建設を担当したのは蘭学者の武田斐三郎(あやさぶろう)である。
武田斐三郎は1827年(文政10年)に伊予(愛媛県)大洲藩士・武田敬忠の次男とし生まれ、大洲藩校の明倫堂などで学んだ。
1848年(嘉永1年)、藩主・加藤泰幹の許しを得て大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾で医学を修業中に西洋兵術への関心を高め、1850年(嘉永3年)に江戸に出て佐久間象山の兵学塾で西洋の砲術・築城術・航海術を学び、その知識を身に付けた。
1850年(嘉永3年)、武田斐三郎は佐久間象山の推挙で江戸幕府に出仕し、箱館奉行所諸術調所教授役として国防などを担った。
1856年(安政3年)に箱館港防備のための弁天崎台場、翌1857年(安政4年)からは箱館奉行所の移転に伴い、五稜郭の設計・建設を担当したのである。
その後の武田斐三郎は1864年(元治1年)に江戸開成所教授に任じられ、のちに大砲製造所頭取としてナポレオン砲の国産化にも成功した。明治維新後は明治新政府に出仕し、日本軍の近代兵制、装備、運用方面の指導者となり、1875年(明治8年)年には士官学校の開校にも尽力し1880年(明治13年)に病死した。
現在、東京芝東照宮社前の参道脇に有栖川宮熾仁親王の揮毫(きごう)による碑が建てられている。
西洋式築城術の導入
五稜郭の設計・建設にあたって武田斐三郎が参考にした西洋式築城術については、江戸時代初期からオランダを通じて導入され、軍学者により翻訳・刊行されている。
江戸時代初期の1650年(慶安3)年には、兵学者・北条安房守氏長がオランダ人ユリアン・スハーデル(Juiliam Sch Lten)から 築城法・攻城法等を伝聞し、『由利安牟攻城傳(ゆりあむこうじょうでん)』としてまとめ、時の三代将軍・徳川家光に奏上している。
江戸時代後期には、御三卿・清水家の御用人で軍学者でもあった村尾正靖(1760年-1841年)が『築城故實』で西洋の稜堡(りょうほ)式築城を加味した砦を考案し発表した。
幕末期には、海防の重要性から鉄砲主体の従来の築城術を大砲主体のものに改変するため西洋式築城術が大いに研究され、翻訳書が相次いで刊行された。
例えば、1859年(安政6年)年には、廣瀬元恭がベクマン著の『築城新法』、また伊藤慎がケルキウエィキ著の『築城全書』を翻訳・刊行している。
また、1860年(万延元年)年には、大鳥圭介が吉母波石児著の『築城典刑(てんけい)』を紹介しており、ほかにも1865年(慶応元年)に『斯氏(すし)築城典刑』、1868年(慶応3年)に『築城約説』などが紹介されている。
五稜郭は火砲に対応するため15世紀半ば以降のイタリアで発生した星形要塞を参考にしており、その築城方式は「稜堡式城郭」、あるいは「ボーバン(ヴォーバン)様式」とも呼ばれている。
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様式にその名を残すボーバンとは、17世紀後半のフランスでのルイ14世に仕えた軍人(技術将校)、建設技術者、建築家、また都市計画家として多彩な才能を発揮した。
ボーバンは150の戦場の要塞を建設あるいは修理しながら、近代的な稜堡式城郭の築城法を体系化し、次のように論理的に発展させた。
「Fortresses……acquired ravelins and redoubts, bonnettes and Lunette, tenailles and tenaillons, counterguards and crownworks and hornworks and curvettes and fausse brayes and scarps and cordons and banquettes and counterscarps……」
和訳すると「要塞は……半月堡(はんげつほ)、角面堡(かくめんほ)、ボンネット、三日月堡(みかづきほ)、凹角堡(おうかくほ)、掩郭(えんかく)、王冠堡(おうかんほ)、角堡(かくほ)、カーベット、フォッセ・ブレイ、急斜面、城壁と胸壁(きょうへき)の間に突き出たふち石、射撃用足場、外堀の内岸などが備わる」である。
その後、稜堡式城郭は破壊力の大きな榴弾が開発されると、さらなる発展を遂げてヨーロッパ各地で、日本でも五稜郭のほか、龍岡城(長野県佐久市)が築かれた。
五稜郭の構造・建物
五稜郭の構造は水堀で囲まれた「稜堡(りょうほ)」と呼ばれる5つの角によって構成され、大手口には「半月堡(はんげつほ)」あるいは「馬出塁(うまだしるい)」と呼ばれる稜堡がある。
半月堡は本来、星形の5か所すべてに配置するように設計されたが、財政難から一か所に断念せざるを得なかったという。
また、ヨ-ロッパの稜堡式城郭は土塁のみで築かれるが、五稜郭については各所に石垣を取り入れている。
五稜郭内の建物としては箱館奉行所のほか、用人や近習の長屋、厩(うまや)、仮牢などの計26棟が存在した。
それらのうち、箱館奉行所は郭内の中心部に建てられており、規模は東西約97m、南北約59mである。
箱館奉行所の建物は一部2階建てで、西側の役所部分全体の4分の3を占めると、東南側に位置する奉行役宅(奥向)からなる。
役所部分は正面玄関から大広間に繋がる南棟、同心詰所などがある中央棟、白洲や土間などのある北棟に分かれており、正面玄関を入った先には高さ約16.5mの太鼓櫓(たいこやぐら)が設けられていた。
五稜郭のような稜堡式城郭の最大の特徴は、稜堡の組み合わせによって、360度の方角すべての防御に死角が生じないようにすることである。
五稜郭の築城も軍艦からの砲撃を避けるために内陸部の低地に築かれたが、技術の進歩によって箱館湾に布陣した明治新政府の軍艦から防弾が届くようになった。
また、郭内の箱館奉行所上部の太鼓櫓が、箱館湾からの艦砲射撃の照準となったため、旧幕府軍が取り壊したが被害は拡大したという。
五稜郭は西洋式築城術を取り入れて築かれた最先端の城郭であったが、明治新政府軍の最新の兵器や、箱館奉行所の太鼓櫓が標的となったことで、旧幕府軍は五稜郭を開城し降伏したのである。
五稜郭の整備と現状
五稜郭は1952年(昭和27年)に特別史跡に指定された後、国宝に準ずる文化財として、石垣の修理や橋の架け替えなどの保存整備事業が進められた。
1985年(昭和60年)からは箱館奉行所の復元を主な目的として、古写真や文献資料・絵図面などの調査、そして発掘調査が進められた。
これらの各種調査の成果を基に、箱館奉行所復元の検討が重ねられ、2006年(平成18年)から復元工事が開始され、4年後の2010年(平成18年)に完成した。
復元の範囲は箱館奉行所の建物全体の3分の1ほどにあたり、全国から集まった宮大工などの職人の技を駆使して、当時と同じ場所、伝統工法、同じ材木を使用して当時の姿が再現された。
現在の五稜郭は公園として市民に開放されており、2010年(平成18年)に復元された箱館奉行所の内部は当時の部屋が再現され、奉行所や五稜郭の歴史が資料や映像などで紹介されている。
公園に隣接する五稜郭タワーは、1964年(昭和39年)に五稜郭築城100年を記念して開業したが、2006年(平成18年)に60mから107mの高さに改築され、その展望台からは五稜郭の星形の眺望のほか、函館市街や津軽海峡も一望できる。
五稜郭は世界的にも著名な観光資源となっているが、今後はより適切な保存とその活用を期待したい。
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<主な参考文献>
西ヶ谷 恭弘 1988年『日本史小百科 <城郭>』
パンフレット『箱館奉行所』函館市指定管理者/名美興業株式会社
函館・五稜郭タワー | 公式ウェブサイト
(寄稿)勝武@相模
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