真田信繁にござる。江戸時代からは真田幸村?とも呼ばれているようじゃが、まぁ、ワシはどちらでも良いぞ。
さて、いつもは「こっち」で出没する機会が多いのじゃが、今回は特別に遠路はるばるやってきたでござるよ。
それでは、簡単にワシ「真田幸村(真田信繁)」について、話をしておこう。
ワシは戦国時代と後世で呼ばれた、永禄10年(1567年)に生まれた。(たぶん?)
父は武田信玄の重臣・真田昌幸で、母は山手殿と呼ばれておる。
また、真田信之と言う兄者がいるので、まぁ、ワシは家督も継ぐことは無い次男であった。
もっとも、父も真田幸隆と言う祖父の3男であり、我が父が真田家を継ぐ事は本来有り得なかった。
そんな状況であったから、若い頃には日の本に自分の名がとどろくなんて、想像もできんかったぞ。
すなわち、武田信玄公の人質として甲府におったときから、将来が約束されたなんて事はなかった。
でも、武芸に学問と、できる事はには励んだぞ。父や兄を支え、何よりも母上を安心させたかったからの。
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運命はわからないものじゃ
そして、1575年のことじゃ。
武田勝頼様が長篠の戦いで敗北した際、真田家の棟梁だった真田信綱殿と、その弟・真田昌輝殿が、共に討死してしもうた。とても悲しい出来事じゃった。
しかし、運命とはわからないものでな、兄2人が討死した事で、父・真田昌幸が、なんと、真田家を継ぐことになったのじゃ。
ワシは真田信綱殿の嫡男・真田信興殿が真田本家を継ぐと思ったのじゃが、真田家は家臣も多く失い、まだ真田信興殿も幼かったので、武田勝頼様は父に家督を継がせたようだ。
そして、父が岩櫃城主となると、ワシも上州に移り、父と兄を補佐することになった。
しかし、ついに織田信長殿が嫡男・織田信忠を大将にして、1582年に甲斐に攻めてきおった。
甲府にいたとき、兄のように慕い、大変世話になっていた、仁科盛信様も高遠城で亡くなってしもうた。
そして、多くの武田家臣は討死したと言いたいが、人の心は変わりやすい物よの・・。
なんと、武田勝頼様を見捨てて、逃亡する御仁が多かったのじゃ。
勝頼様には父が岩櫃城へお越しになられるよう、説得したのじゃが、その事だけが残念じゃったの・・。
さりながら、母などは新府城からなんとか岩櫃城へ入る事ができ、ホッとしたのを覚えておる。
武田家が滅んだ後、父は織田信長殿に従ったため、吾妻・利根・小県の所領は安堵された。
そして、滝川一益殿の配下に加わったが、織田信長殿がなんと、家臣・明智光秀の謀反に会い、北条氏直らの大軍に滝川一益殿は敗れると伊勢にかえってしまわれた。
その後、上田城で徳川家康殿の大軍を相手に、父・兄と共に蹴散らしたのは、皆の者も承知のはずじゃ。
父の策は、本当に素晴らしかったぞ。
そんな用兵に長けた父をいつもそばで見て学べたことは、ワシの人生においてもありがたい事でもあった。
1585年、真田家は上杉景勝様と同盟したため、ワシは春日山城に人質として出向く事となった。
しかし、叔父・矢沢頼綱殿の子・矢沢頼幸殿も一緒じゃったから、寂しい事などはなかった。
初めて「海」というものを見たしの。日本は本当に広いものよ。
小牧・長久手の戦いのあと、天下の形成は豊臣秀吉様に傾いた。
すると、いち早く上杉景勝様は豊臣家に臣従したので、真田家も自動的に豊臣家に従う事となり、ワシは大坂城に出向いて、今度は秀吉様の人質として生活をした。
京や大阪はほんとうに活気があり、まさに日の本の中心と言えたぞよ。
そうそう、兄が本多忠勝殿の娘・小松殿を迎えて、真田家は徳川家の傘下に入る事を命じられた。
1590年の小田原攻めでは、北国軍に加わった父・真田昌幸と兄・真田信幸と共に参陣。
この松井田城攻めがワシの初陣とされているが、この時は既に24じゃぞ?と言う事で、本当のところはご想像にお任せする。
その後、残虐な結果となった八王子城攻めも経験し、石田三成殿や大谷吉継殿とは忍城攻めも行った。
そして、1591年には奥州征伐にも加わったぞ。
1592年の朝鮮攻めの際には、肥前名護屋までは出向いたが、朝鮮へ渡ることはなかった。
1594年、豊臣秀吉様のご配慮で、従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓も賜る名誉を得た。
そして、大谷吉継殿の娘御・竹林院殿を正室に迎えた。
妻の本当の名が知りたい? 妻の名は内緒と言う事で、堪忍してくれるだろうかの?
なに? ワシの名も違っていのではないかと? 真田十勇士のためにも、もう、細かい所はどうでもよいぞよ。
さて、秀吉様が亡くなったあとの1600年、徳川家康殿が上杉景勝様を討つと言うのが、大阪にした父は成り行き上、徳川殿に従って出陣したのじゃ。
しかし、下野犬伏で石田三成殿からの密書が届き、挙兵された事を知った。
父はワシと共に石田殿に味方することとし、兄・真田信之はそのまま徳川家康殿に従う事となり、兄弟別れて戦をすることと合いなった。
上田城にて徳川秀忠殿の大軍を相手も引けを取らない戦いぶりをし、遅延させたのはやはり父の偉大な武功と言えよう。
九度山から大阪の陣へ
石田三成殿が敗れると、死も覚悟したが、本多忠勝殿や兄の助力もあって、父と共に高野山麓の九度山にて蟄居する事になった。
ワシが34歳のときじゃったが、父の命が救われたのは本当にありがたい話であった。
1612年に父が九度山で亡くなると、多くの真田家臣も沼田に戻ってしまい、その後、ワシは出家して好白と号した。
そんな50近いワシに、1614年、豊臣秀頼様と淀殿からの密書が届いた。
なんでも、徳川家康殿と一戦交えるため、大阪城に来てほしいと言う話だ。路銀も頂いた。
どうせ、このまま九度山で何もすることなく、次男として生涯を終えるだけの身であったから、命は惜しくない。
一矢報いようと子の真田大助らと共に大阪城に馳せ参じ、父の旧家臣らにも参じて欲しいと書状を送った。
大阪城の南方に出城の築城許可も賜り、徳川勢を迎え撃つと、父を見て運用方法を学んだ鉄砲隊を駆使し、一泡吹かせる事ができた。
敵方も関ヶ原の戦い以降、14年も戦がなかったため、経験が乏しい武将が多いからの。経験の差じゃ。
しかし、豊臣家の皆々は、戦の事がわかっておらん。
野戦の主張もとおらず、大阪城は丸裸とされ、1615年の大阪夏の陣を迎える事となった。
ワシは衰えた体にムチを入れて、徳川家康殿の本陣目指して、精力のある限り戦ったぞよ。
しかし、何時間も戦っていては、疲労困憊となるのは無理が無い。
天目山にて疲労でほとんど動けない所を討ち取られた武田勝頼様も、こんな感じであったのだろう。
戦いの限りを尽くして、首を取られたのであるから、まさに本望であった。
と、言う所まで、何百年たった今でも、なんとか覚えておる。
ワシを英雄のように称えて下さるのは、本当に真田冥利に尽きる思いじゃが、本来であれば死んでしまっては、どうにもならん。
戦国の世であったから、多くの者が命を落とすのを見てきたが、皆の衆には、何が何でも生涯を悔いの無いように全うしてもらいたいと願うばかりじゃぞ。
話が少し長くなったが、また来ることがあるかも知れん。
その時は「ヨロシク」じゃ~。
・ いつも出没している方からでも良いが、このページ下部の「コメント」とやから、ワシに言付をされても良いぞよ。