【戦国大名と城】城からみた豊臣秀吉の小田原攻め~後北条氏が誇った城郭体制の崩壊~

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概要

後北条氏は、北条早雲以降5代にわたって勢力を拡大していき、5代・北条氏直の時期には約250万石を領する関東最大の戦国大名となった。
本城の小田原城(神奈川県小田原市)を中心に、領国内の重要拠点には支城を置き、本城と支城または各支城の間に「繋ぎの城」・「伝えの城」を、敵の領国との国境沿いには「境目の城」を効果的に設けた。
こうした防衛及び統治ネットワーク(支城網)は、多くの戦国大名の領国でもみられるが、後北条氏の小田原城を中心とする120城もの城や砦(とりで)による支城網はきわめて優れたものであったという。
それは古城や廃城を改修して活用しながら、地域支配に重要な城郭の周辺に一里(4㎞)ほどの間隔で同一規模程度の城郭を配置するというものである。
各地の重要拠点の支城には「城領」という領地が付き、後北条氏の一族や重臣が城主を務め、その下に「衆(しゅう)」と呼ばれる軍団が組織された。
また、城郭の管理・警備方法等を規定した「城掟(しろおきて)」などの掟も整備されており、後北条氏の城郭体制は戦国大名の中でかなり巧妙なものであったといわれている。

なお、後北条氏の城郭体制の特徴等については、以下を参照いただきたい。
【戦国大名と城】後北条氏の城郭体制を探究する~神奈川県西部の足柄地方の城郭をもとに




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後北条氏の本城である小田原城は代を重ねるごとに城域の拡大や改修がおこなわれ、1590年(天正18年)までには、城下町も取り込んだ総距離9㎞以上にも及ぶ「惣構(そうがまえ)」が造られた。
また、後北条氏は主要街道沿いに位置する支城や、国境の境目の城などの城を堅固に改修し、その守将には一族や重臣を派遣するなどの防御体制を整えた。
こうした巧妙な城郭体制により、小田原城が甲斐(山梨県)の武田信玄や、越後(新潟県)の上杉謙信の軍勢に包囲されたときも落城せず、武田軍や上杉軍は撤退していった。
しかし、1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原攻めでは、主要な支城が次々と攻め落とされ、本城の小田原城も開城に追い込まれた。

小田原攻めの経緯

全国統一を目指す豊臣秀吉は、1585年(天正13年)に関白に就任すると、大名同士の私戦を禁止、自ら領土紛争を裁定するという「惣無事令(そうぶじれい)」を九州に発し、翌年には関東・奥羽(東北地方)全域にも拡大した。
惣無事令に基づき、豊臣秀吉は1585年(天正13年)に四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏、1587年(天正15年)に九州の島津氏を平定すると、関東・奥羽の平定を本格的に進めた。
この間、後北条氏は、隠居した北条氏政(うじまさ)と5代目当主・北条氏直(うじなお)の父子が徳川家康との同盟を強化し、上野(こうづけ・群馬県)、下野(しもつけ・栃木県)、常陸(ひたち・茨城県)への侵攻を続けていた。
その一方では、徳川家康が豊臣秀吉に臣従したことや惣無事令の発令に動揺したのか、豊臣秀吉との和睦交渉を進め、1588年(天正16年)3月半ばには、北条氏政の弟である北条氏規(うじのり)を上洛させることで合意した。
しかし、北条氏規の上洛は容易に実現せず、7月半ばに徳川家康が上洛の実行を催促して、同年8月22日、北条氏規は聚楽第(じゅらくてい)で豊臣秀吉への謁見を果たした。

北条氏規の上洛で北条氏政・氏直父子は豊臣秀吉との対決を回避したかにみえたが、信濃(長野県)の真田昌幸(さなだ まさゆき)との間で生じていた上野の沼田領問題がこじれ、豊臣秀吉の怒りを買うことになった。
この沼田領問題を豊臣秀吉は1589年(天正17年)6月、沼田領の3分の2を後北条氏に与え、残り3分の1を真田氏に残すという裁定をおこない、北条氏政・氏直父子のどちらかの上洛を約束させることで解決した。
しかし、1589年(天正17年)10月末、沼田城(群馬県沼田市)を管理していた北条氏邦(うじくに)の重臣・猪俣邦憲(いのまた くにのり)が真田領の名胡桃(なくるみ)城(群馬県みなかみ町)を奪った。
このことを真田昌幸から伝えられた豊臣秀吉は、自分の裁定に違反した北条氏政・氏直父子を咎め、小田原攻めを決断し、12月中旬に徳川家康をはじめ全国の諸大名に動員を命じた。

1590年(天正18年)正月、徳川家康は東海地方の5か国の軍勢を率いて駿府城(静岡県静岡市)から東海道を進み、前田利家(としいえ)も加賀・能登(石川県)、越中(富山県)の軍勢を率いて出陣、それに上杉景勝(かげかつ)の越後の軍勢も加わり、北から後北条氏領国に攻め込んだ。
3月1日には豊臣秀吉も約3万2千の大軍を率いて京都を出発し、全国の諸大名の約18万の大軍で小田原城を目指した。

後北条氏の戦争準備

後北条氏は、豊臣秀吉による四国平定(1585年)や九州平定(1587年)など、惣無事令が着実に実行されていることから小田原攻めを予想し、本城の小田原城や主要な支城の大改修、大規模な徴兵、兵糧の調達、鉄砲の製造などをおこなっている。
城の大改修は、小田原城をはじめ、八王子城(東京都八王子市)、山中城(静岡県三島市)、韮山城(静岡県伊豆の国市)、岩付(いわつき)城(埼玉県岩槻市)、箕輪(みのわ)城(群馬県高崎市)、松井田城(群馬県松井田町)などで急速に進み、箱根山方面を中心に繋ぎの城や、境目の城の機能を持つ城や砦(とりで)の整備も進んでいった。

その中で、小田原城は本丸・二の丸・三の丸等の内城と城下町を囲んだ惣構が設けられたことで知られている。
惣構は3代・北条氏康の時期の永禄年間(1558年~1570年)ごろから造られはじめ、上杉謙信や武田信玄による小田原侵攻などをきっかけに次第に拡張されてき。5代・北条氏直のとき、豊臣秀吉の小田原攻めが始まる直前に完成したものと考えられている。
この惣構については『北条五代記』に「東西へ五十町、南北へ七十町、廻り五里」とあり、城下町全体を土塁と空堀が約9㎞以上にわたり囲んでいたもので、現在でも「小峯御鐘ノ台大堀切(こみねおかねのだいおおほりきり)東堀」や「早川口遺構」、「蓮上院(れんじょういん)土塁」など、各所に堀や土塁の痕跡が残っている。

徴兵や兵糧の調達、鉄砲の製造などについては、史料が以下のような切迫した状況を伝えている。
1587年(天正15年)7月、相模・武蔵の郷村あてに「凡下」(一般庶民)を含む15歳から70歳までの男子に動員を命じているが、それは武士だけではなく一般庶民、それも70歳の高齢者までも対象とした異例なものである。
12月24日には八王子城主の北条氏照(うじてる)が出陣の命令を発すると、岩付城の北条氏房(うしふさ)も家臣たちに戦いの準備を指示した。
28日には、北条氏政が上総(かずさ)・下総(しもうさ・千葉県)地域の部将たちに軍勢を急ぎ集めるよう命じるなど、翌年正月にかけて次々と動員をおこなっている。

兵糧の調達は、1589年(天正17年)12月28日、北条氏直が郷村内に兵糧となるべき物資の貯蓄を禁止し、各地の城へ運ぶよう命令している。
領国内の郷村にはわずかな食糧と種籾(たねもみ)のみを残して、食糧は小田原城をはじめ各地の支城に貯蔵することで、籠城のための兵糧を豊富に確保するとともに、敵兵の現地調達を困難にすることを図ったものと考えられる。

武器の準備については最新の武器である鉄砲の整備に力を入れており、1586年(天正14年)2月、1587年(天正15年)9月、1588年(天正16年)正月の三度にわたり、大磯・小田原間の宿駅に対して鉄砲・鉄砲玉を製造するための土を大磯から小田原新宿の鋳物師(いもじ)のもとまで運ぶよう命じている。
また、1589年(天正17年)12月、相模各地の鋳物師14人に鋳物師の棟梁である山田二郎左衛門の下で、「大筒」20挺を1挺につき7日間で製造することを命じた史料も残る。

小田原開城と城郭体制の崩壊

豊臣軍の主力は1590年(天正18年)春頃から黄瀬川周辺に集結し、3月27日には豊臣秀吉自身が三枚橋(さんまいばし)城(静岡県沼津市)に到着し、直ちに小田原城を取り巻く支城の攻撃を命じた。
3月29日、豊臣秀吉の甥である羽柴秀次が後北条氏方の最前線である山中城を僅か半日で落城させ、続いて鷹巣(たかのす)城(神奈川県箱根町)・足柄城(神奈川県南足柄市)などを攻略した。
また、相模湾に毛利・長宗我部・九鬼(くき)氏の水軍を配置し、4月上旬には小田原城を完全に包囲した。

豊臣秀吉自身は小田原城を見下ろす石垣山に城を築いて本陣として側室・淀の方も呼び寄せ、周辺一帯には諸大名に陣地を築かるなど長期戦の体制を整えた。
なお、石垣山城(神奈川県小田原市)は一夜にして築かれたとの伝説があるが、実際は約80日を要して築かれた、関東初の近世城郭であった。
近世城郭は「礎石建物・石垣・瓦」の組み合わせを特徴とし、織田信長安土城(滋賀県近江八幡市)が最初であるとされている。
石垣山城も惣石垣の城で、天守や御殿などの華麗な建物がたち、これまでの発掘調査で瓦も出土している。




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後北条氏側は小田原城に北条氏政・氏直父子のほか北条氏照・北条氏房・北条氏忠(うじただ)らの一族や、成田氏長(うじなが)・上田憲定(のりさだ)・内藤直行(なおゆき)・松田憲秀(のりひで)ら領国内の主な支城の城主が軍勢を率いて小田原城に籠城した。
その一方で、信濃方面の押さえである松井田城は大道寺政繁(だいどうじ まさしげ)、甲斐方面の鉢形城(埼玉県寄居町)は北条氏邦、駿河方面の韮山城は北条氏規、そして相模湾をにらむ玉縄城(神奈川県鎌倉市)は北条氏勝(うじかつ)と、そのまま居城に留まり籠城した。
北条氏政・氏直は小田原城に籠城した各地の城主たちの妻子をそれぞれの居城に留め置くことで離反を防いだが、4月8日に皆川広照(ひろてる)が100余の兵を連れて豊臣方へ参じている。

豊臣軍が東海道に加えて東山道からも小田原に迫る中、4月半ば以降、後北条氏領国の主要な支城が相次いで落城あるいは開城していった。
4月21日には玉縄城の北条氏勝が豊臣方に降参し、4月24日、信濃方面の押さえである松井田城が、前田・上杉・真田の連合軍の猛攻を受けて落城した。
その前後には、上野では箕輪城(群馬県高崎市)などが、下野では唐沢山城(栃木県葛生町・佐野市)も相次いで落城している。

鉢形(はちがた)城では城主・北条氏邦が小田原城へ籠城せず自ら指揮をとり、上杉・前田・浅野・木村の5万余の軍勢を迎え撃つが、6月14日、籠城者の助命と引き換えに開城した。
八王子城では小田原城に籠城した北条氏照に代わり重臣の横地監物(よこち けんもつ)が守将を務めていたが、6月23日、上杉・前田・木村氏らの猛攻により落城し1000余人が討ち取られた。
北条氏規の居城である韮山城は福島正則(まさのり)・戸田勝隆(かつたか)・蜂須賀家政(いえまさ)の大軍が包囲する中、100日間の籠城戦を展開したが支えきれなく落城した。
このように、6月中に小田原城と武蔵(東京都・埼玉県)の忍城(埼玉県行田市)を除くすべての城が落城した。

こうした戦況の悪化を踏まえ、北条氏直は7月5日、徳川家康らの仲介によって滝川雄利(かつとし)、黒田孝高(よしたか・官兵衛)を通じて豊臣秀吉に降伏を申し入れた。
その結果、北条氏直は助命されたが高野山に配流となり、主戦派の北条氏政・氏照兄弟と、大道寺政繁・松田憲秀の4人が切腹することとなった。
7月6日、豊臣秀吉の家臣・脇坂安治(やすはる)・片桐直盛(なおもり)と徳川家康の重臣・榊原康政(やすまさ)が小田原城を受け取り、北条氏政・氏照は11日に小田原城下の医師・田村氏の屋敷で切腹した。
7月16日には、石田三成ら約2万の軍勢に攻められていた忍城がついに開城し、後北条氏の領国全域が豊臣秀吉によって平定され、後北条氏の巧妙かつ堅固な城郭体制も崩壊したのである。




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<主な参考文献>

市村 高男 2009年『戦争の日本史10 東国の戦国合戦』吉川弘文館
小田原市 1995年『小田原市史 別編 城郭』小田原市
鈴木 良一 1988年『後北条氏』有隣新書
武井 勝 2007年「相模国における『織豊系城郭』の出現」『神奈川の歴史をよむ』山川出版社
平井 聖、他 1980年『日本城郭大系 第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社

(寄稿)勝武@相模

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