【徳川家康と城】「天下普請」の城・篠山城の解説~縄張(構造)や築城経緯からみる特徴を中心として~

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篠山城の現状

篠山(ささやま)城(兵庫県丹波篠山市)は1609年(慶長14年)3月に、徳川家康の命によって山陰・山陽へ通じる要衝である篠山に「天下普請(ぶしん)」で築城された平山城である。
1956年(昭和31年)12月には、方形状の曲輪が同心円的に配置されている縄張の典型例として貴重であり、城郭史上価値が高い城郭として「篠山城跡」の名称で国の史跡に指定された。
現在の篠山城は、東西・南北とも約400mの方形の敷地に本丸・二の丸・三の丸などの主要な曲輪や、それを取り巻く高石垣と内堀・外堀が完全に残り、3ヶ所あった馬出(うまだし)のうち2つまでが現存する。

本丸には、天守台が残るが築城当時から天守は建てられておらず、1882(明治15年)に建立された最後の藩主家・青山家の遠祖を祀る青山神社がある。
南東隅にある天守台は東西約19m、南北約20mの規模で、本丸内側からの石垣の高さは約4m、外側は約17mである。




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二の丸には2000年(平成12年)4月に、篠山城の中核的な建物である大書院(おおしょいん)が木造で復元・公開されている。
復元された大書院は、床面積が739.33㎡、高さが12.88mの平屋建てで、北を正面として東北隅に中門、正面には車寄せがあり、建物の屋根は入母屋造(いりもやづくり)・柿葺(こけらぶ)きで、車寄せの屋根には軒唐破風(のきからはふ)が付く。
大書院の内部は襖絵(ふすまえ)などに囲まれた8つの部屋があり、その周囲に広縁(ひろえん)、その外側には一段低く縁側があり、幅3.5間(6.9m)で上段の間は左側に付書院、右側に違棚(ちがいだな)・帳台構(ちょうだいがまえ)が設けられている。
また、大書院の南側には、主に藩主の生活の場であった二の丸御殿の跡が平面表示で示されており、御休息の間や御用人詰所、台所、厠などが御影石で区切られ、部屋の名称が表示されている。

本丸と二の丸の周囲を囲む高石垣は、本丸で高さ約10m、天守台外側では約17mの高さを誇り、北東の屈曲した部分には石垣の補強と敵を攻撃するための足場の確保を目的とした「犬走(いぬはし)り」がみられる。
石垣の石材には、各大名の工事分担箇所や石材の調達場所を示す刻印が150種類以上、数にして1000以上が確認されている。
中でも埋門(うずみもん)外の西側の隅石に刻まれた「三左之内(さんざのうち)」の符号は、篠山城築城の総普請奉行を務めた池田三左衛門輝政(てるまさ)の家臣が担当したものであることを示している。

馬出は大手門・東門・南門の3箇所の門の外側に大手馬出・東馬出・南馬出があり、いずれも土塁や堀で方形に囲んだ角馬出である。
それらのうち、大手馬出は1921年(大正10年)に堀が埋められ、現在では僅かに土塁の一部が残るのみで、東馬出は堀と石垣が残り公園として整備されており、南馬出は土塁と堀がほぼ往時の状態で残されている。

篠山城へはJR宝塚線「篠山口駅」西口から「篠山営業所行」バスで約15分の「二階町」から徒歩約5分である。

篠山城の縄張(構造)・建造物

篠山城は東西、南北ともに約400mの方形で、本丸と二の丸を階段状に配置し、それを三の丸が同心方状に取り囲む梯郭(ていかく)式と輪郭(りんかく)式を併用した縄張(構造)である。
本丸の東南隅に天守台があり、本丸と二の丸を囲む高石垣の上には多聞櫓(たもんやぐら)が建てられ、その周囲を内堀が囲み、内堀の外側に方形の三の丸と最大幅約45mを測る広大な外堀が囲む。三の丸の北側西寄りに大手門、東側の北端に東門、南側の西端に南門があり、各門には大手馬出、東馬出、南馬出が構えられた。
各曲輪の名称について、1718年(享保3年)に描かれた『丹波国篠山城絵図』では、現在と同様に本丸・二の丸・三の丸となっているが、築城当時は本丸が「殿守(でんしゅ)丸」、二の丸が「本丸」、三の丸は「二の丸」と呼ばれていた。

本丸には当初、天守を築く予定で南東の隅に天守台が築かれたが、徳川家康の指示で築かれることはなかった。
徳川家康は天守を建築する段階になったとき「天守は人目に立って敵方の狙いになるだけで、この城には無用のものである。それ、よりも優れた城主を置く方が肝要である」と天守を築くことを禁じたという。
そのため本丸内に施設はなく、高石垣の上に塀を巡らせ、多聞櫓、隅櫓が建てられていた。

二の丸には、篠山城内で最大の建物である大書院があり、その東に小書院、西に大広間が隣接してあった。
南には台所や諸役人の詰め所、その奥に城主の居館や奥御殿、庭園があった。
大書院は1609年(慶長 14 年)の築城と同時に建てられたという書院造の豪華な建物である。
内部は上段の間、孔雀の間、葡萄の間、虎の間、源氏の間など多くの部屋があり、車寄せの唐破風などは二条城京都府京都市)の遠侍(とおざむらい)の間を模倣したといわれている。
二の丸の門は北と南にあり、北側の表門は廊下門に続いて左右の石垣の間を櫓門で固め、そこを入った桝形内にはさらに中門と鉄門があった。
南側の裏門は左右の石垣に架けられた渡櫓の下が埋門になっており、それを隠すための隅櫓が三の丸の南廊下門へと続いていた。

三の丸は内堀と外堀に囲まれ、三層の隅櫓1棟と二層の隅櫓3棟が建ち、屏風折れの土塀が巡る。
大手・東・南の3箇所の虎口(こぐち・城の出入口)には、それぞれ内枡形の櫓門が設けられた。
三の丸の建物は北側に諸役所や対面所、東側と西側の家老屋敷など、三の丸には800石から300石ほどの家老・老中・番頭(ばんがしら)の屋敷が三の丸に位置し、本丸、二の丸を取り囲むように配置されていた。
三の丸の北側西寄りに大手門、東側の北端に東門、南側の西端に南門があり、いずれも三の丸を囲む土塁の間に設けられた堅固な櫓門であった。
また、大手門・東門・南門の3箇所の門の外側には、大手馬出・東馬出・南馬出が付き、いずれもその外側に凹字形の土塁と堀を設けた角馬出である。

篠山城跡の保存整備

明治維新後の篠山城は、1873年(明治6年)の廃城令(城郭取払令)により櫓、屋敷などの建物や、土塁・土塀の大半が取り壊された。
その後、城跡には明治から昭和前半にかけて、行政施設や教育施設が次々と建てられ、本丸跡には1882(明治15年)に旧篠山藩士の有志によって最後の藩主家である青山家の遠祖を祀る青山神社が建立されて現在に至っている。
城内最大の建物である大書院は、取り壊しに多額な費用がかかることから城内の建物の中で唯一残された。
1875年(明治8年)以降、小学校や中学校、公会堂などに利用されたが、1944年(昭和19年)1月6日夜に発生した火災により焼失し、篠山城の往時の建物はすべて消失した。

終戦(1945年)後の混乱から復興期になると、篠山城跡を保存するための調査・研究が進み、1953年(昭和28年)3月31日、篠山城跡は「篠山都市計画公園」に指定されている。
指定後、内堀の埋め立てによる三の丸南部の広場の拡張など公園としての整備が進む一方、堀や石垣、土塁が損なわれた。
そこで、篠山町と住民が一体となって篠山城跡を史跡指定にするための運動を展開し、1956年(昭和 31年)12月28日、篠山城跡は国の史跡に指定された。
国指定史跡になったことで保存整備事業がより一層進められるようになり、1966年度(昭和41年度)に二の丸北東の石垣の修理工事が始まり、1988年度(平成10年度)までの間に、本丸及び二の丸の石垣修理工事が進められた。
1996年度(平成8年度)からは大書院の復元整備が、古絵図や古写真の分析、発掘調査などの総合的な学術調査の成果に基づきおこなわれ、2000年(平成12年)3月に完成している。
2002年度(平成14年度)からは「史跡篠山城跡整備基本構想」に基づき、内堀の復元整備事業がおこなわれている。




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石垣の修理工事については、1967年(昭和42年)に二の丸の北東石垣の復元工事から始まり、本丸・二の丸の高石垣を中心に1998年(平成10年)までに計15 箇所に及ぶ修理工事がおこなわれた。
その中でも1991年(平成3年)から1998年(平成10年)11月にかけては天守台の石垣修理工事がおこなわれている。
石垣修理工事に伴い石垣の基礎部分の発掘調査や、断面・法面の調査、石垣石材の刻印の調査などが実施され、以下のような成果を得ている。
すなわち、篠山城の石垣は直径約50cm、長さ約1mの縦に長い石材を用いた牛蒡(ごぼう)積みであること、石垣の内部は幅約2m以上に渡り栗石が入念に詰め込まれていることが確認された。
その一方、石垣の背面に岩盤が露出する箇所も多くあり、岩盤を鑿(のみ)状の工具で少しずつ削りだした痕跡も確認されており、築城時の難工事を知ることができる。

篠山城跡の発掘調査

篠山城跡では三の丸や二の丸において、施設設備工事などに伴う発掘調査がおこなわれ、貴重な成果が得られている。
三の丸の北に位置する大手馬出跡では、1978年度(昭和53年度)と1986年度(昭和61年度)の調査で馬出を巡る土塁の構造と堀の幅が明らかになった。
土塁は大手馬出東門の東側袖石垣遺構の一部で一辺約7.5mの方形に石垣が築かれていたと考えられ、土塁の東側には幅約15mの堀の存在が確認された。
そのほか、2005年度(平成17年度)にかけて断続的で調査範囲も限定的であるが、三の丸北西部で土塁跡・対面所跡・大手門跡・大手枡形石垣基礎・大手門土橋、三の丸南東部で土塁跡・三の丸屋敷跡、三の丸西内堀北部で三の丸を区画する石垣など、大手枡形跡周辺の石垣基礎、三の丸枡形跡周辺で発掘調査がおこなわれている。

二の丸では整備に伴う基礎資料を収集することを目的として1981年(昭和56年)に大書院跡
で、1982年(昭和 57年)~1984年(昭和59年)に青山神社の社務所敷地を除く二の丸主要部分において発掘調査がおこなわれた。
大書院跡では1984年度(平成6年度)にも、建物の柱間の寸法や礎石の状況の確認、建築年代の検討などを目的とする発掘調査がおこなわれている。
これらの発掘調査の結果、大書院跡以外の遺構面はかなり削平されており、礎石などはほとんど残っていないこと、現在、伝わる間取古図(まどりこず)と一致する塀跡やかまど跡などの遺構が部分的に確認された一方で、間取古図の記載と一致しない古い時期の遺構も多く確認されている。

また、二の丸の南東隅には「二の丸御殿間取図」や「二の丸庭園絵図」などの絵図類に庭園が記載されている。
その確認を目的として1984年度(昭和59年度)と1999年度(平成11年度)に二の丸の南東隅で発掘調査がおこなわれた。
その結果、築山(つきやま)の一部と築城時の塀跡が絵図の記載どおりに確認されたが、遺構面の一部は廃城後に広範囲にわたって削平されており、池跡などの痕跡は確認されていない。

そのほか、天守台・本丸・二の丸の高石垣を取り囲む内堀では、2002年度(平成14年度)に内堀復元工事に先立つ発掘調査がおこなわれた。
この発掘調査では内堀の三の丸側と犬走り側の両方で石垣の痕跡を確認するとともに、石垣の総延長が約1,300mであることが判明している。
この結果に基づき、2003年度(平成15年度)から内堀の復元整備工事がおこなわれ、整備範囲の石垣を検出するための発掘調査も継続的におこなわれている。

築城経緯からみる篠山城の特徴

1608年(慶長13年)、徳川家康は松平康重(やすしげ)を常陸国笠間(茨城県笠間市)3万石から丹波国八上(やがみ・兵庫県丹波篠山市)5万石へ転封させ、八上城を廃して篠山の地に新たな築を築くことを決めた。
松平康重は徳川家康の実子ともいわれ徳川一門の大名とはいえ、石高わずか5万石の居城が1609年(慶長14年)から徳川家康の命で「天下普請」で築かれた。
築城工事は築城の名手と呼ばれた藤堂高虎(とうどう たかとら)が縄張(設計)を担い、徳川家康の婿である池田輝政(てるまさ)が普請総奉行を務めた。
福島正則(まさのり)・浅野幸長(ゆきなが)・加藤嘉明(よしあき)・蜂須賀至鎮(よししげ)・毛利秀就(ひでなり)・山内忠義(ただよし)・生駒正俊(いこま まさとし)らの西国の豊臣恩顧の諸大名(以下、西国大名という)20家が築城工事の助役を命じられ、延べ約8万人の人夫が動員された。

築城工事の経過は『篠山城記』(『大日本史料第十二編之六』所収)によると、1609年(慶長14年)6月1日の「鍬初メ」で工事が始まり、6月20日「根切リ」、7月5日「根石初メ」、10 月 5日「奉行衆・諸国大名衆帰国」と続き、12月16日「周防守殿(松平康重)笹山新城へ移徙(わたまし)」とある。
また、1660年(万治3年)に石川昌隆(まさたか)が著した『聞見集(ぶんけんしゅう)』には春先から助役の諸大名が準備をおこなっていることが記されている。
これらの記述によると、石垣や堀は6月から10月にかけての短期間で築造され、12月16日には松平康重が八上城から入城していることから、篠山城は9か月ほどで完成したことが分かる。

徳川家康が篠山城を短期間で築城した背景には、関ヶ原の戦い(1600年)後も大坂城(大阪府大阪市)にいる豊臣秀頼と、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方して所領を増やした西国大名の存在があったと考えられる。
徳川家康は、大坂城の豊臣秀頼と西国大名が挙兵することを恐れ、京都への入り口や交通の要衝、大坂城を包囲する地に「天下普請」によって14の城を築いた。
「天下普請」による築城は1601年(慶長6年)の膳所(ぜぜ)城(滋賀県大津市)から始まり、二条城(京都府京都市)・福井城(福井県福井市)・伏見城(京都府京都市)・加納(かのう)城(岐阜県岐阜市)・彦根城(滋賀県彦根市)・江戸城(東京都千代田区)・駿府城(静岡県静岡市)と続いた後、1609年(慶長14年)に篠山城の築城が始まった。




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篠山の地は大坂城から鳥取へ至る山陰道と京都から、姫路城(兵庫県姫路市)へと通じる播磨街道が交わる交通の要衝である。
篠山城は、大坂城の豊臣秀頼とその背後の西国大名とを分断させ、京都を固守しながら西からの敵を攻撃する大坂城包囲網の拠点の一つとして築かれたと考えられる。
篠山城の築城期間がわずか9か月と短かったのは、同年11 月から始まった名古屋城(愛知県名古屋市)の築城工事を西国大名に分担させる必要があったからである。
篠山城の築城を命じられた諸大名のうち、池田輝政・福島正則・浅野幸長・加藤嘉明・蜂須賀至鎮・毛利秀就・山内忠義・生駒正俊の8大名が引き続いて名古屋城の築城工事を命じられている。

篠山城の縄張(構造)は輪郭式と梯郭式を併用した東西、南北ともに約400mの方形で、本丸・二の丸を高石垣と内堀が囲み、その外側に三の丸と広大な外堀がめぐる。
方形の城は平地にしか築けず防御面が弱いとされるが、そこは攻め寄せる敵兵を遠くから射撃できる
高石垣や、側面から攻撃できる角馬出を三箇所すべての虎口に備えることで、防御性を高めている。
また、篠山城の石垣は短期間の突貫工事で積まれたにしては、手抜きをしたような箇所はなく当時の最先端の技術で積まれたことが確認されている。
篠山城は5万石にふさわしい小規模な城ながら、築城の名手と言われた藤堂高虎が縄張を担い、当時、最新の築城技術を有していた西国大名に築かせたことで、大坂城包囲網の拠点としての役割を十分果たすことができる堅固な城となったのである。

<主な参考文献>
一般社団法人ウイズささやま 2020年『丹波篠山のあゆみー古代から令和までー』
加藤 埋文 2021年『家康と家臣団の城』KADOKAWA
齋藤 慎一 2015年『徳川の城~天守と御殿~』江戸東京博物館
西ヶ谷 恭弘 1985年『日本史小百科<城郭>』東京堂出版
史跡篠山城跡について

(寄稿)勝武@相模

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