【徳川四天王と城】井伊家14代の居城「彦根城」の特徴を探究する~築城経緯と縄張り(構造)を中心として~

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彦根城の概要

彦根城(滋賀県彦根市)が築かれた場所は、東に佐和山、西に琵琶湖を控え、その間に1-1.5kmの隘路(あいろ)が続く交通の要衝で、湖北平野と湖東平野の境でもある。
彦根城の築城は1604年(慶長9年)に始まり、わずか2か年で主要部が完成し、井伊直政を初代とする彦根藩主・井伊家14代の居城となった。
明治維新後は陸軍省の管轄となり、破却される予定であったが、1878年(明治11年)、明治天皇の彦根行幸(ぎょうこう)の際に天守や櫓などの保存整備が決まったという。

現在の彦根城は1956年(昭和31年)に特別史跡に指定され、3重3階の天守をはじめ櫓(やぐら)、門などが現存している。
天守は現存12天守の一つに数えられ、1952年(昭和27年)に天守と附(つけ)櫓及び多聞(たもん)櫓が国宝に指定されている。
天守が国宝の城は彦根城のほか、姫路城(兵庫県姫路市)・松本城(長野県松本市)・犬山城(愛知県犬山市)・松江城(島根県松江市)の5城である。
天守以外の建築物では、「太鼓(たいこ)門及び続(つづき)櫓」・「西の丸三重櫓及び続櫓」・「二の丸佐和口多聞櫓」・「天秤(てんびん)櫓」・「馬屋」が国の重要文化財に指定されている。




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彦根城は1992年(平成4年)に世界遺産暫定リストに登録され、2008年(平成20年)に彦根市、2020年(令和2年)には滋賀県に、それぞれ「彦根城世界遺産登録推進室」が設けられた。
世界遺産登録へ向けて、推進委員会や学術委員会の設置やシンポジウムなどの取組がおこなわれてきたが、世界遺産登録の厳格化により20年以上推薦が見送られている。

彦根城の築城経緯

1600年(慶長5年)9月、井伊直政が関ヶ原の戦いでの戦功により、石田三成(いしだ みつなり)の旧領である近江(おうみ)国佐和山(滋賀県彦根市)に18万石を与えられた。
井伊直政は1601年(慶長6年)1月、これまでの居城である箕輪(みのわ)城(群馬県高崎市)から佐和山城(滋賀県彦根市)に移るが、佐和山城が急峻な地形であることから、徳川家康の命で別の場所に新たに築城することになった。
1602年(慶長7年)2月、井伊直政が死去し、井伊直継(なおつぐ)が跡を継ぐと、鈴木重好(しげよし)・木俣守勝(もりかつ)・西郷正員(まさかず)の三家老が若年の井伊直継を補佐した。
1603年(慶長8年)、木俣守勝が新規築城の候補地である彦根山・磯山・佐和山から彦根山が相応しいことを徳川家康に進言して了承された。

築城工事は1604年(慶長9年)7月から7ヶ国12家の大名に手伝いを命じた天下普請でおこなわれ、同年中に「鐘の丸」が完成して井伊直継が佐和山城より移っている。 
1606年(慶長11年)には「本丸」・「西の丸」などの主要部がほぼ完成、同年6月に天守、間もなく「本丸御広間」も完成した頃に井伊直継が鐘の丸より移った。
この「慶長普請」と呼ばれる築城工事は、わずか2か年の短期間でおこなわれたために、石垣の石材、門、櫓等には佐和山城・大津城(滋賀県大津市)・長浜城(滋賀県長浜市)・安土城(滋賀県近江八幡市)などの旧材が転用された。
天守も大津城の5重4階の天守を解体した部材を転用し、3重3階の天守を組み上げことが明らかとなっている。
城の完成が急がれた背景には、大坂城に健在の豊臣秀頼に対する徳川方の軍事拠点を1日でも早く構築する必要があったからであろう。
このことは、1605年(慶長10年)に徳川家康が築城工事の様子を見分(けんぶん)していることからも裏付けられる。

1614年(慶長19年)11月、大坂冬の陣が始まる頃、「内堀」の内側が完成するが、築城工事は一時中断された。
1615年(慶長20年)2月、彦根藩主が井伊直継から井伊直孝(なおたか・井伊直政の次男)に交代し、大坂夏の陣(1615年4月~5月)も終結し豊臣氏は滅んだ。
1615年(元和1年)7月から「元和普請」と呼ばれる築城工事が再開され、1622年(元和8年)までには櫓や門、高石垣、「表御殿」などが完成し、「中堀」や「外堀」の掘削も完了して城下町も拡張された。
それ以後も、城下町の拡張や各施設の修築がおこなわれ、全てが完成したのは1642年(寛永19年)であるという。
この「元和普請」と以降の築城工事は、井伊家による単独工事で、徳川譜代大名の中で最高の30万石の石高に加えて幕府領の5万石を預かる35万石の格式にふさわしい城にするための工事であった。

彦根城の縄張り(構造)

彦根城は比高約45mの彦根山の山頂部から山麓の平地までを城域に取り込んだ平山城である。
山頂部の主要部を内堀が、その外側の上級家臣の屋敷がある二の丸を「中堀」が、さらに外側の中下級家臣の屋敷と町屋の地区を「外堀」が、それぞれ囲んでいる。

主要部は南から北へ「鐘の丸」「太鼓丸」「本丸」、そして「西の丸」が直線的に連(つら)なる連郭式である。
本丸は標高約136mの山頂中央にあり、東西約120m✕南北約80mの広さを有し、その北西隅に天守と附櫓及び多聞櫓がある。
また東北隅にも2重の櫓と多聞櫓が、南の太鼓丸への通路には太鼓櫓がそれぞれ所在し、北西には西の丸への出口と冠木(かぶき)門がある。
本丸の南側の太鼓丸には天秤(てんびん)櫓があり、太鼓丸の南側には空堀を隔てて鐘の丸がある。
鐘の丸は本丸と同程度の広さで、二重隅櫓と多聞櫓が所在し、かつては11間✕7間半の「大広間御殿」と、6間✕6間半の「御守殿」もあったという。
西の丸は東西約60m✕南北約160mの広さで、北側の大堀切を挟んで「出曲輪」があり、そこから北へ下ったところが「山崎曲輪」である。

二の丸は船町口・京橋口・佐和口の3か所に虎口(こぐち・城の出入口)が設けられ、いずれも惣石垣造りの枡形虎口である。
佐和口には東西に多聞櫓があり、東側の多聞櫓は2間半✕50間、西側のものは2間半✕28間の規模である。
内堀を取り巻く二の丸の東側には、「玄宮(げんきゅう)園」・「楽々(らくらく)園」(名勝)や「八景亭」が現存しているが、そこ以外は、かつて家老・木俣家など上級武士の屋敷が建ち並んでいたという。

次に、彦根城の石垣を概観すると、本丸などの主要部で高さ約19.4mの高石垣がみられ、本丸に残存する石垣の大半は慶長期の築城工事(1604年~1606年)のものである。
天守台の石垣は15㎝ほどの矢穴痕を残す石材が多く、反りを持たずにほぼ垂直に近い勾配である。
本丸の南東隅部の石垣は、粗割りの横長の石を算木積みにしているが、隅石は直交させずに内側へずらせて積み上げており、隅石の各段には三角形状の隙間がみられる。

また、彦根城では山麓から山頂部への斜面に、縦方向に積み上げた「登り石垣」もみられる。
登り石垣は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年~1598年)の際、朝鮮半島南部沿岸に築かれた倭城において防御を高めるために採用されたのが始まりである。
彦根城の登り石垣は5か所にあり、本丸東端の「着見(つきみ)櫓」から表御殿の東端、鐘の丸の南側から表御殿の南端を結ぶ2本と、西の丸と出曲輪の大堀切の東と西の両端から山麓にかけての2本、鐘の丸の北西端から大手枡形を結ぶ1本である。
2024年(令和6年)2月現在、登り石垣が確認されている城は、彦根城のほかに伊予松山城(愛媛県松山市)・洲本城(兵庫県洲本市)・米子城(鳥取県米子市)の3城のみである。

さらに、彦根城では内堀に面した城内側の「黒門」を基点として「表御門」・「大手門」・「山崎門」のそれぞれの間で鉢巻石垣と腰巻石垣がみられる。
鉢巻石垣は土塁の天端上面に数段の石を積み、上部に建つ建築物の基礎となるもので、腰巻石垣は土塁の崩落を防ぐために、土塁の基底部を石垣としたものである。
鉢巻石垣や腰巻石垣は関東地方で特徴的なもので、江戸城会津若松城などで取り入れられている。
こうした鉢巻石垣や腰巻石垣が、西国の彦根城で取り入れられた背景については、天下普請により彦根城の築城工事を手伝った関東地方の大名によるものなのか、などの視点からの検討が必要であろう。

彦根城の現存建造物

彦根城の建造物には、国宝天守5城の一つである天守をはじめ、国宝や重要文化財に指定の建造物が多く現存している。
国宝は本丸の天守と附櫓及び多聞櫓、重要文化財は、本丸の天秤櫓と太鼓門及び続櫓、西の丸三重櫓及び続櫓、二の丸にある佐和口多聞櫓と馬屋であり、その特徴を整理すると以下のとおりである。

【天守、附櫓及び多聞櫓】
天守は3重3階の独立天守で北西隅に附櫓が付き、さらに長い多聞櫓が連なる。
通し柱を用いずに各階ごとに積み上げていき、その櫓の上に高欄を持つ望楼(ぼうろう)を上げた「望楼型」と呼ばれる古い型式の天守である。
石垣内に階段室があり、破風を多く用い、花頭(かとう)窓を2階にも配した独特な意匠(いしょう)が特徴的である。
一重目は入母屋(いりもや)の屋根に切妻破風(きりづまはふ)あるいは千鳥(ちどり)破風が付く。
二重目は白漆喰(しっくい)の大壁に花頭窓があり、腰屋根を廻し軒唐(のきから)破風と入母屋破風が付く。
三重目は、二重目と同様の壁で外側の四隅に高欄付きの廻縁があり、入母屋の屋根に軒唐破風が付く。

天守は1604年(慶長9年)に築造が始まり、完成時期は『井伊年譜』の1606年(慶長11年)の記事に「彦根天守成就」とある。
1960年(昭和35年)の天守の解体修理の際、天守2重目の東北隅木(すみき)に「慶長拾壱年午五月」、3重目の東南隅木に「慶長拾壱年六月二日」という墨書(ぼくしょ)が発見された。
この墨書から、彦根城天守は1606年(慶長11年)5月から6月にかけて、屋根を支えるための骨組み(小屋組)が2重目、3重目と組み上げられたことが分かり、『井伊年譜』の記述を裏付けている。

また、1960年(昭和35年)からの解体修理では、彦根城天守が大津城天守の旧材を転用していることが明らかとなった。
柱・桁(けた)・梁(りょう)、敷鴨居(しきかもい)、長押(なげし)、高欄の笠木(かさぎ)などの大津城天守の部材が発見され、これらは彦根城の天守や附櫓の桁・梁・側柱・土台などに転用されたことが確認された。
各部材に付けられていた符号・番付、部材の寸法などを根拠にして、前身の建物の復元を試みたところ、大津城の4重5階の望楼型天守を解体し、その旧材を組み上げて3重3階の天守が建てられたことが判明した。




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【太鼓門及び続櫓】
太鼓門及び続櫓は、本丸表口に位置しており、続櫓として多聞櫓を脇に備える櫓門である。
解体修理に伴う部材調査により、どこかの城郭か寺院の大規模な櫓門を縮小しながら移築したものであることが判明している。
櫓部分には勾欄(こうらん)が備わっており、往時はその名のとおり太鼓を置き、周囲に時刻を知らせていたという。

【天秤櫓】
天秤櫓は本丸の南、大手門と表御門からの両坂道を登りつめたところに所在し、櫓門と2基の二重櫓、多聞櫓からなる。
目前の廊下橋は戦時には落とし、敵の侵入を防ぐ重要な拠点であると伝えられている。
この廊下橋に接続する櫓門を中央にして、両坂道に面している多聞櫓の両端に二重櫓を置いている。
その姿は左右対称で天秤に似ていることから、天秤櫓と称されている。
『井伊年譜』には「鐘丸廊下橋多門櫓は長濱大手の門之由但楠木にて造」との記載から、長浜城から移築されたものと伝えられている。

【西の丸三重櫓及び続櫓】
西の丸三重櫓は両側に多聞櫓を備える格式高いもので、小谷城(滋賀県長浜市)から移築されたものと伝えられている。
三重櫓が建つ場所は、さらに西側の出曲輪との間に深い堀切があり、搦手から侵入する敵に備える守りの要である。
『井伊年譜』に「西丸三階櫓は木俣土佐へ御預也、一月に廿日程づつ土佐相詰候由」という記述がある。
この記述から、西の丸三重櫓は彦根城の完成時には、彦根藩家老・木俣家が預かり、執務の場所であったことが分かる。

【二の丸佐和口多聞櫓】
佐和口多聞櫓は、二の丸への3箇所の出入口(佐和口・京橋口・船町口)のうち、南東の佐和口の彦根駅方面からは向かって左側に所在している。
この多聞櫓は佐和山城からの移築と伝えられているが、1767年(明和4年)の火災で類焼し、現在の建物は1769年(明和6年)から1771年(明和8年)にかけて再建されたものある。
明治維新後に櫓門は失われたが、本来は右側にも多聞櫓(現、開国記念館)が存在したと考えられている。

【馬屋】
馬屋は佐和口から表御門への道筋、内堀と道路を隔てて建ち、全国でも彦根城にしかない希少な建物である。
こけら葺きの屋根の建物はL字形をしており、佐和口の櫓門に接する東端に畳敷の小部屋、反対の西端近くに門があり、そのほかはすべて馬立場(うまたちば)と馬繋場(うまつなぎば)となっている。
藩主などの馬21頭がつながれていたと伝わり、2015年度(平成27年度)に2度目の本格的な文化財保存修理を終え、往時の姿を取り戻している。

以上の国宝・重要文化財の建造物のほかにも、井伊直弼(なおすけ)が青春時代を過ごした「埋木舎(うもれぎのや)」、中級武家屋敷の典型である「旧池田屋敷長屋門」などが現存している。
また、江戸時代前期に作庭された池泉(ちせん)回遊式庭園である玄宮園や、1677年(延宝5年)に4代藩主・井伊直興(なおおき)によって造営された下屋敷の楽々園といった名勝も整備されている。

彦根城の特徴

彦根城は徳川方の軍事拠点として短期間での築城が求められ、1604年(慶長9年)からの築城工事は7ヶ国12大名に工事を割り当てる天下普請でおこなわれた。
そのため、石垣の石材、門、櫓などの建造物は、佐和山城・大津城・長浜城・安土城などの各城郭の建物や旧材が転用された。
このことについて、1960年(昭和35年)からの解体修理に伴う部材調査などにより、以下のことが判明している。
例えば、彦根城天守は大津城の4重5階の天守を解体した旧材を転用して、3重3階に組み上げたこと、太鼓門櫓は、とある城郭か寺院の大規模櫓門を縮小・移築したものであることである。
また、天秤櫓は長浜城、西の丸三重櫓は小谷城、そして山崎三重櫓は長浜城の天守を移築したものであると伝えられている。

彦根城の縄張り(構造)の特徴は山頂部から山下の平地までを城域にし、内堀・中堀・外堀によって、本丸・西の丸などの主要部、上級家臣の屋敷地である二の丸、下級家臣の屋敷地と町屋に明瞭に分かれていることである。
北進してくる外敵に対して善利川を第一次防御線とし、内堀・中堀・外堀により幾重にもわたる防御網が形成されていた。
また、狭義の城郭ともいえる主要部は山城部分と平城部分とに分かれ、山城部分から平城部分にかけては竪堀と5本の登り石垣が一体となって防御性を高めている。
さらに、門が枡形になっており、天守に通じる唯一の道にある廊下橋が簡単に落とせる仕組み、廊下橋の奥にある天秤櫓の小窓など、敵の侵入を防ぐ工夫が随所にみられる。

彦根城は、大坂城の豊臣秀頼や西国の外様大名に備えて、水上・陸上交通の要衝を押さえるために短期間で築かれた極めて防御性に優れた城であり、江戸時代は彦根藩主・井伊家の居城として政治の中心であった。
彦根城は1992年(平成4年)に世界遺産暫定リストに登録されて以降、世界遺産登録に向けてさまざまな取組がおこなわれているが、その詳細は周知されているのであろうか。




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今後、取組状況や成果をより一層、周知することで広く支援を求め、世界遺産登録の実現を目指してほしい。

<主な参考文献>
・加藤 埋文 2021年『家康と家臣団の城』KADOKAWA
・先山 徹、他 2010年「特別史跡彦根城跡石垣総合調査報告書」『彦根市文化財調査報告書3』彦根市教育委員会文化財部文化財課
・土屋 純一・城戸 久 1938年『近江彦根城天守建築考』日本建築学会〈建築學會論文集〉
・平井 聖、他 1980年『日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井』新人物往来社
・村田修三・角田誠 2002年「山城から平山城へ」(週刊朝日百科20『日本の歴史 中世Ⅱ-⑩城 山城からヘラ磁路へ』所収)朝日新聞社
彦根城(彦根市公式ホームページ)

(寄稿)勝武@相模

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