望月六郎とは 真田家家臣・真田十勇士

 望月六郎の別の名は、望月幸忠、望月六郎兵衛幸忠、望月卯左衛門幸忠などがある。

 真田家に仕えた真田忍者とされ、真田十勇士の一人。
 望月太郎左衛門の長男として、1572年?に望月六郎が誕生したものと考えられ。

 父・望月太郎左衛門は、真田幸隆の代からの真田家譜代の重臣として名が見られ、子の望月六郎も海野六郎兵衛らと同じように、幼少時代から真田幸村の小姓として仕えたようだ。

 名前は望月六郎の他にも多数あり、望月主水、望月卯左衛門、望月宇右衛門、望月六右衛門、望月善太夫、望月六郎次、望月高野小天狗、そして望月村雄(むらかつ)など名を代えている。



望月家

 望月家は53あったとされる、甲賀流の上忍家の1つで、望月家は海野家や根津家といった、滋野一族は巫祝集団であった。
 飯道山を中心とした修験者を統括する神人の集団で、近江の住人諏訪三郎こと甲賀三郎兼家が約33年間、地底をさまよって、蛇体となると、諏訪に現れて定着し、望月氏の祖となったとの伝承になっている。

 望月氏は修験者を情報網の中心にして情報収集にも当たらせていた。
 武田信玄の家臣・望月盛時の奥方である望月千代は、のちに甲斐・信濃の巫女頭となると、女性謀報集団(くノ一)を組織して、女性の立場から情報収集も行い、武田家の情報網の一翼を担っていた。
 望月六郎は、海野六郎兵衛や穴山小助らと同じく、真田家の正規家臣でありながら、鷲塚佐助霧隠才蔵のような忍びとして情報収集活動もおこなった。

 特に望月六郎は火薬、爆薬など火術に秀でていたとされ、大筒や地雷火なども製造している。
 また謀報と火術に長け、真田幸村を補佐した。

1584年、望月六郎は僅か13歳ながら真田幸村に従い賤ヶ岳合戦に参戦。海野六郎兵衛と行動をともにし、主に謀報活動を行う。
1585年、真田幸村が人質として春日山城海津城に赴く際、それに小姓として従う。
1586年、真田幸村の北条攻めに従軍。謀報活動や大筒、地雷火などで敵軍を翻弄する。
1589年、真田幸村の小田原攻めに従軍。
1590年、真田幸村が人質として大阪へ赴く際、真田幸村とは別行動。主に謀報活動を行う。
1600年、関ヶ原合戦では、真田幸村と西軍につき、上田城に籠る。関ヶ原合戦での敗戦後は、真田昌幸・幸村父子に伴い九度山へ従った275人のうちの1人であり、青柳清庵高梨内記らとともに最後まで九度山に残った数少ない武将といわれる。
1614年、大阪の陣では真田幸村とともに大阪城へ入城する。 神崎川の戦いで真田大助を守り、関東勢を尼ヶ崎まで敗走させた。
1615年、真田幸村の補佐役に徹した、望月六郎は影武者の1人として突撃し、壮絶な最期を遂げている。

 

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