真田家の強さは、なんといっても情報収集に秀でた忍者です。
真田の里は信濃修験道の聖地である「四阿山」を背後に控え、古くから山伏との関係がありました。
そんな忍者を多数採用していたと言われる真田昌幸の真田忍者をご紹介。
禰津信政
禰津信政(ねづのぶまさ)の通称は神平(しんぺい)。
真田幸隆・真田昌幸に仕えた忍者集団の頭領で、禰津家は元々鷹匠の家だった。
甲陽流忍術の家元として知られ、のちに女忍者集団「禰津流くの一」を多数輩出。
出浦盛清
・出浦盛清(いでうらもちきよ)は、こちらのページに詳細を掲載。
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横谷幸重
横谷幸重(よこやゆきしげ)の通称は左近。
雁ヶ沢城を本拠とする豪族であったが、真田昌幸・真田信之の2代に仕えた。
出羽清種と共に、真田忍者集団の頭領の双璧として並んで称されている。
真田昌幸が参加した、ほぼ全ての合戦にてその名が見受けられる。
割田重勝
割田重勝(わりたしげかつ)は、吾妻横尾村を知行した割田与兵衛の子で、割田下総守。
武田家の時代に沼田城攻めにて小荷駄奉行としても名が見られ「吾妻七騎」の1人に数えられ、勇猛かつ「第一忍の上手古今無双」と称されている。
かなりの腕だったようで、忍びの達人と言われ、1585年、北条家が真田昌幸の沼田城を攻めた際に、敵将・松田憲秀から名馬を奪った逸話などが残されている。
大坂の陣のあと、盗みを働いたために真田信之の家臣・出浦盛清(真田忍者の頭領)の手により討たれた。
唐沢玄蕃
・唐沢玄蕃(からさわげんば)は、こちらのページに詳細を掲載。
鷲塚佐太夫
鷲塚佐太夫(わしづかさだゆう)は、真田昌幸配下の真田忍者として名を見かける。鷲塚佐太夫の子が、猿飛佐助だという説もあるが・・。
これだけ忍者活動をした武将についての記録が残されているのは珍しい。
本来、忍者はお家の御家帳にもその名は掲載されないので、存在がわからない事が多い。
真田家の場合、隠密・忍者・草の者を下級武士として迎えていたと考えられ、真田昌幸が、忍者らを大切にした故に、名が後世に知られる忍者がおり、真田十勇士に繋がったとも言えるだろう。