青柳清庵~九度山に同行した真田家臣と青柳千弥?

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青柳清庵(あおやぎ-せいあん)は戦国時代の1550年?生まれとされる。
元々、青柳家と言うのは、北信濃で君臨した村上義清の家臣で、武田信玄が川中島へ進出を図った際に、真田幸隆によって調略されて、武田家臣になった。
この時、青柳近江守、青柳伊勢守と言う武将も武田家臣となっている。

武田家において青柳家は、真田家の家臣に組み込まれ、武田勝頼が自刃して滅亡したあとは、真田昌幸を頼った。

その真田家の重臣が青柳頼長(青柳青庵頼長)、すなわち青柳清庵と言う事になる。
青柳清安、青柳長迪とも言う。




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1600年の関ヶ原の戦いの際には、第2時上田城の戦いにて徳川秀忠勢と戦った。

その後、蟄居となった真田昌幸と真田信繁(真田幸村)に従って、高梨内記池田綱重らと九度山に同行。
この時同行したメンバー16名は、池田長門守、原出羽守、高梨内記、小山田治左衛門、田口久左衛門、窪田作之丞、関口角左衛門、関口忠右衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井舎人、前島作左衛門、三井仁左衛門、大瀬儀八、そして青柳清庵となる。

青柳清庵は真田昌幸の死後も、そのまま九度山にて真田信繁に仕え、苦労を共にした数少ない家臣のひとりとなったようだ。

1614年に真田信繁(真田幸村)が豊臣秀頼の招きに応じて、大阪城に入った際には、三井豊前・高梨采女・青柳千弥と言う武将がいる。

この青柳千弥は、青柳清庵の事であると推定されており、高梨采女は高橋内記と考えられており、真田信繁(真田幸村)を補佐して大阪の陣にて戦った。

高野山蓮華定院の書物では、青柳千弥は良く働き、討死しけりとある。

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