真田信繁(真田幸村)ゆかりの「春日山城」の歴史~築城・普請・廃城~
築城時期「春日山城」(新潟県上越市)は、室町時代・戦国時代・江戸時代初期の戦乱の中で、越後(現新潟県)の守護代長尾氏・戦国大名上杉氏・近世大名堀氏の本城として機能し、1605(慶長10)年に廃城となった。その築城時期について、もっとも早い時...
真田家関連の城跡情報
築城時期「春日山城」(新潟県上越市)は、室町時代・戦国時代・江戸時代初期の戦乱の中で、越後(現新潟県)の守護代長尾氏・戦国大名上杉氏・近世大名堀氏の本城として機能し、1605(慶長10)年に廃城となった。その築城時期について、もっとも早い時...
武田氏滅亡後の真田氏の動向と信繁真田信繁の父・真田昌幸は1582(天正10)年3月に武田家が滅亡すると織田信長に服属した。昌幸は信濃佐久・小県2郡と上野国を管轄した滝川一益の与力となり、「厩橋城」に母・恭雲院と次男で当時11歳の弁丸(信繁)...
「新府城」の構造「新府城」は 1581(天正9)年、真田昌幸らを普請奉行として築城された。築城経緯等については、真田昌幸が築城に関わった「新府城」~築城背景を探る~を参照いだきたい。城の構造は、山頂の本丸を中心に、西に二の丸、南に西三の丸と...
「新府城」の概要「新府城」は韮崎市の北方、「七里岩」の台地南端の小山に築かれた戦国時代末期の山城である。「七里岩」は八ヶ岳の火砕流によって形づくられ、長野県境から韮崎までの釜無川左岸に約30㎞にわたり高さ70m前後の急な崖が続く。その台地上...
上野・白井城「白井城」は群馬県渋川市白井に位置する室町時代から江戸時代初期の城郭である。利根川と吾妻川の合流地点、吾妻川側の断崖上に築かれ、越後(新潟県)から関東平野への出入り口を抑える要衝であった。「白井城」へのアクセスは、関越自動車道の...
はじめに真田幸綱(幸隆)は、1541(天文10)年5月の海野平の戦いで敗北すると、海野一族ともに上野(こうずけ)国に逃れ、「箕輪(みのわ)城」の城主・長野業正(なりまさ・業政とも)のもとで3年間ほど亡命生活を送ったとされている。「箕輪城」は...
はじめに真田一族の主な城郭には、室町時代からの「真田本城」・「松尾古城」(長野県上田市)、武田信玄の幕下となった真田幸隆が1551(天文20)年に攻略し本拠とした「戸石城」(長野県上田市)、1563(永禄6)年に攻略した新たな本拠とした「岩...
従来の真田丸真田丸は1615年の大坂冬の陣において、大坂城に入城した真田信繁(幸村)が造営した出丸である。信繁は作戦方針を巡り、後藤又兵衛らの浪人衆とともに、城から打って出る積極策を提案するが、大野治長らの豊臣家直臣に阻まれ籠城策に決まった...
二度にわたり徳川の大軍を撃退した「上田城」は、1583(天正11)年に真田昌幸が築城し、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後に堀が埋められ、塀が壊されるなど徹底的に破却された。現在の「上田城」は、1622(元和8)年8月に真田信之(昌幸長男...
徳川家康の命を受けて真田昌幸が築城した「上田城」は、二度にわたって徳川の軍勢の攻撃を受け、それを撃退している。一度目は、「上田城」築城直後の 1585 (天正 13 )年閏8月、徳川勢7,000 余を撃退した第一次上田合戦(「神川合戦」)で...