鬼小十郎の城「白石城」の謎に迫る~石垣の調査と発掘調査から~
はじめに真田信繁(幸村)の遺児である阿梅は、大坂の陣ののち伊達政宗の重臣・片倉小十郎の側室となり、その弟の真田大助も伊達家の家臣となった。片倉家が代々城主を務めた白石城は謎の城と言われるほど、築城主や築城時期、二階櫓から三階櫓への改築の有無...
真田家関連の城跡情報
はじめに真田信繁(幸村)の遺児である阿梅は、大坂の陣ののち伊達政宗の重臣・片倉小十郎の側室となり、その弟の真田大助も伊達家の家臣となった。片倉家が代々城主を務めた白石城は謎の城と言われるほど、築城主や築城時期、二階櫓から三階櫓への改築の有無...
はじめに真田信繁(真田幸村)の遺児である阿梅や真田大八(片倉守信)が過ごした白石城は、明治維新を機に廃城となった。現在は1992年(平成4年)からの復元工事により、天守の代わりをつとめた三階櫓などが復元されている。築城から廃城まで主なものだ...
真田信繁(真田幸村)の遺児である阿梅とその弟・真田大八(片倉守信)の墓が宮城県白石市の「功徳山当信寺」にある。1615(慶長20)年の大坂夏の陣において真田信繁(幸村)が討死した後、阿梅は伊達政宗の重臣である片倉重長の継室となり、真田大八は...
はじめに豊臣秀吉が晩年の城郭である「伏見城」(「指月伏見城」と倒壊後の「木幡山伏見城」)の築城には、真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子もそれぞれ人夫や用材などを負担するなど築城に関わった。その経緯については豊臣秀吉晩年の城・「伏見城」~築城経...
概要真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子は、1592(文禄元)年から1598(慶長3)年までの朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)において豊臣秀吉が本陣とした「名護屋城」(佐賀県唐津市)に滞在した。「名護屋城」は玄海灘に突き出した波戸岬の付け根に当た...
朝鮮出兵の概要全国統一を果たした豊臣秀吉は明の征服を試み、1587(天正15)年、対馬の大名・宗義智を通して朝鮮に入貢と明への出兵の先導を命じたが拒否された。秀吉は肥前(佐賀県)の東松浦半島の北端に「名護屋城」(佐賀県唐津市)を築き、そこを...
概要豊臣秀吉の小田原攻めにおいて、北国勢に属した真田昌幸と信幸・信繁父子は「鉢形城」(埼玉県大里郡寄居町)攻めに参加した後、浅野長吉(長政)とともに「忍城」(埼玉県行田市)攻めに参加した。 「忍城」は室町時代中期に成田氏によって築城されたと...
概要豊臣秀吉の小田原攻めの際、北国勢に属した真田昌幸と信幸・信繁父子は、「松井田城」(群馬県安中市松井田町)・「箕輪城」(群馬県高崎市箕郷町)など上野(こうずけ)にある北条氏の城攻めで活躍した。その後も「鉢形城」(埼玉県大里郡寄居町大字鉢形...
1589年(天正17年)10月、豊臣秀吉の裁定で真田昌幸の持ち城とした「名胡桃城」(なぐるみ-じょう)を北条氏が策謀によって奪うという事件がおきた。秀吉はこの事件をきっかけに1590(天正18)年3月から小田原攻めを開始、真田一族も前田利家...
「春日山城」の構造(縄張)現在、「春日山城」の遺構は春日山を中心に60万㎡以上の面積に広がり、きわめて大規模なものである。標高約180mの山頂の「実城」(本丸)を核とする本城地区を中心に、その周囲の4㎞内を固めている砦・番所地区、城内家臣屋...