真田幸綱(真田幸隆)・信綱父子が攻略した「白井城」~上杉氏・武田氏・北条氏の争いの舞台~
上野・白井城「白井城」は群馬県渋川市白井に位置する室町時代から江戸時代初期の城郭である。利根川と吾妻川の合流地点、吾妻川側の断崖上に築かれ、越後(新潟県)から関東平野への出入り口を抑える要衝であった。「白井城」へのアクセスは、関越自動車道の...
真田家関連の城跡情報
上野・白井城「白井城」は群馬県渋川市白井に位置する室町時代から江戸時代初期の城郭である。利根川と吾妻川の合流地点、吾妻川側の断崖上に築かれ、越後(新潟県)から関東平野への出入り口を抑える要衝であった。「白井城」へのアクセスは、関越自動車道の...
はじめに真田幸綱(幸隆)は、1541(天文10)年5月の海野平の戦いで敗北すると、海野一族ともに上野(こうずけ)国に逃れ、「箕輪(みのわ)城」の城主・長野業正(なりまさ・業政とも)のもとで3年間ほど亡命生活を送ったとされている。「箕輪城」は...
はじめに真田一族の主な城郭には、室町時代からの「真田本城」・「松尾古城」(長野県上田市)、武田信玄の幕下となった真田幸隆が1551(天文20)年に攻略し本拠とした「戸石城」(長野県上田市)、1563(永禄6)年に攻略した新たな本拠とした「岩...
従来の真田丸真田丸は1615年の大坂冬の陣において、大坂城に入城した真田信繁(幸村)が造営した出丸である。信繁は作戦方針を巡り、後藤又兵衛らの浪人衆とともに、城から打って出る積極策を提案するが、大野治長らの豊臣家直臣に阻まれ籠城策に決まった...
二度にわたり徳川の大軍を撃退した「上田城」は、1583(天正11)年に真田昌幸が築城し、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後に堀が埋められ、塀が壊されるなど徹底的に破却された。現在の「上田城」は、1622(元和8)年8月に真田信之(昌幸長男...
徳川家康の命を受けて真田昌幸が築城した「上田城」は、二度にわたって徳川の軍勢の攻撃を受け、それを撃退している。一度目は、「上田城」築城直後の 1585 (天正 13 )年閏8月、徳川勢7,000 余を撃退した第一次上田合戦(「神川合戦」)で...
「上田城」は上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面しており、「尼ヶ淵城」とも呼ばれた。1583(天正11)年に真田昌幸が築城し、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いまで真田氏の本城として領国支配の中心であった。この城には、158...
「名胡桃城」は、利根川と赤谷川の合流点から南西の河岸段丘上、標高約 430m のところに位置する中世城郭である。この地は越後方面から三国峠を越えて沼田、中山へ至る交通の要地で、現在も城の南西を国道 17 号バイパス(月夜野バイパス)が通って...
真田幸隆・真田昌幸や真田信之・真田幸村と言った真田家にもゆかり深い吾妻の岩櫃城(いわびつじょう)。岩櫃城は、最初、鎌倉時代の吾妻太郎助亮が築城したと言う地元の伝承があるが、不明瞭な点が多く、築城年・築城主は不明と言った方が良いだろう。加沢記...
松代城松代城(まつしろじょう)は戦国時代には海津城(かいづじょう)と呼ばれていた輪郭式平城で、国の史跡に指定されています。別名は、貝津城、長野城、茅津城(かやつ)とも言います。築城時期は不明ですが、武田信玄が善光寺平に進出すると、ここにあっ...