真田昌幸が築城に関わった「新府城」~築城背景を探る〜
「新府城」の概要「新府城」は韮崎市の北方、「七里岩」の台地南端の小山に築かれた戦国時代末期の山城である。「七里岩」は八ヶ岳の火砕流によって形づくられ、長野県境から韮崎までの釜無川左岸に約30㎞にわたり高さ70m前後の急な崖が続く。その台地上...
「新府城」の概要「新府城」は韮崎市の北方、「七里岩」の台地南端の小山に築かれた戦国時代末期の山城である。「七里岩」は八ヶ岳の火砕流によって形づくられ、長野県境から韮崎までの釜無川左岸に約30㎞にわたり高さ70m前後の急な崖が続く。その台地上...
上野・白井城「白井城」は群馬県渋川市白井に位置する室町時代から江戸時代初期の城郭である。利根川と吾妻川の合流地点、吾妻川側の断崖上に築かれ、越後(新潟県)から関東平野への出入り口を抑える要衝であった。「白井城」へのアクセスは、関越自動車道の...
はじめに真田幸綱(幸隆)は、1541(天文10)年5月の海野平の戦いで敗北すると、海野一族ともに上野(こうずけ)国に逃れ、「箕輪(みのわ)城」の城主・長野業正(なりまさ・業政とも)のもとで3年間ほど亡命生活を送ったとされている。「箕輪城」は...
はじめに真田一族の主な城郭には、室町時代からの「真田本城」・「松尾古城」(長野県上田市)、武田信玄の幕下となった真田幸隆が1551(天文20)年に攻略し本拠とした「戸石城」(長野県上田市)、1563(永禄6)年に攻略した新たな本拠とした「岩...
真田丸の戦い大坂城へ入城した真田信繁は、明石全登、後藤基次、長宗我部盛親、毛利勝永とともに、浪人衆を率いる一軍の将に任命された。10月中旬の軍議で信繁は、豊臣秀頼自ら天王寺まで出撃し、信繁・勝永・基次らが宇治・瀬田に陣を構え、徳川方の大軍を...
出羽・大館城の城下町になる秋田県大館市には、真田幸村の墓(真田信繁の墓)と伝わる墓石があります。ずっと宿題(課題)として残っておりましたが、ようやく秋田・大舘にある伝・真田幸村の墓をお参りさせて頂きました。秋田にある真田幸村の墓は、大館の「...
真田信繁は真田昌幸の次男として上田で生まれたが、出生年については1567(永禄10年と1570(元亀元)年とする説がある。「幸村」の名で知られているが、当時代の確実な資料では確認できないので「信繁」を使用する。真田一族は武田信玄に仕えていた...
【「海津城」としての歴史】「松代城」は善光寺平の南東部、千曲川東岸の微高地に築かれた平城で、1560(永禄3)年頃に、武田信玄の命により「海津城」として築かれた。『甲陽軍艦』では、1553(天文22)年に清野屋敷を召し上げて、山本勘介の縄割...
徳川家康の命を受けて真田昌幸が築城した「上田城」は、二度にわたって徳川の軍勢の攻撃を受け、それを撃退している。一度目は、「上田城」築城直後の 1585 (天正 13 )年閏8月、徳川勢7,000 余を撃退した第一次上田合戦(「神川合戦」)で...
「上田城」は上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面しており、「尼ヶ淵城」とも呼ばれた。1583(天正11)年に真田昌幸が築城し、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いまで真田氏の本城として領国支配の中心であった。この城には、158...